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{{別人|x1=初名が「徳川義知」の尾張徳川家初代藩主の|徳川義直|x2=写真家の|徳川慶朝}}
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{{記事名の制約|title=德川義知}}
{{Infobox 人物
|氏名 = 徳川 義知
|ふりがな = とくがわ よしとも
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|画像説明 =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1911|05|22|no}}
|生誕地 = {{JPN}} [[東京都]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|05|22|1992|04|14}}
|死没地 =
|職業 = [[日本赤十字社]]常任理事
|出身校 = [[暁星中学校]]卒業
|配偶者 = [[徳川正子 (尾張徳川家)|徳川正子]]([[松平恆雄]]の次女)
|子供 = [[徳川三千子]](長女)<br />[[徳川義宣]](養子)
|親 = [[徳川義親]](父)<br >[[徳川米子]](母)
}}
'''徳川 義知'''(とくがわ よしとも、[[1911年]][[5月22日]] - [[1992年]][[4月14日]])は、[[尾張徳川家]]第20代当主。[[日本赤十字社]]常任理事。
 
養子の[[徳川義宣|義宣]]([[堀田正恒]]の六男、娘・三千子の夫)は[[美術史家]]。
 
== 経歴 ==
[[福井藩]][[松平春嶽]]の子である[[徳川義親]]の長男として[[東京]]に生まれる。母・[[徳川米子|米子]]は[[尾張徳川家]]第18代当主[[徳川義礼|徳川義禮]]の長女。[[幼名]]'''[[徳川五郎太#備考尾張徳川家嫡男の幼名「五郎太」|五郎太]]'''。[[暁星中学校]]に学ぶ。
 
[[1931年]]6月、[[華族]]の長男の慣わしに従って成人時に[[従五位]]となる。このとき'''義知'''と改名する。以後、2年以上にわたって[[イギリス]]に留学する。この間、[[1931年]]12月、義親が[[財団法人]][[徳川黎明会]]を設立したことに伴って同会の副会長に就任する。
 
[[1934年]]11月に帰国、[[1935年]]8月から東京帝室博物館(現在の[[東京国立博物館]])に[[研究員]]として勤務する。同年10月、[[松平雄]]の次女・[[徳川正子 (尾張徳川家)|正子]]と結婚する。[[啓明寮]]の寮長に就任する。
 
[[1942年]]3月、父義親と共に[[マレー半島|マレー]]に渡り、[[ジョホール州]]の施政に尽力する。帰国後、[[1943年]]12月からは[[東京市]][[大森区]]の[[東京俘虜収容所]]に勤務する。ここでは英米人たちの世話役として俘虜たちに寛容さを示し、戦後に感謝状を受けた{{要出典|date=2021年11月}}
 
[[19311945年]]69月、[[華族日本赤十字社]]の長男の慣わし従って成人時入社、社会福祉事業[[従五位]]となる。このとき'''義知'''と改名する。以後、2力を注ぐ{{要出典|date=2021以上にわたって[[イギリス]]に留学する11月}}この間、[[19311946年]]121月、義親の[[公職追放]]を受けて財団法人[[徳川黎明会]]を設立したことに伴って同会の会長に就任、財団および[[徳川美術館]]の復興に貢献する{{要出典|date=2021年11月}}
 
[[1951年]]から[[日英協会]]理事{{要出典|date=2021年11月}}。[[1967年]]、日英親善の功績が認められ、女王[[エリザベス2世]]から[[大英帝国勲章|名誉大英勲章]](Honorary Commander of the Most Excellent Order of the British Empire)を受ける{{要出典|date=2021年11月}}。[[1965年]]から死去するまで日英協会協会副会長{{要出典|date=2021年11月}}。[[1977年]]、[[日本]]と[[マレーシア]]の友好親善に尽くした功績が認められ、[[マレーシア連邦]][[ジョホール王国]]の[[スルターン|スルタン]]から最高勲章Darjah Kerabat Johor Yang Amat Dihormatiを受ける{{要出典|date=2021年11月}}
[[1934年]]11月に帰国、[[1935年]]8月から東京帝室博物館(現在の[[東京国立博物館]])に[[研究員]]として勤務する。同年10月、[[松平恒雄]]の次女正子と結婚する。[[啓明寮]]の寮長に就任する。
 
== 栄典 ==
[[1942年]]3月、父義親と共に[[マレー半島|マレー]]に渡り、[[ジョホール州]]の施政に尽力する。帰国後、[[1943年]]12月からは[[東京市]][[大森区]]の[[東京俘虜収容所]]に勤務する。ここでは英米人たちの世話役として俘虜たちに寛容さを示し、戦後に感謝状を受けた。
* [[1931年]](昭和6年)[[6月1日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第1342号「叙任及辞令」1931年6月22日。</ref>
* [[1939年]](昭和14年)[[2月27日]] - [[紺綬褒章]]<ref>『官報』第3644号「彙報 - 褒賞」1939年3月1日。</ref>
 
== 家族 ==
[[1945年]]9月、日本赤十字社に入社、社会福祉事業に力を注ぐ。[[1946年]]1月、義親の[[公職追放]]を受けて財団法人徳川黎明会の会長に就任、財団および[[徳川美術館]]の復興に貢献する。
* 父:[[徳川義親]]([[尾張徳川家]]第19代当主)
* 母:[[徳川米子]](第18代当主・[[徳川義礼|徳川義禮]]の長女)
* 妻:[[徳川正子 (尾張徳川家)|徳川正子]]([[松平恆雄]]の次女)
**長女:[[徳川三千子|三千子]]([[徳川義宣]]夫人)
**次女:博子([[高橋是修]]夫人)
**長男:徳川五郎太<ref>([[1940年]][[6月2日]] - ?)</ref>
**養子:[[徳川義宣]](尾張徳川家第21代当主)
 
== 脚注 ==
[[1951年]]から[[日英協会]]理事。[[1967年]]、日英親善の功績が認められ、女王[[エリザベス2世]]から[[大英帝国勲章|名誉大英勲章]](Honorary Commander of the Most Excellent Order of the British Empire)を受ける。[[1965年]]から死去するまで日英協会協会副会長。[[1977年]]、[[日本]]と[[マレーシア]]の友好親善に尽くした功績が認められ、[[マレーシア連邦]][[ジョホール王国]]の[[スルターン|スルタン]]から最高勲章Darjah Kerabat Johor Yang Amat Dihormatiを受ける。
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{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 徳川義宣『徳川さん宅(ち)の常識』 ([[淡交社]])[[2006年]] ISBN 4473033120
 
{{尾張徳川家|||第20代}}
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[[Category:東京国立博物館の人物]]
[[Category:尾張徳川家|よしとも]]
[[Category:大英帝国勲章受章者]]
[[Category:日馬関係]]
[[Category:日英関係]]