削除された内容 追加された内容
Carkuni (会話 | 投稿記録)
m sty
編集の要約なし
 
(23人の利用者による、間の30版が非表示)
1行目:
{{武士/開始別人|内藤信}}
'''内藤 信良'''(ないとう のぶよし)は、[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]の第2代[[藩主]]。
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 内藤信良
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =内藤信良像([[藤基神社]]蔵)
{{武士/| 時代| = [[江戸時代]]前期}} - 中期
| 生誕 = [[寛永]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]([[1625年]][[12月12日]])<ref>「越後村上 内藤家譜」</ref>
{{武士/| 死没| = [[元禄]]8年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1695年]][[9月1日]])}}
{{武士/| 改名| = 犬千代(幼名)}}、信良
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
{{武士/| 戒名| = 宝岩院殿静挙供安大禅定門}}居士
| 霊名 =
| 墓所 = [[新潟県]][[村上市]]羽黒口の光徳寺
| 官位 = [[淡路国|淡路守]]、[[従五位|従五位下]]・[[摂津国#武家官位としての摂津守|摂津守]]、[[豊前国#江戸時代|豊前守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家綱]]
{{武士/藩| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主}}
| 氏族 = [[Category:内藤家 (信成系)|のふよし]]
{{武士/| 父母| = 父:[[内藤信照]]、母:[[阿部正次]]の娘}}
| 兄弟 = '''信良'''、[[鳥居和俊]]室、主膳、[[内藤信全|信全]]、亀松
{{武士/| | = 正室:'''[[奥平忠昌]]の娘'''<br />継室:[[本多昌次]]の娘(越前'''[[松平直基]]の養女)}}'''
| 子 = [[岡部正敦]]室、[[内藤信貞|信貞]]、[[内藤信朋]]正室、女子、[[内藤信輝|信輝]]<br/>養子:'''''[[内藤弌信|弌信]]'''''、''[[諏訪頼秋]]室''
| 特記事項 =
}}
'''内藤 信良'''(ないとう のぶよし)は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]の第2代[[藩主。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[豊前国#江戸時代|豊前守]]。
 
== 生涯 ==
{{武士/開始|内藤信良}}
[[寛永]]2年([[1625年]])[[内藤信照]]の長男として[[江戸]]にて誕生した。寛永10年([[1633年]])に[[徳川家光]]に拝謁し、寛永18年([[1641年]])に従五位下・摂津守となった。[[寛文]]5年([[1665年]])に襲封し、豊前守に改める。寛文11年9月、弟・[[内藤信全|信全]]に新田5000石を分与し、このため棚倉藩の所領は4万5000石となった。
{{武士/時代|[[江戸時代]]前期}}
{{武士/生誕|[[寛永]]2年([[1625年]])}}
{{武士/死没|[[元禄]]8年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1695年]][[9月1日]])}}
{{武士/改名|犬千代(幼名)}}
{{武士/戒名|宝岩院殿静挙供安大禅定門}}
{{武士/墓所|[[東京都]][[文京区]]小石川の無量院<br />[[福島県]][[白川郡]][[棚倉町]]の光徳寺}}
{{武士/官位|従五位下、[[淡路国|淡路]]守、[[摂津国|摂津]]守、[[豊前国|豊前]]守}}
{{武士/藩|[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主}}
{{武士/氏族|[[内藤氏]]}}
{{武士/父母|父:[[内藤信照]]、母:[[阿部正次]]の娘}}
{{武士/兄弟|'''内藤信良'''、[[内藤信全]]}}
{{武士/妻|正室:[[奥平忠昌]]の娘<br />継室:[[本多昌次]]の娘(越前[[松平直基]]の養女)}}
{{武士/子|[[内藤信貞]](長男)、[[内藤信輝]](次男)、<br />娘([[岡部正敦]]室)、娘([[内藤信朋]]正室)<br />養子:''[[内藤弌信]]''}}
{{武士/終了}}
 
寛文13年([[1673年]])、嫡男の[[内藤信貞|信貞]]が早世した。後嗣として再従弟の[[内藤弌信|弌信]]を迎え、[[延宝]]2年([[1674年]])に家督を譲った。
寛永2年(1625年)、初代藩主・内藤信照の長男として生まれる。[[寛文]]5年([[1665年]])、父の死去で[[家督]]を継いで第2代藩主となる。寛文11年([[1671年]])9月、弟の内藤信全に新田5,000石を分与したため、棚倉藩の所領は6万5,000石となった。念仏に対する崇敬が厚く、そのため棚倉藩では念仏講が盛んに行なわれている。また、寛文8年([[1668年]])から寛文10年([[1670年]])にかけて藩内で検地を行ない、藩政の基礎固めに務めている。
 
[[元禄]]8年([[1695年]])棚倉において死去、享年71。葬地は[[棚倉町]]の光徳寺、のち[[小石川]]無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(『寛政譜』新訂13巻201頁)。現在は[[村上市]]の光徳寺に墓所がある。
寛文13年([[1673年]])に嫡男の内藤信貞が早世したため、[[延宝]]2年([[1674年]])11月16日、家督を養子の内藤弌信に譲って[[隠居]]した。元禄8年(1695年)7月23日に死去。享年71。
 
『棚倉町史 1』は棚倉藩内藤家を「[[浄土宗]]の熱狂的な帰依者」と推測し、また念仏講が盛んに行なわれたとしている。また「井上氏」の「検断日記」にこの行事に関する記事があるという(353から354頁)。
{{先代次代|[[棚倉藩|内藤氏(棚倉藩2代)藩主]]|1665 - 1674|[[内藤信照]]|[[内藤弌信]]}}
 
== 系譜 ==
[[Category:内藤家 (信成系)|のふよし]]
子女は『[[寛政重修諸家譜]]』は養子・養女を含め3男3女を記している(新訂1巻201から202頁)。
[[Category:江戸の大名|ないとう のふよし]]
 
[[Category:外様大名|ないとう のふよし]]
'''父母'''
[[Category:1625年生|ないとう のふよし]]
* [[内藤信照]](父)
[[Category:1695年没|ないとう のふよし]]
* [[阿部正次]]の娘(母)
 
'''正室、継室'''
* [[奥平忠昌]]の娘(正室)
* [[松平直基]]の養女 ー [[本多昌長]]の娘(継室)
 
'''子女'''
* [[内藤信貞]](長男)生母は継室
* [[内藤信輝]](三男)
* [[岡部正敦]]室
* [[内藤信朋]]<ref>※204頁の記述に拠る。202頁および[[東京大学史料編纂所]]蔵「越後村上 内藤家譜」では「信明」としている。分家となった信全の養子・[[内藤信有]]の嗣子。</ref>正室
* 娘
 
'''養子、養女'''
* [[内藤弌信]] ー [[内藤信光]]の子
* [[諏訪頼秋]]室 ー [[堀通周]]の娘
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 出典および参考文献 ==
*『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
*『棚倉町史 1』福島県棚倉町、1982年
*東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※[http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller 東京大学史料編纂所データベース]から検索・閲覧可能。
 
{{先代次代|[[棚倉藩|内藤氏(棚倉藩2代)藩主家 (信成系)]]4代当主|1665 - 1674|[[内藤信照]]|[[内藤弌信]]}}
{{棚倉藩主|内藤家|2代|1665年 - 1674年}}
 
[[Category{{DEFAULTSORT:外様大名|ないとう のふよし]]}}
[[Category:江戸の大名村上内藤家|ないとう のふよし]]
[[Category:棚倉藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:1625年生|ないとう のふよし]]
[[Category:1695年没|ないとう のふよし]]