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{{出典の明記|date=2023年10月3日 (火) 08:56 (UTC)}}
'''永福町検車区'''(えいふくちょうけんしゃく)は、[[東京都]][[杉並区]]に所在した京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])の[[車両基地]]。なお、本稿では併設されていた'''永福町工場'''についても記述する。
 
== 概要 ==
[[1933年]]([[昭和]]8年)の帝都電鉄線(現・[[京王井の頭線|井の頭線]])[[渋谷駅|渋谷]] - [[井の頭公園駅|井の頭公園]]間の開業と同時に[[永福町駅]]構内北側に開設され、同た。唯一の車両基地であるため、同線の全車両が留置できるよう多くの留置線が設けられた。また、[[航空機]]の格納庫を彷彿させるような車庫が建てられ、長年親しまれた。しかし[[1945年]](昭和20年)5月25日、[[東京大空襲]](山の手大空襲)により被災し、29両のうち実に24両が焼失という壊滅的な被害を受けた<ref>{{Cite web |title=戦後復興・発展期|京王グループ |url=https://www.keio.co.jp/train/museum/history/postwar.html |website=www.keio.co.jp |access-date=2024-03-19}}</ref>。これにより井の頭線は車両不足となったため、応急的に[[代田連絡線]]が敷設され、戦後にかけて他路線との間で車両の搬出入が行われることとなる
戦後、京王帝都電鉄成立後も井の頭線の車両基地として稼動したが、[[1971年]](昭和46年)の[[急行列車|急行]]の新設による永福町駅の[[待避駅|待避線]]新設などにより、[[1966年]](昭和41年)に検車区が廃止([[富士見ヶ丘駅|富士見ヶ丘]]~[[久我山駅|久我山]]間に移転)、[[1970年]](昭和45年)には工場も廃止された。
なお、格納庫型の車庫は検車区・工場廃止後も[[京王バス]]の車庫として利用されたが、[[1986年]](昭和61年)に[[解体]]された。
 
戦後、京王帝都電鉄成立後も井の頭線の車両基地として稼動したが、[[1971年]](昭和46年)の[[急行列車|急行]]の新設による永福町駅の[[待避駅|待避線]]新設などにより、[[1966年]](昭和41年)に検車区が廃止(([[富士見ヶ丘検車区]]として[[富士見ヶ丘駅|富士見ヶ丘]] - [[久我山駅|久我山]]間に移転)、[[1970年]](昭和45年))4月1日には工場も廃止され、富士見ヶ丘検車区の隣に建設された富士見ヶ丘工場に移転された。
==廃止後==
現在、検車区・工場跡地は前述の永福町駅の待避線と、[[京王バス東]][[京王バス東・永福町営業所|永福町営業所]]がある。また検車区が所在した名残で、永福町駅の[[吉祥寺駅|吉祥寺]]寄りには[[留置線]]が2線設置され、通常保線車両が留置されている。
 
なお、格納庫型の車庫は検車区・工場廃止後も[[京王電鉄バス|京王バス]]の車庫として利用されたが、[[1986年]](昭和61年)に[[解体]]された。
==関連項目==
*[[富士見ヶ丘検車区]]
 
== 廃止後 ==
{{rail-stub}}
現在、検車区・工場跡地は前述の永福町駅の待避線と、[[京王バス東]][[京王バス東・永福町営業所|永福町営業所]]がある。また検車区が所在した名残で、永福町駅の[[吉祥寺駅|吉祥寺]]寄りに[[留置線]]が2線設置され、通常保線車両が留置されている。なお、富士見ヶ丘検車区は狭小スペースにあるため新車搬入ができず、永福町営業所内に[[専用鉄道|引き込み線]]が設置されて留置線に接続しており、ここから新車が搬入される。また、この留置線では廃車となった車両の搬出も行っている。
[[category:京王電鉄|庫えいふくちょうけんしゃく]]
 
[[category:車両基地|えいふくちょうけんしゃく]]
== 関連項目 ==
* [[京王電鉄の車両検修施設]]
* [[日本の車両基地一覧]]
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
[[category{{DEFAULTSORT:車両基地|えいふくちうけんし]]}}
[[categoryCategory:京王電鉄|庫えいふくちけんしゃく]]
[[Category:日本の車両基地]]
[[Category:杉並区の交通]]
[[Category:戦前の東京]]
[[Category:戦後の東京]]
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