削除された内容 追加された内容
m 剃髪: 敬語不要
(19人の利用者による、間の45版が非表示)
3行目:
| title = 僧(そう)
| en = Sangha
| image = [[File:Phutthamonthon Buddha.JPG|thumb|right|350px|タイのサンガ280px]]
| caption= タイのサンガ
| pi = Saṅgha
| sa = संघ Saṃgha
10 ⟶ 12行目:
| zh = 僧, 僧伽, 和合眾
| zh-Latn =
| ja = 僧伽
| ja-Latn = sanga
| km = សង្ឃ<br />([[Romanization of Khmer#UNGEGN|UNGEGN]]: {{transl|km|sângkh}}; [[Romanization of Khmer#ALA-LC Romanization Tables|ALA-LC]]: {{transl|km|sanggh}})
| km =
| ko = 승가<br />僧伽
| ko-Latn = seungga
| lo =
| mnw =
| mnw-Latn =
| shn =
| shn-Latn = sangaya
| si = සංඝයා
| si-Latn =
| ta = சங்கம்
| th = (พระ)สงฆ์
| both-Latn = (phra)song
| bo = དགེ་འདུན་
| bo-Latn =
| bo-Latn = dge 'dun<ref name=Buswell-2013>{{cite book |editor1-last=Buswell |editor1-first=Robert Jr. |editor2-last=Lopez |editor2-first=Donald S. Jr. |editor1-link=Robert Buswell Jr. |editor2-link=Donald S. Lopez Jr. |title=Princeton Dictionary of Buddhism |date=2013 |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ |isbn=9780691157863}}</ref>
| vi =
| vi = Tăng đoàn<br/>Tăng già<br/>僧團<br/>僧伽
| id =
| tl = Sangha<br>ᜐᜀᜈᜄᜑᜀ
}}
'''僧'''(そう、{{lang-sa-short|संघ Saṃgha}})はサンガを音写した「'''僧伽'''」の略で[[仏教]]の[[波羅提木叉|戒律]]を守る男性の[[出家|出家修行者]]である「[[比丘]](びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと{{refnest|name="nipponica_僧"|[[平川彰]][https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「僧」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。仏教の[[三宝]]の一つ{{refnest|name="mypedia_僧"|[https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 「僧」 - 百科事典マイペディア]、平凡社}}。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる{{refnest|name="nipponica_僧"}}。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という{{refnest|name="nipponica_僧"}}。衆あるいは和合衆と訳される{{refnest|name="mypedia_僧"}}。
[[File:Phutthamonthon Buddha.JPG|thumb|right|350px|タイのサンガ]]
'''僧'''(そう、{{lang-sa-short|संघ Saṃgha}})はサンガを音写した「'''僧伽'''」の略で[[仏教]]の[[波羅提木叉|戒律]]を守る、男性の[[出家|出家修行者]]である「[[比丘]](びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと{{refnest|name="nipponica_僧"|[[平川彰]][https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「僧」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。仏教の[[三宝]]の一つ{{refnest|name="mypedia_僧"|[https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 「僧」 - 百科事典マイペディア]、平凡社}}。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる{{refnest|name="nipponica_僧"}}。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という{{refnest|name="nipponica_僧"}}。衆あるいは和合衆と訳される{{refnest|name="mypedia_僧"}}。
 
今日では、「僧伽に属する人々」の意である'''僧侶'''(そうりょ)が転じて個人を僧と呼ぶことが多くなってったが、原義として僧とは戒師により親しく[[具足戒]](波羅提木叉)を授けられ(=受戒)、これを守る出家修行者たちの集団そのものを集合的に指す<ref name=sasaki />{{efn2|「サンガとは、[[中国語]]で「衆」という意味である。「戒律を守る出家者([[比丘]])が一処に和合すること、これをサンガというのである。」原文:「[[僧伽]]、秦に衆という。多くの比丘、一処に和合する。これを僧伽となずく」(『''[[大智度論]]'' 』)</ref>}}
 
[[インドの歴史|古代インド]]では、[[仏教]]に限らず、[[婆羅門]]以外の出家者・遊行者のことを、一般に「[[沙門]]」と呼ぶ。その中でもこの仏教の僧伽の正式な構成員は、男性であれば[[比丘]](びく、乞食の意)、女性であれば[[比丘尼]](びくに)と呼び表される。
 
== サンガ(僧伽)とは ==
'''僧伽'''(サンガ)は、一般に「僧団」と言いかえられてもいるが、[[釈迦]]当時の時代から現代まで[[上座部仏教]]、[[大乗仏教]]、[[密教]]を問わず、在家信者を含まない純粋な、出家者たちの共同体である(比丘僧伽)<ref name=sasaki/>。
{{main|僧伽}}
'''僧伽'''(サンガ)は、一般に「僧団」と言いかえることもできるが、[[釈迦]]当時の時代はもちろん、現代においても[[上座部仏教]]、[[大乗仏教]]、[[密教]]を問わず、在家信者を含まない純粋な、出家者たちの共同体である。しかしながら、[[日本の仏教|日本仏教]]の各[[宗派]]の教団は、実態に於いても<ref group="注">本来は[[鑑真]]和上の戒や、その後の[[中国]]伝来の戒に繋がる[[真言宗]]や[[真言律宗]]、南都六宗の[[律宗]]、[[法相宗]]などは本来、[[具足戒]]を保持すべきであるが、現在はそうではない。</ref>、教義上からも<ref group="注">天台宗およびそこから派生した諸宗は基本的に具足戒を伝授されない。</ref>、具足戒を保つ複数の出家者が存在しないため、定義上、僧伽ではない。
 
[[大迦葉]]、[[サーリプッタ]]など仏弟子たちは、みな釈迦に以下の願いを訴え、認められて子弟となっている([[三帰依]])<ref name=sasaki>{{Cite journal|和書|title=仏教における僧伽の基本的理念について|author=佐々木教悟 |journal=佛教学セミナー |volume=18 |pages=22-36 |date=1973 |naid=120006724417}}</ref>。
元々の意味は集団や集会であり、仏教以前の時代の古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合や、貴族による共和政体などもサンガと呼んだ<ref>『仏教かく始まりき』 [[宮元啓一]] [[春秋社]] p87</ref>。
 
{{Quote|
Esāhaṃ bhante bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca.<br>
Labheyyāhaṃ bhante bhagavato santike pabbajjaṃ, labheyyaṃ upasampadanti".
 
私は、世尊、法、比丘僧伽(bhikkhusaṅghañca)へ帰依いたします。<br>
尊者よ、願わくば世尊の許しにて、出家することを得、具足戒を得んことを。
| {{SLTP|[[長部 (パーリ)|長部]] [[大師子吼経]] }} }}
 
元々の意味は集団や集会であり、仏教以前の時代の古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合や、貴族による共和政体などもサンガと呼んだ<ref>『仏教かく始まりき』 [[{{Sfn|宮元啓一]] [[春秋社]] p87</ref>|2005|page=87}}
 
===比丘・比丘尼===
{{Main|比丘|雲水}}
比丘・比丘尼は、出家者における男女の区別によるが、いずれも'''具足戒をうけた出家修行者'''を指す<ref name=sasaki>{{Cite journal|和書|title=仏教における僧伽の基本的理念について|author=佐々木教悟 |journal=佛教学セミナー |volume=18 |pages=22-36 |date=1973 |naid=120006724417}}</ref>比丘({{lang|pi|Bhikkhu}})元の言葉原義は「[[乞食]]」(こつじき)を意味している。出家者として全く生産に従事しない比丘・比丘尼は、他者から[[布施]]されるものによって、生活を維持している。衣は[[袈裟|糞掃衣]]を着し、食は「[[托鉢]]」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活したのが、これら出家者であり、現在でも比較的これらに近い生活形態は、東南アジアの上座部仏教圏で見られる。また、少数ながら大乗仏教圏でも「[[托鉢]]」は今も生きていて、中国や台湾でも見かけられることができが、現在の日本では形式化してしまっていて、それで食を得ているわけではない
 
これら比丘・比丘尼は女犯戒によって結婚はおろか接触もできないのが伝統的姿勢であるが、チベット主流であるゲルク派以外の宗派や日本(当初は各派「沙弥、比丘のいずれにしても妻帯は全く問題外のこと」としていたが、時代が下ると共に許容するようになる<ref>{{Cite journal|和書|journal=一橋論叢 |publisher=一橋大学一橋学会一橋論叢編集所 |title=チベットにおける仏教々団主の相続形態 |author=中井英基 |volume=63 |issue=6 |date=1970 |pages=82-101}}</ref>)等では妻帯による世襲を行っており{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、[[タイ王国|タイ]]や[[ミャンマー]]では儀礼として一時出家した僧侶がすぐに還俗して子を成すことが珍しくない<ref>{{Cite journal|和書|journal=ASIA 21 基礎教材編 |publisher=大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 |title=結婚考:7.タイ―新旧結婚式比鮫 |author=小泉康一 |volume=2 |date=1992 |pages=98-102}}</ref>。
 
===沙弥・沙弥尼===
僧伽に属してはいるが、具足戒(波羅提木叉)をまだ授けられておらず、僧伽の正式なメンバーとなっていない「見習い僧・小僧」は、男性(少年)であれば「'''沙弥'''」(しゃみ)、女性(少女)であれば「'''沙弥尼'''」(しゃみに)と呼ばれる。
 
仏教の在家信徒は、「[[三帰依]]を誓い、通常は「[[五戒]]」、「[[八斎戒]]」の種類の戒を守ることが求められるが、この沙弥・沙弥尼には、代わりに「[[三帰依]]を誓った後、沙弥の「[[十戒 (仏教)|十戒]]」や、沙弥尼の「十八戒」が授けられる。彼らは通常、20歳になって、[[具足戒]](波羅提木叉)を授けられることで、正式な僧伽のメンバーである「[[比丘]]」や「[[比丘尼]]」となることができる。
 
=== 現代において ===
しかしながら、[[日本の仏教|日本仏教]]と[[チベット仏教]]において妻帯を認める[[ニンマ派]]と[[カギュ派]]は、実態に於いても{{efn2|[[鑑真]]和上の戒や、その後の[[中国]]伝来の戒に繋がる[[真言宗]]や[[真言律宗]]、南都六宗の[[律宗]]、[[法相宗]]などは本来、[[具足戒]]を保持すべきである。チベット仏教も、主要四派の[[ニンマ派]]、[[カギュ派]]、[[サキャ派]]、[[ゲルク派]]は全て具足戒を授かるが、ニンマ派とカギュ派は妻帯を認め{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、サキャ派は教団の法主が歴代世襲制であり、}}、教義上からも{{efn2|天台宗およびそこから派生した諸宗は基本的に具足戒を伝授されない。カギュ派も具足戒よりタントラの実践ヨーガを重視し、女犯戒や不飲酒を不問とするのが現状となっている。}}、これらの宗派では[[具足戒]]が完全に守られているとは言えず{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、定義上は僧伽ではないと見る向きもある。日本の影響下にある、[[韓国仏教]]の少数派[[太古宗]]でも同じである。しかし、チベット仏教の主流派である[[ゲルク派]]{{Sfn|四津谷|2003|page=97}}、および韓国仏教の最大宗派[[曹渓宗]]は妻帯を認めていない。
 
[[僧#日本仏教における僧伽|日本]]や[[ネパール]]における[[ネパールの仏教|ネワール仏教]]の[[グバジュ]](Gubhaju)など、世襲の仏教特権階級から具足戒を(破戒によって失われない[[戒体]]として)形式的にのみ受けるケースも見られるが、儀礼的なもので実践されるものではない。
 
==歴史==
===初期仏教===
釈迦の布教によって彼の教えに帰依する出家修行者は増加していき、それぞれ5人から20人程度の小単位に分かれて活動を行うようになった。このような集団を'''現前僧伽'''と呼ぶ。ところが、現前僧伽の活動が活発になると、僧伽自身の統制、さらに相互の連絡等の必要が生じ、やがて'''四方僧伽'''と呼ばれるような僧伽全体の組織が必要となってきた。これが今日の一般的な意味における僧伽である。<!--悟った聖者の集団を「聖者僧伽」と呼び、三宝の一つとしての僧はこの聖者僧伽であるともなされ、[[凡夫]]の僧を「[[凡夫僧伽]]」「[[世俗僧伽]]」ともいう<ref name=mahayana_sangha1/>。-->
 
===部派仏教===
59 ⟶ 77行目:
 
===大乗仏教===
紀元前後から僧の構成員はすべて律を遵守し独自インドにおいては大乗経典を持出家者でさえ在来の部派仏教に所属し、それぞれの部派の律に従てい[[{{Sfn|小林|2000|page=39}}。純粋な大乗]]が成立すると、彼ら団を持つチベットで在来の僧を「[[声聞僧伽]]」(しょうもんそうぎゃ)と呼び、大乗の僧を「菩薩僧伽」と呼ぶようになった<ref name=mahayana_sangha1>[httphttps://www.tibethouse.jp/cultureabout/37_04buddhism/37/index4.html#04 僧伽(修行者たちの集まり=僧)の本質 - ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる「37の菩薩の実践」]</ref>。悟った聖者の集団を「聖者僧伽」と呼び、三宝の一つとしての僧はこの聖者僧伽であるともなされ、一般の僧を「[[凡夫僧伽]]」「[[世俗僧伽]]」ともいう<ref name=mahayana_sangha1/>。
 
後世、[[大乗仏教]]には、仏・法・僧の[[三宝]]を一体と見る[[一体三宝]]([[同体三宝]])の見方が現れ、それまでの[[別体三宝]]観と別の見方が主張された。
 
後世、[[中国]]や[[日本]]では僧団に属する個々の出家者を「僧」と言うようになった。
 
==日本仏教における僧伽==
=== 古代・中世 ===
日本の仏教においては、[[奈良時代]]に至り、[[唐]]から[[律宗]]の[[鑑真]]によってもたらされた[[法蔵部]]の『[[四分律]]』と、それに基づく[[戒壇]]・[[授戒]]制度により、正式な僧伽が成立した。[[朝廷 (日本)|朝廷]]も租税・軍役逃れの[[私度僧]]を取り締まるために、それを積極的に活用した。
 
しかし、[[平安時代]]に至り、中国から[[天台宗]]を移植した日本天台宗の開祖[[最澄]]が、大乗経典の『[[梵網経]]』の書面と、それまで[[中国天台宗]]にはなかった解釈に基づく戒法を[[法華三部経]]に数える『[[観普賢菩薩行法経]]』(大正蔵:№277)<ref>『円頓戒概説』(浄土宗宗務庁)、「円頓戒の道徳思想」pp.{{Sfn|恵谷|1976|pages=40-44、「円頓戒の授戒について」pp., 59-68。</ref>}}を基にして、[[筆授]]により感得して提唱し、時の朝廷に出願した。最澄の没後、[[弘仁]]13年(822年)に[[最澄]]への[[追悼]]の意味から朝廷も公認し勅許を得て、翌年の弘仁14年に[[延暦寺]]の[[一乗止観院]]において弟子の[[光定]]を筆頭とする14名の[[大乗戒壇]]による授戒が行われた<ref>{{efn2|この時、[[嵯峨天皇]]が授けた授戒の証明書である『[[光定戒牒]]』([[国宝]]:弘仁14年4月14日付)が比叡山に残されている。</ref>}}。これより、[[比叡山]]では旧来の[[戒律]]である[[具足戒]]と数種類の大乗戒を併用する体系的な戒法を無視した、[[鳩摩羅什]]訳とする『[[梵網経]]』による大乗戒の「[[梵網戒]]」([[円頓戒]])のみに基づく[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]による授戒を行うようになり、いわゆる[[日本仏教]]独自の「[[具足戒]]」を持たず、正式な僧を持たない宗派が生まれた。
 
ただし、誤解の無いように記しておくが、[[最澄]]の唱えた[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]の基礎となる、大乗の『[[梵網経]]』には[[十重禁戒]]として、[[殺生戒]]により生き物を殺すことと、その原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.21-23。『梵網経』(大蔵出版)、pp.75-76。</ref>、[[女犯]]とその原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.25-27。『梵網経』(大蔵出版)、pp.88-89。</ref>、酒の売買と飲酒の原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.30-31。『梵網戒』(大蔵出版)、pp.99-100。</ref>、更にそれらを含む[[十重禁戒]]のどれかに違反した際には、僧籍に加えて全ての資格を失い仏教徒ではなくなる<ref>{{efn2|これらの戒を破れば大乗戒の「[[波羅夷罪]]」となる。『円頓戒概説』(浄土宗宗務庁)、「円頓戒の道徳思想」p46。</ref>{{Sfn|恵谷|1976|page=46}}}}としている。また、かつての[[比叡山]]においては、大乗戒壇で出家した僧は、12年に亘る[[籠山]](ろうざん)の後<ref group="注">{{efn2|[[比叡山]]の結界内、または特定の寺院内に篭って、そこから外に出ることを禁止し、学問と修行の完成に尽力した。</ref>}}、下山する際に「[[具足戒]]」を授かってから、比叡山を離れるのが通例となっていた。それゆえ「[[梵網戒]]」(円頓戒)が生きていた時代には、[[女犯]](妻帯)や[[飲酒]]等の行為は、[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]の僧には[[最澄]]の直筆による『[[山家学生式]]』により、あってはならない行為と規定されていた。
 
やがて、[[鎌倉時代]]に至ると、天台宗から派生した各宗派([[鎌倉仏教]])が普及するに従って、[[円頓戒]]などのみ受持する僧侶が多く現れた。その中でも[[日蓮]](1222-1282)は、[[最澄]]に仮託される『[[末法灯明記]]』<ref>『末法燈明記』(安居事務所)、[引用]p9、[末法燈明記原文]pp.176-205。</ref><ref>{{efn2|[[インド仏教]]にはない、「[[終末思想]]」に基づく[[中国仏教]]独自の[[末法]]観を背景とした日本の[[緯書]]。最澄の死後の400年後に世に出て、出典の経名に誤りが多く誤字や脱字も見られるので、[[最澄]]に仮託されるも[[文献学]]的には「[[偽書]]」とされる。[[緯書]]としての性格から[[鎌倉仏教]]に与えた影響は大きく、[[法然]](1133-1212)の『[[逆修説法]]』等をはじめとして、[[日蓮]]の『[[四信五品鈔]]』、[[親鸞]](1173-1263)の『[[教行信証]]』、[[明菴栄西|栄西]](1141-1215)の『[[興禅護国論]]』に依用するところから、各宗派の[[宗学]]においては[[神聖視]]され、最澄の著作として疑うことを許さない。いわゆる[[緯書]]は時代の変わり目に出現し、中国では革命思想を生む切っ掛けともなったが、この書は本来の目的を離れて、[[日本仏教]]における[[戒律]]否定の大きな原因となった。</ref>}}を信じ、それを典拠として「[[末法無戒]]」を主張し、いわゆる'''[[末法]]の世の中'''においては[[三宝]]に対すあらゆ帰依([[三帰依]]戒)はもとより、全ての[[戒律]]を必要とせず、[[釈尊]]や[[三宝]]、[[本尊]]の名前に替えてただ[[題目]]を唱えることを主張した。また、三宝のうちの僧伽を伴わない<ref group="注">{{efn2|浄土真宗には、開祖の親鸞が還俗したのを先例として、正式な僧はいない。現在、便宜実質上は僧侶と呼ばれるぶべき人々はいるが、浄土真宗では受戒はまったく行わず、形式上も、実的にも僧ではない。</ref>}}[[浄土真宗]]のような宗派も生じた。それに倣って、本来は「[[具足戒]]」を守るはずの宗派も戒律の形骸化が著しく、{{要出典範囲|先の「[[梵網戒]]」の抜け道となる|date=2018-01}}男色を行い、加えて妻帯する僧侶も数多くいた<ref group="注">{{efn2|特に男色の弊害を示す好例として、自らの男性遍歴を告白する文書を残した[[東大寺]]の僧侶・[[宗性]]をあげることができる</ref>{{Sfn|松尾|2008|pages=70-80, 95-96}}。}}。しかし、その一方で[[叡尊]]を祖とする[[真言律宗]]のように、自得の戒である『'''[[自誓授戒]]'''』による「[[具足戒]]」を復興しようとする動きも<ref>『叡尊教団における戒律復興運動』、p21-41。</ref>一部ではあったが、[[鎌倉時代]]以降は戒律が形骸化する全体の流れを変えるまでには至らなかった。
 
こうして「[[具足戒]]」を授けられず、また、授けられても容易に[[破戒]]をしながら「僧職」を営む祭祀者が大多数を占めるようになり、日本では、慣習としてこのような者のことも一般に僧侶と呼ぶことになるが、上述した比丘・比丘尼の定義からすれば、彼らを僧侶と呼ぶのは誤りである。
 
=== 江戸時代 ===
[[江戸時代]]に至ると、政治的には統制が厳しい[[江戸幕府]]の下、僧職者の[[肉食]]と妻帯([[女犯]])が国法などでは禁じられ、仏教側からは[[叡尊]]以来の[[戒律復興運動]]が実を結ぶ形で最低限の規律は守られるようになったが、本来の戒律(「[[具足戒]]」を基礎とする体系的な戒法)や僧伽を復興するまでには至らなかったとの評価もある。
 
この時代に[[戒律復興運動]]を行った人物としては、禅宗では[[黄檗宗]]の開祖であり、中国の皇帝の師でありながら[[鑑真]]と同様に栄誉を捨てて日本に渡来して、「[[禅密双修]]」や「[[禅浄双修]]」([[念仏禅]])等の特色を持つ中国禅に加えて、当時の[[出家]]戒を伝えた[[隠元隆|隠元]]禅師が挙げられる。[[隠元隆|隠元]]禅師が伝えた中国流の「具足戒」と「出家作法」は、京都を中心とする一帯の仏教教派の注目を集め、[[曹洞宗]]や[[臨済宗]]の復興に役立っただけではなく、招来の文物は[[書道]]・[[煎茶道]]・[[普茶料理]]・[[隠元豆]]等、後の[[鉄眼]]和尚の『[[黄檗版]][[大蔵経]]』<ref>{{efn2|この版は[[明代]]の『[[大蔵経]]』に基づくもので、別名を『鉄眼版大蔵経』とも呼ばれる。</ref>}}と共に日本の仏教に多大な影響を与えた。
 
『[[正法律]]』を提唱した[[慈雲]]尊者や、『[[如法真言律]]』を提唱した[[浄厳]]覚彦が活躍した。
また、同時代の[[真言宗]]には中国に渡って直接「具足戒」を伝えた人物もあり、後には『[[正法律]]』を提唱した[[慈雲]]尊者や、『[[如法真言律]]』を提唱して、生涯において三十数万人に正しい[[灌頂]]と[[戒律]]を授けた[[浄厳]]覚彦が活躍した。そして、[[天台宗]]でも改革が行われ、当時の[[中国密教]]を[[長崎]]の[[出島]]において中国僧から学び、その体系的な戒律を天台宗に初めて伝えて、授戒の本尊となる「准提仏母法」([[准胝観音]]法)を尾張や江戸で広めた[[豪潮]]律師などが知られる。
 
=== 近現代 ===
近代([[明治時代]])に至り、「'''[[政教一致]]'''」や「'''寺院民営化'''」、「'''脱亜入欧'''」の立場から、日本では<!--[[廃仏毀釈]]の影響下のなかで、[[富国強兵]]の政策を進めるために-->[[明治政府]]が[[明治5年]][[4月25日]]公布の[[太政官布告]]第133号「'''[{{NDLDC|788366/7}} 僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事]'''」を布告、僧侶の妻帯([[女犯]])・[[肉食]]・蓄髪・法要以外での平服着用等を公的に許可した。こうして僧職者に対する国法による他律的縛りはなくなり、本来の[[得度]]の[[意義]]や[[制度]]も失われて形骸化した儀式のみが残り、僧伽の[[原義]]とは全く反対の意味をもつ[[職業]]化したり[[世襲]]化した者が僧侶として公然と存在することができるようになった。そしてそのような僧侶が宗団を運営しているのが現況である
 
なお、戦前に戒律・僧伽復興運動を行った人物としては、[[真言宗]]の[[釈雲照]]、更には、その甥で[[スリランカ]]に留学し、日本人初の[[上座部仏教]]徒となって日本で「釈尊正風会」を組織した[[釈興然]]がいる。いわゆる特に持戒に厳しかったことで知られ、日本人初のチベット探検者でもあった[[黄檗宗]]の[[河口慧海]]は、国内外の僧伽の形骸化を批判し、僧籍を返還して「[[在家]]仏教」(ウパーサカ仏教)を提唱するに至った{{Sfn|東元|1982|pages=52-54,56}}
 
また、戦後は'''「[[政教分離]]の原則」'''に基づき、先の[[太政官布告]]の内容は全て破棄されたので、近年では、『[[日本テーラワーダ仏教協会]]』のように、[[上座部仏教]]も輸入・移植され、上座部の仏教徒として具足戒を授けられて、その僧伽の一員である比丘比丘尼となる日本人も少数ながら出てきている。また、『[[龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院]]』のように、[[上座部仏教]]や[[チベット仏教]]系の僧院も築か輸入・移植さ、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼もいる。更には、[[台湾]][[華僑]]らによる中国仏教系の『[[日本佛光山]]』<ref group="注">「日本佛光山」の各寺院や、「東京佛光山寺」における専門学校など多数が存在する。</ref>等の寺院もあり、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼も日本に滞在している。このように、現在は[[上座部仏教系、大乗仏教系、]]や[[チベット仏教]]系の全ての僧伽が日本に存在し、それらの僧の指導に基づく各種の正式な[[戒律]]を学ぶことができる。また、事実として既成の[[伝統仏教]]を離れ、[[上座部仏教]][[中国仏教]]・[[中国密教]]、[[チベット]]に基づく日本人の正式な[[受戒者]]の[[僧侶]]や[[仏教徒]]が、[[釈尊]]以来の流れである正統な戒律を新たに受け継ぎ真摯に活動している。
 
こうして一方で、[[日本仏教]]においては、平安時代の[[最澄]]以降、戒律([[具足戒]]:[[波羅提木叉]])の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて、現代の日本仏教各宗派には存在しない。それゆえ日本における既成の伝統宗派に僧伽(サンガ)は存在しない。
 
しかしながら現状を肯定する新しい解釈によって、[[職業]]として儀式のみを行い、[[三帰依]]戒や[[具足戒]]、[[菩薩戒]]、[[三昧耶戒]]等の正式な戒律一切持た遵守しない、伝統の宗派におけるこれらの僧職者と檀信徒のみで構成される「在家教団」を僧伽(サンガ)と見做すべきであるという意見<!--<ref group="注">ただし、このことは僧伽(サンガ)のあり方を根底から変えることになるため、[[波羅夷罪]]に抵触する。また、伝統的な仏教において説かれる[[無間地獄]]に落ちるとされる[[五逆罪]]を犯すことにもなる。また、熱心な僧形の信者や祈祷師、仏教系宗教の出家者や教団職員も僧侶に含めても良い事になる。</ref>-->もある。だが、この場合かつては私度僧に分類されたであろう自称僧侶の宗教家や祈祷師、仏教系新宗教の出家者や教団職員との区別基準が既得権益のみである事にもなりかねない
 
==四分律==
{{main|四分律}}
[[中国]]、[[日本]]、[[台湾]]、[[朝鮮]]等の[[上座部仏教]]において、歴史的に広く用いられてきた[[律 (仏教)|律]]である。比丘は'''二百五十戒'''を遵守する。現状にお正式な戒師が居なて、日本等の理由で自国は完全に僧伽の授戒消滅るため、[[律宗]]などで仏教上の必要から、実質的に受戒する場合、既に[[中]]大陸では僧侶はいるが[[文化大革命]]によって正しい[[戒脈]]が途絶えてしまったため、『[[護戒牒]]』に見られるように戒脈の残る台湾等から戒師を招来する必要がある。
 
[[戒律]]の条項は以下の通りである<ref>戒律の条項については、真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺HP [http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/sibunritsu/contents/index.htm]を参照した。</ref>
*'''波羅夷法'''[四ヶ条] (これを犯した場合、全ての資格と財産を剥奪された上、'''僧伽'''とあらゆる仏教教団から追放され、2年間一切の宗教活動を禁止された上、二度と僧侶となることは出来ないもの;「[[波羅夷罪]]」ともいう)
*#'''婬戒''' : いかなる性行為も行なってはならない。
*#'''盗戒''' : 盗心をもって与えられていないものを取ってはならない。
114 ⟶ 126行目:
 
===剃髪===
僧侶の規律として[[剃髪]]がある。また、剃髪した僧侶が、[[還俗]]して髪を伸ばすことは'''蓄髪'''(ちくはつ)という<ref group{{refnest|name="精選版_蓄髪">|[https://kotobank.jp/word/%E8%93%84%E9%AB%AA-565630#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「蓄髪」は単に「髪を伸ばすこと」また「その髪型」「髪を伸ばした人」という意味もあるが、現代ではあまり使われない表現。</ref>。近年、[[浄土真宗]]をはじめとして、寺以外に仕事を持っているなどで蓄髪の僧侶も見受けられるが、現代 - 精選版 日本の伝統教団には一部を除き、平安時代以降は、教義上、[[具足戒国語大辞典]]を受ける習慣がなく彼らは厳密には僧侶(比丘)ではないので問題はないとも言える小学館。}}
 
ちなみに、『小事犍度』には、螺髻梵志(バラモン教の僧侶)は頭髪を伸ばして、それを頭の上で輪にして留めていた。しかし仏教では「僧は長髪を持すべからず。二カ月もしくは二指間は許す」と伝え、『四分律』では、「応に鬚髪を剃るべし。極長は長さ両指、もしくは二カ月に一剃する。これは極長なり」と記し、『十誦律』は、「[[六群比丘]]が髪を留めて捲かしめ、留めて長くしていた時に、髪を留めて長からしめるべからず」と説いた。ただし、人気のない静かな場所で独住して修行する林住比丘<ref group="注">{{efn2|{{lang-pi-short|āraññika-bhikkhu}}, 阿練児比丘</ref>}}の場合、長さ二寸(約6cm)までは無罪であるとする。<ref>「仏在王舎城。(…)爾時六群比丘。留髪令長。仏言。不応留髪令長。若留者突吉羅。若阿練児比丘長至二寸無罪。」(『十誦律』巻第三十七)</ref>
 
それと、大衆部の律には、釈尊は「四カ月に一度、剃髪をされた」<ref>「復次仏住舎衛城。広説如上。爾時世尊四月一剃髪。世人聞仏剃髪故。送種種供養」(『摩訶僧祇律』十八)</ref>と伝承されている。
そして時に諸比丘編髪螺髻に仮作して、「仏所に来指して白して言く。此は是れ頭陀端厳法なり。願わくば仏よ聴せ。仏言く、爾るべからず。此れは是れ外道の法なり。若し是の如く作せば法の如く治せ」と『[[四分律]]』は説き、螺髻は外道(バラモン教)の髪型であるので、釈尊は僧に対して禁止されたと伝えている。<ref>「時諸比丘。仮作編髪螺髻。来指仏所白言。此是頭陀端厳法。願仏聴。仏言不応爾。此是外道法。若作如是如法治。(『四分律』巻第四十)」</ref>
 
それと、大衆部の律には、釈尊は「四カ月に一度、剃髪をされた」<ref>「復次仏住舎衛城。広説如上。爾時世尊四月一剃髪。世人聞仏剃髪故。送種種供養」(『摩訶僧祇律』十八)</ref>と伝承されている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
<references group="注" />
 
=== 出典 ===
{{reflistReflist|2}}
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2016年3月|section=1}}
*{{Cite book|和書|author=宮元啓一|authorlink=宮元啓一|year = 2005|title = 仏教かく始まりき―パーリ仏典『大品』を読む|publisher = 春秋社|ref = {{SfnRef|宮元|2005}} }}
*[[浅井證善]] 著 『初心の修行者の戒律 - 訳註「教戒律儀」- 』([[中川善教]]師校訂「教誡新学比丘行護律儀」)、高野山出版社、2010年刊。
*[[鈴木修学]] 著 『仏説観普賢菩薩行法経』、青山書院、昭和57年刊。
137 ⟶ 148行目:
*[[石田瑞磨]] 著 『梵網経』、大蔵出版株式会社、2002年刊。
*[[壬生台舜]] 著 「日本の仏教 第三巻 『叡山の新風』 山家学生式([[最澄]])、入唐求法巡礼記([[円仁]])」、筑摩書房、昭和42年(1977年)刊。
*[[{{Cite book|和書|author=恵谷隆戒]]|authorlink=恵谷隆戒|year = 1976|title = 円頓戒概説』、|publisher = [[浄土宗]]宗務庁、昭和51年(1976年)刊。|ref = {{SfnRef|恵谷|1976}} }}
*[[松原祐善]] 著 『末法燈明記』(非売品)、安居事務所、昭和35年(1960年)刊。
**松原祐善 著 『末法燈明記の研究』、法蔵館、1978年刊。[上記の再版]
*{{Cite book |和書 |author=[[中村元]]|authorlink=中村元 (哲学者)|year=1989 |title=岩波仏教辞典 |edition=第2版 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典第2版|1989}} }}
*{{Cite book|和書|author = 柴山全慶、秋月龍珉|year = 1967|title = 講座 禅 第二巻 禅の実践|publisher = 筑摩書房|ref = {{SfnRef|講座禅第二巻|1967}} }}
* {{Cite journal |last=東元 |first=慶喜 |title= 釈尊正風会のひとびと〔含 釈興然略年譜〕 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007014839 |journal=駒沢大学仏教学部研究紀要 |volume= |issue=40 |date=1982 |publisher=駒澤大学 |pages=51-61 |ref={{SfnRef|東元|1982}} }}
{{Refend}}
* {{Cite journal |last=小林 |first=信彦 |title= 教団法(戒律)と心掛け(戒) : 日本人の気づかなかった区別 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00001029/ |journal=桃山学院大学総合研究所紀要 |volume=25 |issue=2 |date=2000 |publisher=桃山学院大学総合研究所 |pages=35-50 |ref={{SfnRef|小林|2000}} }}
*{{Cite book|和書|author = 松尾剛次|year = 2008|title = 破戒と男色の仏教史||series=平凡社新書 |publisher = 平凡社|ref = {{SfnRef|松尾|2008}} }}
*{{Cite journal|和書|journal=日本仏教学会年報 |publisher=日本仏教学会西部事務所 |title=チベット仏教における継承・相続 |author=四津谷孝道 |volume=69 |date=2003 |pages=95-103 |ref={{SfnRef|四津谷|2003}} }}
 
== 関連項目 ==
* [[律 (仏教)|律]] - [[戒律]] - [[具足戒]]([[波羅提木叉]])
* [[僧位]]・[[僧綱]]
* [[坊主]]
*[[:Category:僧|僧侶の一覧]]
* [[出家]]
*[[僧位]]・[[僧綱]]
* [[ティラシン]] - [[ミャンマー]]における女性出家者
*[[坊主]]
* [[出家梵網経]]
* [[修行末法思想]]
*[[葬式仏教]]
*[[ティーラシン]]
*[[梵網経]]
*[[末法思想]]
*[[仏教系大学]]
*[[仏教系高校]]
* {{ill2|宗教服|en|Religious habit}} - [[仏教]]の[[袈裟]]など宗教で着る事が義務付けられている服装について
 
== 外部リンク ==
*「[https://web.archive.org/web/20211020111214/http://www.horakuji.com/lecture/samgha/about.htm 法楽寺僧伽(サンガ)とは何か]」([[真言宗泉涌寺派]]大本山 [[法楽寺 (大阪市)|法楽寺]])
* {{Kotobank}}
 
{{Buddhism2}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そう}}
[[Category:仏教用語]]