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{{出典の明記|date=2023年11月}}
{{世界の市
|正式名称 =ムルターン <!--必須-->
|公用語名称 ={{lang|ur|ملتان}} <br /> Multan <!--必須-->
|愛称 =
|標語 =
|画像 = Ghanta_Ghar_Multan_complete_view.jpg
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|位置図B = {{location map|Pakistan#Asia Southwest|relief=1|float=center|label=ムルターン}}
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|緯度度 =30 |緯度分 =11 |緯度秒 =24 |N(北緯)及びS(南緯) =N
|経度度 =71 |経度分 =28 |経度秒 =16 |E(東経)及びW(西経) =E
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|下位区分種類1 =[[パキスタンの行政区画|州]]
|下位区分名1 =[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]
|下位区分種類2 =
|下位区分名2 =[[ムルターン県]]
|下位区分種類3 =
|下位区分名3 =
51 ⟶ 54行目:
|標高(メートル) =710
|標高(フィート) =2,329
|人口の時点 =20072015
|人口に関する備考 =
|総人口 =13,423117,919000
|人口密度(平方キロ当たり) =
|人口密度(平方マイル当たり) =
|市街地人口 =2,050,000
|市街地人口密度(平方キロ) =
|市街地人口密度(平方マイル) =
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|備考 =
}}
'''ムルターン'''('''Multan'''、{{lang-ur|''' ملتان'''}})は、[[パキスタン]]の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] [[ムルターン県]]の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。[[インダス川]]支流の[[シェナブ川|チェナーブ川]]の東に位置し、[[カラーチー]]から陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。
[[ファイル:ShahRukne Alam 2.jpg|250px|thumb|シャー・ルクネ・アーラム廟]]
[[ファイル:Clock Tower Multan.jpeg|thumb|250px|旧市街の時計塔]]
 
ムルターンは「ピール([[スーフィー]]の聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,[[モスク]],聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。
'''ムルターン'''('''Multan'''、[[ウルドゥー語]]:''' ملتان''')は、[[パキスタン]]の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]の都市である。[[ムルターン県]]の県都である。ムルタンと表記されることもある。人口380万人(1998年の国勢調査)でパキスタン第6の都市にあたる。[[インダス川]]支流の[[チャナーブ川]]の東に位置し、[[カラーチー]]から陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。
 
ムルターンは「ピール([[スーフィー]]の聖者)と聖堂の街」として有名で,街にはバザール,モスク,聖堂や壮麗な墓廟がひしめいている。
 
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|ムルターンの歴史|en|History of Multan}}|{{仮リンク|ムルターン砦|en|Multan Fort}}}}
ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。[[サンスクリット]]で、''Mūlasthān''という言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、[[モヘンジョ・ダロ]]あるいは[[ハラッパー]]などと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』では、''Malāva''で登場した。
{{Seealso|{{仮リンク|パンジャーブの歴史|en|History of the Punjab}}}}
 
=== 古代 ===
[[ファイル:Mahmud and Ayaz and Shah Abbas I.jpg|150px|left|thumb|マフムード1世。ムルターンを征服した。]]ムルターンを最初に征服した外国の勢力は[[アレクサンドロス3世]]であるといわれている。その後、ムルターンは、[[グプタ朝]]の領土の一部になった。[[712年]]、[[シンド人]]に引きつられる形で[[イスラーム]]勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは[[、ムハンマド・ビン・カースィム]]([[:en:Muhammad bin Qasim]])であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、[[1005年]]、[[ガズナ朝]]のマフムード([[:en:Mahmud of Ghazni]])であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。
ムルターンは、[[南アジア]]の中でも最古の都市のひとつである。[[サンスクリット]]で、''Mūlasthān''という言葉が現在の都市の名前の由来である。これまでの考古学調査からムルターンは、[[モヘンジョ・ダロ]]あるいは[[ハラッパー]]などと同時期に興った都市の1つであると考えられている。古代インドの[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』では、''Malāva''で登場した。
 
ムルターンを最初に征服した外国の勢力は[[アレクサンドロス3世]]であるといわれている。その後、ムルターンは、[[グプタ朝]]の領土の一部になった。
ムルターンの中世は、[[スーフィズム]]の中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、[[モンゴル]]の征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者[[バハー・ウル・ハックのダルガー]]、「世界の柱」を意味する[[シャー・ルクネ・アーラム]](建設は[[14世紀]]の[[トゥグルク朝]]時代、もともとは[[トゥグルク朝]]の皇帝[[ギャースッディーン・トゥグルク]]が自らの廟のために建設した)、[[1380年]]ごろに建設された[[シャー・シャムス・タブレーズのダルガー]]などである。
 
=== イスラーム襲来 ===
時代を経て、[[ムガル帝国]]の時代の200年間は、ムルターンは平和を享受した。[[1735年]]には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・アブドゥル・サマッド・ハーンの命令により、[[イドガー・モスク]]が建設され、[[1757年]]には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、[[アリー・ムハンマド・モスク]]が建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは[[農業]]生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。
[[712年]]、[[シンド人]]に引きつられる形で[[イスラム教|イスラーム]]勢力がムルターンに侵攻した。イスラーム勢力を率いたのは、{{仮リンク|ムハンマド・ビン・カーシム|en|Muhammad bin Qasim|label=ムハンマド・ビン・カースィム}}([[:en:Muhammad bin Qasim]])であった。カースィムの侵攻により、ムルターンにもイスラームがもたらされることとなったが、ムルターンはそれでもなお、一独立勢力として維持してきた。しかし、[[1005年]]、[[ガズナ朝]]の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]({{Lang|en|Mahmud of Ghazni}})であった。マフムードは、ムルターンにあった太陽寺院や偶像の破壊を実施した。
[[ファイル:Mahmud and Ayaz and Shah Abbas I.jpg|150px|none|thumb|マフムード1世。ムルターンを征服した。]]
[[File:Tomb_of_Shah_Yousuf_Gardezi_Multan.jpg|thumb|none|1150年代に遡るシャー・ガルデズ墓廟]]
 
=== モンゴル襲来 ===
その後、しばらくの間、ムルターンは、[[ナーディル・シャー]]の支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。
{{main|[[モンゴルのインド侵攻]]}}
 
ムルターンの中世は、[[スーフィズム]]の中心であったことが分かっている。その証は、現在のムルターンには数多くの聖者廟(ダルガー)が残されていることから明らかである。例えば、[[モンゴル]]の征服時代に、殺戮を止めるように説き伏せた聖者[[バハー・ウル・ハックのダルガー]]、「世界の柱」を意味する[[シャー・ルクネ・アーラム]](建設は[[14世紀]]の[[トゥグルク朝]]時代、もともとはトゥグルク朝の皇帝[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]が自らの廟のために建設した)、[[1380年]]ごろに建設された[[シャー・シャムス・タブレーズのダルガー]]などである。
ムルターンは、ムガール帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。アフマド・シャー・アブダーリーが創設したアフガン人王朝のドゥッラーニー朝が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。[[シク教徒]]は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方にはイギリスが勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われたが、最終的にはイギリスが支配することとなった。
 
=== グジャラート・スルターン朝 ===
[[1947年]]にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、[[植民地]]時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、[[病院]]、[[大学]]といった社会的なインフラストラクチャーの全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。
[[グジャラート・スルターン朝]]のスルターン、[[マフムード・シャー1世 (グジャラート・スルターン朝)|マフムード・シャー1世]](マフムード・ベガダ)の治世に、ムルターンから[[ロマ|ロマニ]]系の{{仮リンク|ムルターニー (カースト)|en|Multani (caste)|label=ムルターニー}}が[[グジャラート]]や[[パンジャーブ]]へ移住した。
 
=== ムガル帝国 ===
時代を経て、[[ムガル帝国]]の時代は200年間続いた。[[1735年]]には、当時、ムルターンを支配していたナワーブ・[[アブドゥル・サマド・ハーン]]の命令により、[[イドガー・モスク]]が建設された。
[[File:MultanFrMoscheeDet.jpg|thumb|none|1735年創建のモスク]]
 
{{main|{{仮リンク|マラーターのインド北西部侵攻|en|Maratha conquest of North-west India}}}}
[[1757年]]には、アリー・ムハンマド・ハーンによって、[[アリー・ムハンマド・モスク]]が建設された。現在、ムルターンに残る建物の多くがこの時代に建設されたものである。当時のムルターンは[[農業]]生産が向上しており、このような建設事業が可能となった。
 
その後、しばらくの間、ムルターンは、[[アフシャール朝]]の[[ナーディル・シャー]]の支配を受けたが、幸いにも破壊をまぬかれることができた。
 
ムルターンは、ムガル帝国の衰退を目撃することで、難しい時代を経験してきた。[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が創設したアフガン人王朝の[[ドゥッラーニー朝]]が衰退すると、ムルターンはパシュトゥーン人の支配を受けた。
 
=== シク王国 ===
{{main|シク王国}}
 
[[シク教徒]]は、パシュトゥーン人が支配するムルターン地方を攻撃し、パシュトゥーン人はムルターンの周辺に住むことを余儀なくされ、ムルターンはシク教徒が治めることとなった。しかし、シク教徒の支配は長く続くことはなかった。徐々にパンジャーブ地方には[[イギリス]]が勢力を拡大していったのである。イギリスとシク教徒の間で戦闘が行われた([[シク戦争]])。
 
=== イギリス領インド帝国 ===
最終的にはイギリスが支配することとなった([[:en:Presidencies and provinces of British India|British India]])。
 
=== パキスタン ===
[[1947年]]にパキスタンが独立すると、ムルターンはパンジャーブ州に所属することとなったが、[[植民地]]時代にはわずかに鉄道が建設されただけであり、独立当時のムルターンは、産業、[[病院]]、[[大学]]といった社会的な[[インフラストラクチャー]]の全てが欠如していた。これらのインフラストラクチャーは、独立後、徐々に整備され、経済的に発展を遂げるようになった。
 
== 住民 ==
=== 言語 ===
[[サライキ語]]母語者が最も多いが、[[パンジャーブ語]]母語者も多く、また[[国語]]の[[ウルドゥー語]]も広く使用される。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ [[1998年]](国勢調査)<ref>{{cite web|url=http://www.census.gov/population/international/data/mapping/demobase.html|title=1998 tehsils data at the Demobase|publisher=|accessdate=2017/09/18}}</ref>
|-
! 順
! 言語
! 割合
! 話者数
|-
| 1
| [[サライキ語]]
| style="text-align:right;" | 42.2%
| style="text-align:right;" | 632,602人
|-
| 2
| [[パンジャーブ語]]
| style="text-align:right;" | 32.3%
| style="text-align:right;" | 485,232人
|-
| 3
| [[ウルドゥー語]]
| style="text-align:right;" | 23.5%
| style="text-align:right;" | 353,354人
|-
| 4
| [[その他]]
| style="text-align:right;" | 2.0%
| style="text-align:right;" | 29,429人
|-
! scope="row" colspan="3" style="text-align:right;" | 合計
| style="text-align:right;" | 1,500,617人
|}
 
== 交通 ==
*[[ムルターン国際空港]]
 
== 施設・歴史的建造物 ==
<gallery heights="180" widths="250">
ファイル:ShahRukne Alam 2.jpg|シャー・ルクネ・アーラム廟
ファイル:Clock Tower Multan.jpeg|旧市街の時計塔
</gallery>
 
== 姉妹都市 ==
105 ⟶ 176行目:
* {{flagicon|IDN}} [[バンテン州]]、[[インドネシア]]
 
== 脚注 ==
<!-- カテゴリ -->
{{Pakistan-stub脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:むるたん}}
[[Category:パキスタンの都市]]
 
== 関連項目 ==
<!-- 他の言語 -->
{{Commons&cat}}
* [[パキスタンの都市の一覧]]
 
{{Coord|30|11|24|N|71|28|16|E|region:PK_scale:300000|display=title}}
 
{{DEFAULTSORT:むるたあん}}
[[Category:パキスタンの都市]]
[[Category:パキスタンの古都]]
[[Category:パンジャーブ (パキスタン)]]
{{Pakistan-stub}}
{{authority control}}