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1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)[[近江国|近江]][[犬上郡]][[彦根城]]下上藪下町の同藩[[足軽]]谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校[[弘道館]]で学び、特に漢学を修めた<ref name="no7">「Regional No7」P19 「青年期の田部密と中尾靖軒--田部密探索(2) 奥本武裕」(奈良県立同和問題関係史料センター 2006年7月)</ref>。
 
[[文久]]・[[元治]]より[[慶応]]・[[明治維新]]の間、藩の[[外交]]掛りに属し、諸藩の志士と交わり、[[大東義徹]]・川上吉太郎・[[外村省吾]]・[[西村捨三]]・[[西川吉輔]]・[[大音竜太郎]]等と共に活動した。特に[[1866年]]([[慶応]]2年)[[第二次長州征討]]に際して、[[岩国藩]][[用人]]であり漢学者であった[[塩谷鼎助]]を介し秘密裏の交渉を取り持った(『[[吉川経幹]]周旋記』)。[[1867年]]11月((旧暦)慶応3年10月)[[朝廷 (日本)|朝廷]]から出された諸藩への諮問に際し、北川徳之充と共に密が藩を代表して署名を行った。[[1868年]]1月3日((旧暦)慶応3年12月9日)[[王政復古 (日本)|王政復古]]において、藩論を藩内[[尊攘]]派下級武士が集まる「至誠組」と共に倒幕に導き、[[戊辰戦争]]当時には藩公用人として京都に常駐した<ref name="no7" />。
 
明治維新後大参事として藩政に係わった後、[[1871年]](明治4年)香川県参事に転出したが、[[1873年]](明治6年)官を辞し困窮した旧藩士等による新たな事業立ち上げのため、大東義徹等と共に『集義社(彦根義社)』設立に参画した。この間[[1874年]](明治7年)、閉鎖直前の豪商島田組の総理(番頭)となり、[[島本仲道]]等が設立した我が国最初の[[法律事務所]]([[代言人]](現在の[[弁護士]])の組織)である北洲舎への資金支援を行った<ref name="no6">「Regional No6」P27 「明治前半期の地方官僚と部落問題--田部密探索(1) 奥本武裕」(奈良県立同和問題関係史料センター 2007年5月)</ref>。
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== 漢学者 ==
密は苔園と言う号を持つ漢学者で、近江同郷の[[小野湖山]]や[[谷一六]]等とよく提唱しあっていたと伝えられる<ref name="oosakajinbutushi" />。漢学者として幕末藩政を担った[[岡本半介|岡本黄石]]、田中芹坡、坂本葵園、近藤南、中尾靖軒等と親交があった<ref name="no7" />。
 
;著作
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== 脚注 ==
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