削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Sasame338 (会話 | 投稿記録)
 
(6人の利用者による、間の7版が非表示)
1行目:
{{独自研究|date=2016年10月20日 (木) 07:26 (UTC)}}{{脚注の不足|date=2022-07}}
'''水戸学'''(みとがく)は、[[江戸時代]]の[[日本]]の[[常陸国]][[水戸藩]](現在の[[茨城県]]北部)において形成された学風、[[学問]]である。第2代水戸藩主の[[徳川光圀]]によって始められた歴史書『[[大日本史]]』の編纂を通じて形成された。特に[[天保]]期以降、やがて第9代藩主[[徳川斉昭]]のもとで[[尊王攘夷]]思想を発展させ、[[明治維新]]の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を'''前期水戸学'''、斉昭を中心とした時代を'''後期水戸学'''として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは[[天保]]期であり<ref name=":0">{{Cite|和書|ref=harv|title=日本古典文学大辞典第5巻|author=日本古典文学大辞典編集委員会|date=1984-10|publisher=岩波書店|pages=607}}</ref>、「天保学」とも呼ばれる<ref name=":0" />
 
[[儒学]]思想を中心に、[[国学]]・[[史学]]・[[神道]]を折衷した思想に特徴がある。
 
== 概要 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-07}}
 
=== 前期水戸学 ===
明暦3年([[1657年]])、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「[[大日本史]]」)の編纂事業を開始した<ref name=":0" />。藩主就任後の[[寛文]]3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、[[彰考館]]とした。
 
当初の史局員は[[林羅山]]学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣[[朱舜水]]を招聘する。舜水は、[[陽明学]]を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の[[彰考館]]の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に[[近畿地方]]出身が多かった。
 
編纂過程においては、第一の目的である[[大日本史]]の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、[[佐々宗淳]]、丸山可澄(活堂)、[[安積澹泊]]、[[栗山潜鋒]]、打越直正(撲斎)、[[森尚謙]]、[[三宅観瀾]]らがいる<ref name=":0" />
 
「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える([[南北朝正閏論]])。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを[[大義名分|名分論]]のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。
17 ⟶ 19行目:
 
=== 後期水戸学 ===
「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主[[徳川治保]]の治世、彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心として再開される<ref name=":0" />
 
この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には[[小宮山楓軒]]、[[青山延于]]らがいる。翠軒の弟子の[[藤田幽谷]]は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷対立を深める<ref name=":0" />。翠軒は幽谷を破門にするが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となる<ref name=":0" />
 
[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる([[大津浜事件]])。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、[[会沢正志斎]]が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。
 
[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、[[藩校]]としての[[弘道館]]を設立。総裁の[[会沢正志斎]]を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが弘道館記であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・[[藤田東湖]]であり、そこには「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた。
 
徳川斉昭の改革は、[[弘化]]元年([[1844年]])、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近であ改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。
 
この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが弘道館記の解説書である『[[弘道館記述義]]』である。{{要出典範囲|この中で、東湖は[[本居宣長]]の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想|date=2022年3月}}は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。
 
嘉永6年([[1853年]])の[[黒船来航|ペリー来航]]は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、[[安政の大地震]]で東湖は死亡し、[[安政の大獄]]で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。
45 ⟶ 47行目:
 
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2022-07}}
* 『水戸市史』中巻
*立林宮太郎『水戸学研究』(国史研究会 1917年)
78 ⟶ 81行目:
[[Category:日本の儒学]]
[[Category:江戸時代の神道]]
[[Category:徳川光圀]]
[[Category:徳川斉昭]]