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{{独自研究|date=2016年10月20日 (木) 07:26 (UTC)}}{{脚注の不足|date=2022-07}}
'''水戸学'''(みとがく)は、[[日本]]の[[常陸国]][[水戸藩]](現在の[[茨城県]]北部)で形成された[[学問]]である<ref>水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる。</ref>。全国の藩校で水戸学は教えられ<ref>「'''[[愛民]]'''」、「'''[[敬天愛人]]'''」等の思想を含め、[[吉田松陰]]や[[西郷隆盛]]らに決定的影響を与えた。</ref>、多くの[[幕末]]の[[志士]]等に多大な感化をもたらし、[[明治維新]]の原動力となった<ref>[[戦後]]は水戸学に基づく[[尊皇攘夷]]思想が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持って<!--おり、戦後の誤った歴史観から脱却するためにも、根本的な見直しが迫られて-->いる。</ref>。
'''水戸学'''(みとがく)は、[[江戸時代]]の[[日本]]の[[常陸国]][[水戸藩]](現在の[[茨城県]]北部)において形成された学風、[[学問]]である。第2代水戸藩主の[[徳川光圀]]によって始められた歴史書『[[大日本史]]』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主[[徳川斉昭]]のもとで[[尊王攘夷]]思想を発展させ、[[明治維新]]の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を'''前期水戸学'''、斉昭を中心とした時代を'''後期水戸学'''として分けて捉えらえることも多い。水戸学という呼称が生まれたのは[[天保]]期であり<ref name=":0">{{Cite|和書|ref=harv|title=日本古典文学大辞典第5巻|author=日本古典文学大辞典編集委員会|date=1984-10|publisher=岩波書店|pages=607}}</ref>、「天保学」とも呼ばれる<ref name=":0" />。
 
[[儒学]]思想を中心に、[[国学]]・[[史学]]・[[神道]]を折衷した思想に特徴がある。
 
== 概要 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-07}}
一般に日本古来の[[伝統]]を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の[[徳川光圀]]が始めた歴史書『[[大日本史]]』の編纂を中心としていた'''前期水戸学'''(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の[[徳川斉昭]]が設置した[[藩校]]・[[弘道館]]を舞台とした'''後期水戸学'''(こうきみとがく)とに分かれるとされる<ref>但し、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。</ref>。
 
=== 前期水戸学 ===
前期水戸学は、明暦3年([[徳川光圀1657年]]の修史事業に始まる。光圀は、水戸藩継ぎ時代明暦3年(1657年)に徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設した。紀伝体の日本通史(のちの[[大日本史]])の編纂が目的であっ事業を開始し<ref name=":0" />当初藩主就任後[[寛文]]3年(1663年)、史局員はを小石川邸に移し、[[林羅山彰考館]]学派出身の来仕者が多かっとした。
 
光圀当初水戸藩主就任後の[[寛文]]3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、員は[[彰考館林羅山]]とし学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、[[亡命]]中の[[]]の遺臣[[朱舜水]]を招聘したする。舜水は、[[陽明学]]を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672(1672)には24人、貞享元年(1684(1684)37)37人、元禄9年(1696(1696)53)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の[[彰考館]]の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に[[近畿地方]]出身が多かった。
 
前期の[[彰考館]]の集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特纂過程[[近畿地方]]出身が多かった。学派やもとの身分おいて様々であり、編集員同士の議論を推奨し、第一の目的である[[大日本史]]の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴があった。また、『[[大日本史]]』の三大特筆の中でも、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与えてきた([[南北朝正閏論]])。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、[[佐々宗淳]]、丸山可澄(活堂)、[[安積澹泊]]、[[栗山潜鋒]]、打越直正(撲斎)、[[森尚謙]]、[[三宅観瀾]]らがいる<ref name=":0" />
 
元文2年(1737年)、[[安積澹泊]]の死後、修史事業は一時停滞、作業速度を落としつつ継続していった。
「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える([[南北朝正閏論]])。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを[[大義名分|名分論]]のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。
 
光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。
 
=== 後期水戸学 ===
「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主[[徳川治保]]の治世、彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心として再開される<ref name=":0" />。
後期水戸学は、第6代藩主[[徳川治保]]の治世、彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心とした修史事業の復興が起点だった。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。その弟子の幽谷は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる『正名論』を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷が対立を深めた。翠軒は幽谷を破門にしたが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となった。
 
後期水戸学はこの頃第6代主[[徳川治保]]内農村治世荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など彰考館総裁[[立原翠軒]]を中心とした修史事業内憂外患復興危機感起点だ強まてい。この頃一方、水戸藩深刻な財政難に陥っていたことやおり蝦夷地館員らは編纂作業ロシア船が出没した留まることなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見の改革出すようになっ目指した。翠軒の弟子には[[小宮山楓軒]]、[[青山延于]]らがいる。翠軒弟子の[[藤田幽谷]]は、[[寛政]]3年([[1791年]])に後期水戸学の草分けとされる正名論を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷対立を深める<ref name=":0" />。翠軒は幽谷を破門にしたするが、[[享和]]3年([[1803年]])、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]、[[豊田天功]]らが、その後の水戸学派の中心となったる<ref name=":0" />
[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村(現・[[茨城県]][[北茨城市]][[大津町 (茨城県)|大津町]])にて、[[イギリス]]の[[捕鯨]]船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起きた。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を[[征夷大将軍]]の職分を放棄した幕府の弱腰と捉え、[[副将軍]]を半ば自負していた水戸藩では能動的な攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した『新論』を著した。『新論』は諸国へ回達され、幕末の志士に重大な影響を与えた。
 
[[文政]]7年(1824年)水戸藩内の大津村(現・[[茨城県]][[北茨城市]][[大津町 (茨城県)|大津町]])にて、[[イギリス]][[捕鯨]]船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起きたこる([[大津浜事件]])。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を[[征夷大将軍]]の職分を放棄した幕府の弱腰と捉え、[[副将軍]]を半ば自負していた水戸藩では能動的な攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、[[会沢正志斎]]が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した新論を著した新論諸国へ回達され、幕末の志士に大な影響を与えた。
[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、日本最大の[[藩校]]として[[弘道館|水戸弘道館]](及びその付帯施設としての[[偕楽園]])を創設した。彼は総裁の会沢を教授頭取とした。また、東湖も、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』などの建国神話を基に道徳を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、水戸弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であった。この書の署名は徳川斉昭のものになっているが、実際の起草者は東湖であり、彼は『弘道館記述義』において、解説の形で[[尊皇思想]]を定義づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこに「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた。
 
[[天保]]8年([[1837年]])、第9代藩主の[[徳川斉昭]]は、日本最大の[[藩校]]として[[弘道館|水戸弘道館]](及びその付帯施設としての[[偕楽園]])した彼は総裁の[[会沢正志斎]]を教授頭取とした。また、東湖も、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』などの建国神話を基に道徳を説き、そから日本固有秩序を明らかにしようとした。中でも、水戸弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であった。この書のり、署名は徳川斉昭のものになっているが、実際の起草者は東湖であり、彼は『弘道館記述義』において、解説幽谷形で子・[[尊皇思想藤田東湖]]を定義づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名あり、そこに「[[尊皇攘夷]]」の語がはじめて用いられた。
徳川斉昭の改革は、[[弘化]]元年([[1844年]])、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎を申しつけられたことで頓挫する。改革派の家臣たちも同様に、幕府から謹慎を言い渡された。この間、東湖により『回天詩史』『和文天祥正気歌(正気歌)』が著された。『回天詩史』は東湖の自叙伝的詩文、『正気歌』は[[文天祥]]の正気歌に寄せた詩文であった。ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂い、幕末の志士たちを感動させるものであり、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。
 
徳川斉昭の改革は、[[弘化]]元年([[1844年]])、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。
[[嘉永]]2年([[1849年]])、斉昭に藩政関与が再許可された。一方で、斉昭の教育方針により、幼少から弘道館で水戸学を学んだ斉昭の[[嫡子]]・七郎麿は、[[将軍家]]の要請により、[[一橋家]]へ養子に出される事になった。幼少期から英邁であった七郎麿を斉昭は他家へ養子には出さず、長男・[[徳川慶篤|慶篤]]の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていたが、弘道館を始め水戸藩での躾と教育を経て幕末の波乱を生き抜いた七郎麿は、長じてのちの第15代[[将軍]][[徳川慶喜]]へ育ったのである。
 
この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが『弘道館記』の解説書である『[[弘道館記述義]]』である。{{要出典範囲|この中で、東湖は[[本居宣長]]の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想|date=2022年3月}}は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。
水戸藩は[[安政]]5年([[1858年]])の[[戊午の密勅]]返納問題に起因し、[[安政]]6年([[1859年]])の斉昭永蟄居を含む[[安政の大獄]]を受け、これに決起した[[脱藩]][[義士]]による安政7年3月3日(1860年3月24日)[[桜田門外の変]]の直後、[[万延]]元年8月15日(1860年9月29日)斉昭[[薨去]]、続く文久2年(1862年)[[坂下門外の変]]が続いた。のちの[[新撰組]]となる[[壬生浪士隊]]が、尊皇という[[大義名分|大義]]を水戸学に引く[[芹沢鴨]]ら[[常陸]][[郷士]]主導によって結成されたのも、この頃であった<ref>新撰組は、後に芹沢鴨ら水戸派が、近藤勇ら試衛館派から粛清され、水戸学の理念を持つ者が存在しなくなったため尊皇の大義を失った。こうして新撰組は明治維新の際に、旧幕府軍として壊滅した。</ref>。[[水戸徳川家]]では光圀の代から勤皇を是としていた為に当然予想されるところでもあった筈だが、水戸学から惹起された[[常陸国]]及び[[水戸藩]]領の[[侍]]は一連の尊皇思想の実践によって必然に、[[大政委任論]]を奉じる幕府との間に軋轢を生じ始めた。水戸藩士らは、少なからず反幕府的な勢力に囲い込まれつつあった[[帝]]と、反朝廷勢力としての[[将軍]]との間の、矛盾をはらんだ二重権力への忠義にまつわる[[ジレンマ|板挟み]]状態に陥っていったのである(尊皇敬幕)。こうした藩政混乱期の[[元治]]元年([[1864年]])[[天狗党]]挙兵、対する[[諸生党]]による弾圧、明治維新後の天狗党からの報復など、既に水戸学の啓発していた[[ノブレス・オブリージュ]]と実務行政的な[[現実主義]]の衝突が原因と考えられる、[[悲劇]]的[[事件]]が水戸藩領に相次いだ。対外的危機に際して国政へ人材を供出させられていた為、斉昭や慶喜に代わる強靭な指導力を欠いた藩内はその[[自己犠牲]]的な姿勢によりますます紛糾の度を深め<ref>当時の第10代水戸藩主・[[徳川慶篤]]は[[大政奉還]]が行われた慶応3年10月14日(1867年11月9日)直後の、慶応4年4月5日(1868年4月27日)に薨去していた。</ref>、いきおい[[武士道]]の理想に殉じた藩士らは尽忠報国を目指し次々命をも擲っていった。その間にも水戸学派は学問を続け、[[文久]]2年([[1862年]])[[会沢正志斎|会沢]]が『時務策』を発表、柔軟な「[[富国強兵]]」による漸進的[[開国論]]を説いた。水戸学は尊皇思想でありながらも一貫した敬幕の姿勢を最後まで崩さなかった為<ref>こうして、[[倒幕]]に偏ることはなかった水戸学の理念は旧水戸藩の領域である[[茨城県]]北で生き続け、[[日本プロサッカーリーグ|プロサッカーチーム]]である[[水戸ホーリーホック]]の名義及び[[エンブレム]]の由来ともなっている。即ち、[[徳川幕府]]の象徴ともいえる[[葵]]御[[家紋]]([[三つ葉葵]])である。なお、一説に江戸幕府初代将軍の[[徳川家康]]は、[[松平氏]]が[[新田氏|新田]][[源氏]]の流れをくむ[[賀茂神社]]の氏子であったとし、同神社の神紋であった葵を[[徳川家]]の家紋にしたとされる。[http://www.sid.co.jp/cn83/cn24/pg447.html 徳川家の葵の御紋と葵祭の関係、2014年3月閲覧。]</ref>、来るべき新時代に向け、逸る尊攘志士、皇室・幕府の両極を含む国政全体へ、時勢に準じた緩和的な方針転換を迫っていたのである(大攘夷論)<ref>この富国強兵を理由とした一旦の開国を経て、国力を強化した上での新たな攘夷の方針は先見的であり、後の[[太平洋戦争]]の理論的根拠の一角を提供している、ともいえよう。</ref>。
 
嘉永6年([[1853年]])の[[黒船来航|ペリー来航]]は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、[[安政の大地震]]で東湖は死亡し、[[安政の大獄]]で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。
なお、水戸弘道館(及びその館内の至善堂)は[[江戸幕府]]の最後の[[将軍]]であった[[徳川慶喜]]の、[[皇室]]への恭順を理由とした謹慎先ともなった。慶喜は単に[[大政奉還]]を実行したのみならずその後も一貫して[[皇軍]]との全面戦争を避け、[[徳川氏]]並びに[[江戸幕府]]の主要な居城であった[[江戸開城|江戸城の無血開城]]をも決心した。一[[朝臣]]としての慶喜のこれらの明らかな勤皇行動は、幼少より与えられた水戸学の尊皇思想が彼の根底にあったためとされる<ref>[[徳川慶喜家]]は別家として皇室より[[華族|旧華族]]最高の[[公爵]]位を授けられ、維新後のみならず戦後も維持された結果を見れば、水戸学には[[水戸家]]特有の[[帝王学]]的要素も内在されていたといえよう。</ref>。
 
水戸藩はその後、[[安政]]5年([[1858年]])の[[戊午の密勅]]返納問題、[[安政]]6年([[1859年]])の斉昭永蟄居を含む[[安政の大獄]]、[[元治]]元年([[1864年]])の[[天狗党]]挙兵、これに対する[[諸生党]]の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。
 
=== 明治維新以後 ===
明治維新後から[[第二次世界大戦]]の終結までにかけて、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。特に、明治23年([[1890年]])、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた'''[[教育勅語]]'''は、「国体」や「斯道」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。
幕末水戸藩は、天狗党の[[筑波山]]挙兵([[天狗党の乱]])を始めとして、他藩と比肩出来ないほど多くの犠牲者を出した<ref>[[靖国神社]]には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祭られているが、このうち1420柱、約3割が水戸藩士である。天狗党の処刑された411名は明治22年(1889)、靖国へ合祀され名誉回復された。岡村2012、p159。</ref>。水戸藩は[[徳川御三家]]・[[権中納言]]であったため[[皇室]]から早急な[[幕政改革]]を任じられ、又その学風により征夷の将軍たる[[江戸幕府]]の「[[大義名分]]」の[[本質]]をも鋭く早く認識していたが故に、尊皇の旗を諸藩で最も先にはっきりと掲げ、維新のさきがけを担った。だがこの[[有職故実]]に基づく[[徳治主義]]上の[[貴族]][[義務]]は同時に、事実上の[[絶対王政]]と化していた[[徳川将軍家]][[独裁政治|独裁]]<ref>[[日米和親条約]]、[[安政五カ国条約]]、[[日米修好通商条約]]の将軍家茂の名による調印や、[[安政の大獄]]による志士弾圧。これらの決定は、大老の決定であるのみならず、形式上は将軍家の名(台慮)で行われた事に注意せよ。小西1984、p141、p156-157。</ref>を推進したい幕府側から過酷な弾圧を受けた。こうして水戸藩は、藩屏の犠牲を憂う守旧派と、進取の志士の分裂という、どの藩でも多かれ少なかれ生じた結果を極めて典型的かつ最も大規模に伴った。[[副将軍|天下の副将軍]]と巷に称されるまで徹底して敬幕忠勤でありつつ深い[[政治哲学|国政哲学]]を持ち、何より勤皇の序を立て旧幕府の前轍を踏まず国内統一を行うこと、而して諸国民を和平に至らせるという複合的な水戸学固有の使命感を帯びた水戸藩士にとって、これらの当為は自らの実力に科した重い負担でもあり、[[武士道]]実践上の避けがたい[[悲劇]]でもあった<ref>この悲劇の副作用として多くの[[歴史小説]]や[[時代劇]]において、水戸藩やその出身者を描く事の難しさは、膨大な文献や不文律を含む高い理想に基づく藩士らの武士道上の行動原理が、水戸学の浸潤していない[[文化圏]]では容易に理解されない為であるともいえよう。</ref>。諸藩に先鞭をつけた水戸藩の犠牲の上に明治維新が成り<ref>[[幕政改革]]を目当てに協議された[[丙辰丸の盟約|成破の盟約(丙辰丸の盟約)]]によれば、水戸藩士は長州藩士に対し自負的に、より困難な「破」の役を引き受けたとされる。山川1991、p446-447。</ref>、また[[徳川慶喜]]の水戸学に基づく[[禅譲]]により諸侯へ速やかに諸藩合一的な天皇政府を樹立させ、諸藩士へ幕府対薩長(即ちフランス軍対イギリス軍)という[[西洋]]列強の一大傀儡戦争をも避けさせた史実は、[[日本史|日本の歴史]]のみならず、[[世界史]]上特筆されるべきことである。水戸学によって対外的危機を啓蒙された志士達による自主的な[[尊皇攘夷運動]]が、それまでの藩政の枠組みを越えた広域連帯を醸成するきっかけとなり、江戸時代から幕末にかけ、今日の「[[日本]]」といわれる[[国体]]の存在を[[国民]]は徐々に自覚していった。水戸学が目指してきた[[統一|統一国家]]を形成した今日の[[日本国]]は[[アジア]]において、欧米による植民地化から免れ、少なくともその独立を全うした為に、この学問は現代における[[国民国家]]の[[思想史]]上の一[[原型]]ともなっているのである。
 
明治天皇は、光圀・斉昭に[[正一位]]の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して[[常磐神社]]の社号とそれぞれに[[神号]]を下賜し、[[別格官幣社]]に列した。また、[[明治]]39年([[1906年]])に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた[[史書]]保存のための費用を下賜し、それによって[[彰考館文庫]]が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。なお、[[乃木希典]][[陸軍大将]]は、[[明治天皇]]崩御後、当時の[[皇太子]][[昭和天皇|裕仁親王]]水戸学に関する書物を献上した後に自刃している
 
第二次世界大戦後、水戸学は[[天皇制]]、日本[[軍国主義]]を支えた思想として否定的に捉えられるようになり、戦前までのように称揚されることはなくなった。現在、水戸学は、茨城県[[水戸市]]にある[[水戸史学会]]によって研究されている。観光活用への取り組みとして、[[水戸市]]は2018年1月、[[水戸城]]跡や弘道館などがある約2.8キロメートルの通りを「水戸学の道」と定めた<ref>尊王攘夷思想、倒幕の原動力/維新150年 水戸学知って/市、周遊コースや城跡整備『[[日本経済新聞]]』夕刊2018年3月24日(社会面)</ref>。
水戸学は、その源流でもある[[徳川光圀]]とともに多くの人々から讃えられてきたが、最も心を尽くしたのは[[天皇]]である。[[明治天皇]]は旧水戸藩主である光圀・斉昭を祀る[[神社]]の創祀に際し当社を[[別格官幣社]]に列した上で、[[常磐神社]]の社号を贈位、光圀・斉昭らへ神階最高位である[[正一位]][[神号]]を下賜した。また、[[明治]]39年([[1906年]])に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され、全402巻が第13代水戸家当主[[徳川圀順]]から[[明治天皇]]へ献上されると、[[皇室]]はその編纂に用いた[[史書]]保存のための費用を[[水戸家]]へ下賜し<ref>[[明治天皇]]は水戸家へ史料散逸を防ぐ措置に一万円を下賜、同じ目的で[[昭憲皇太后]]は三千円のお下げ渡しを行った。[http://www.komonsan.jp/mitogaku/cat34/post_245.html 常盤神社、2014年3月閲覧。]</ref>、これを受け圀順は[[茨城県]][[水戸市]]に[[彰考館文庫]]を建造した<ref>[[水戸家]]では、[[昭和]]40年([[1965年]])5月に、常磐神社(現在の[[義烈館]]の敷地の辺り)に煉瓦と石で蔵を建て史料保存に勤めたが、昭和20年([[1945年]])8月1日の夜、[[米軍]]からの爆撃を受けて史料散逸。しかし既に昭和14年([[1939年]])の頃には彰考館長として[[福田耕二郎]]が緑ケ岡の本邸へ史料の一部を疎開させていた為、残った貴重史料は昭和28年([[1953年]])に[[徳川圀順]]によって集められ、書庫と閲覧室が付設された上で当地に文庫として再建され、今日に至る。なお史料蔵は昭和43年([[1968年]])竣工。徳川慶喜揮毫で「彰考舘文庫」と書かれた額が、蔵正面に大理石で架けられた。この額は現存している。[http://www.komonsan.jp/mitogaku/cat34/post_245.html 常盤神社、2014年3月閲覧。]</ref>。さらに、[[昭和天皇]]は『大日本史』編纂を始めとする勤皇の功績により、水戸家を[[徳川宗家]]や[[五摂家]]などと同じ[[華族]]最高位の[[公爵]]へ陞爵させた。
 
現在水戸学は、[[茨城県]][[水戸市]]にある[[水戸史学会]]によってなおも持続的に研究が続けられている。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2022-07}}
* 『水戸市史』中巻
*立林宮太郎『水戸学研究』(国史研究会 1917年)
* 瀬谷義彦・今井三郎・[[尾藤正英]]『[[日本思想大系]]53・水戸学』([[岩波書店]] 1973.4)
* [[名越時正]]雨谷毅『水戸学の達成と展開新研究』(水戸研究会 1992.7)1928年3月)
* [[岡村青瀬谷義彦]]・[[今井三郎]]・[[尾藤正英]]『[[日本思想大系]]53・水戸』(現代[[岩波店]] 2012)1973年4月)
* [[山川菊栄名越時正]]『覚書 幕末の水戸学の達成と展開』(岩波書店、岩波文庫水戸史学会 1991)1992年7月)
* [[小西四郎]]『開国と攘夷』(中央公論社 1984)
 
== 関連項目 ==
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* [[水戸藩]]
* [[徳川光圀]]
* [[徳川斉昭]]
* [[徳川慶喜]]
* [[大日本史]]
* [[彰考館]]
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* [[南北朝正閏論]]
* [[水戸の三ぽい]]
* [[中国学]]
* [[学校法人梅村学園]] - 水戸学の「文武不岐」の精神継承を謳っている愛知県の学校法人。
* [[学校法人安達学園]] - 同じく「文武不岐」の精神継承を謳っている岐阜県の学校法人。
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== 外部リンク ==
* [http://www.komonsan.jp/ 常盤神社]
 
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[[Category:江戸時代の文化]]
[[Category:水戸学|*]]
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[[Category:徳川斉昭]]