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| image = [[Image:Juliusz Kossak Sobieski pod Wiedniem.jpeg|300px]]
| caption = [[第二次ウィーン包囲|第二次ウィーン包囲戦]]における[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]
| conflict = 大トルコ戦争
| date = [[1683年]] - [[1699年]]
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| commander2 = [[File:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]][[ムスタファ2世]]<br />[[テケリ・イムレ]]<br />[[File:Flag of the Ottoman Empire (1453-1844).svg|25px]][[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]
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'''大トルコ戦争'''(だいトルコせんそう、Great Turkish War, [[1683年]] - [[1699年]])は、[[17世紀]]後半に起こった[[ハンガリー王国|ハンガリー]]、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア]]を巡る[[ハプオーブルク君主トリア大公国|オーストリア]]・[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]・[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]・[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]などの[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]と[[オスマン帝国]]の戦争である。

1699年の[[カルロヴィッツ条約]]締結でオーストリアは再興のきっかけを作り、オスマン帝国は衰退の一途を辿っていった。
 
== 名称 ==
日本語を含む多くの国では大トルコ戦争({{Lang-de|'''Großer Türkenkrieg'''}}、{{Lang-ru|'''Великая Турецкая война'''}})という呼称だが、戦争当事国であるトルコ等の一部の国では'''オスマン・神聖同盟戦争'''({{Lang-tr|'''Osmanlı-Kutsal İttifak savaşları'''}})や、'''オーストリア・トルコ戦争'''({{Lang-it|'''Guerra austro-turca'''}}、{{Lang-pl|'''V wojna austriacko-turecka'''}})という呼称なども使用されている。
 
== 戦闘の経過 ==
=== ウィーン包囲戦前後 ===
[[ハプスブルク家]]が支配するオーストリアとオスマン帝国は[[三十年戦争]]後に対立、ハンガリー、トランシルヴァニアでは紛争が絶えなかった。[[1664年]]にオスマン帝国がハンガリーへ侵攻してきた時はオーストリアの将軍[[ライモンド・モンテクッコリ]]が[[セ{{仮リク|ザンクトゴットハールドの戦い]] (1664年)|de|Schlacht bei Mogersdorf|tr|Saint Gotthard Muharebesi (1664)|en|Battle of Saint Gotthard (1664)|label=ザンクトゴットハールドの戦い}}でオスマン帝国軍に勝利したが、西の[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が領土拡大の野望を抱いていたためオーストリアは積極的に動けず、[[{{仮リンク|ヴァシュヴァールの和約]]|de|Frieden von Eisenburg|tr|Vasvar Antlaşması|en|Peace of Vasvár}}で20年の休戦、オスマン帝国の傀儡のトランシルヴァニア公[[アパフィ・ミハーイ1世]]を承認、毎年のオスマン帝国への贈与金などハプスブルク家に不利な内容を締結した。これがその結果ハンガリー・トランシルヴァニアのハプスブルク派貴族の反発を招が勢いづき、[[1670年]]の[[ヴェッシェレーニ陰謀]]の摘発と弾圧、[[1678年]]の[[テケリ・イムレ]]の蜂起に繋がった。
 
[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]は事態を重く見てハンガリーに対する弾圧を中止、[[1681年]]に[[絶対主義]]政策を撤回して貴族の宥和に勤めたが、テケリは[[ゲリラ]]活動を続け、1683年にオスマン帝国[[大宰相]][[カラ・ムスタファ・パシャ]]がテケリの要請を受けて出兵、[[第二次ウィーン包囲]]を敢行した。
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参加者は[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の庶子[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]、フランスから[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]、ドイツから[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]、[[バーデン (領邦)|バーデン=バーデン辺境伯]][[ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]、[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]、[[カレンベルク侯領|カレンベルク侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]・[[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク・ルートヴィヒ]]父子などが加わった。但し、ルイ14世はハプスブルク家の勢いを弱める目的でオスマン帝国と親交を結んでいたため、援助はしていない。
 
遠征軍はまず[[ブダ]]を包囲したが落とせず、隣の[[ペシュト|ペスト]]を落としただけに終わった。しかし翌[[1685年]]に[[ノヴェー・ザームキ|ノイヘウホイゼル]]を占拠してからは順調に進み、[[1686年]]にブダを奪還、ハンガリーの大半を手に入れた。[[1687年]]にドナウ川を南下して[[モハーチの戦い (1687年)|モハーチの戦い]]でオスマン軍に勝利、トランシルヴァニアにも進出した。アパフィ・ミハーイ1世は協定を結びトランシルヴァニアは実質上ハプスブルク家が領有、テケリは抵抗を続けたが味方の大半がオーストリアに寝返ったため没落、以後はオスマン帝国の援助を受けながら蜂起を繰り返していった。
 
この間、ヴェネツィアは[[アドリア海]]に艦隊を派遣して[[ダルマチア]]・[[ボスニア]]を襲撃、1685年に[[ギリシャ]]に進み1687年に[[ペロポネソス半島]]を占領した(戦闘中に[[アテネ]]の[[パルテノン神殿]]爆破事件が発生)。1686年に至りロシアが神聖同盟に加盟し、[[ツァーリ]]の[[イヴァン5世]]・[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]兄弟の姉で摂政[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィア]]が重臣[[ヴァシーリー・ゴリツィン]]率いるロシア軍を黒海に派遣、1687年と[[1689年]]の2度に渡りクリミア・ハン国に遠征したが、いずれも失敗しているた為<ref>長谷川、P293、パーマー、P34 - P38、マッケイ、P17 - 28。</ref>、ソフィアとゴリツィンが失脚して、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の母[[ナタリヤ・ナルイシキナ|ナターリヤ]]らの一族に委ねられた
 
[[1688年]]に遠征軍は[[バルカン半島]]に進軍、[[セルビア]]の都市[[ベオグラード]]も陥落させた。同年にルイ14世がドイツの[[ライン川]]流域・[[南ネーデルラント]]([[ベルギー]])、[[イタリア]]に進軍して[[大同盟戦争]]が勃発、シャルル5世・マクシミリアン2世・オイゲンらがライン川、イタリアに派遣され、残されたルートヴィヒ・ヴィルヘルムが司令官としてハンガリー方面を受け持ち1689年に[[ピテシュティ]]を占拠した。オスマン帝国も対策を取り、1687年に[[スルタン]]・[[メフメト4世]]が廃位され弟の[[スレイマン2世]]が擁立、1688年に遠征軍に呼応した[[チプロフツィ]]の反乱を鎮圧、1689年に大宰相に任命された[[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]が反撃して[[1690年]]にベオグラードを奪還、ドナウ川戦線を立て直した。
 
だが、[[1691年]]にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが[[スランカメンの戦い]]でムスタファ・パシャを討ち取り、同年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムもドイツに転属させられ、オスマン帝国もスレイマン2世が亡くなり弟の[[アフメト2世]]が即位したため戦線は停滞した。一方、ロシアでは親政を始めたピョートル1世が[[アゾフ]]方面へ{{仮リンク|アゾフ遠征 (1695年 - 1696年)|ru|Азовские походы Петра I|en|Azov campaigns (1695–96)|label=アゾフ遠征}}を行い、[[1695年]]の遠征は失敗したが、翌[[1696年]]の再遠征で奪取して[[黒海]]に前進した。1696年にドナウ川方面司令官は[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が就任したが苦戦続きで、[[1697年]]にイタリア方面から戻ったオイゲンに交代、1696年に死去したヤン3世の後釜としてポーランド王選挙に立候補、オーストリア・ロシアの支援でポーランド王に即位した(アウグスト2世)。
 
1695年にアフメト2世が死去、甥の[[ムスタファ2世]]が後を継ぐと北上してハンガリーへ向かったが、オイゲンはドナウ川を渡る途中のオスマン軍に奇襲、[[ゼンタの戦い]]で大勝利を挙げた。この勝利から和平交渉が進められ、[[1698年]]にポーランド軍も[[{{仮リンク|ピドハイツィの戦い]]|pl|Bitwa pod Podhajcami (1698)|uk|Битва під Підгайцями (1698)|ru|Битва под Подгайцами (1667)|en|Battle of Podhajce (1698)}}[[クリミア・ハン国]]に勝利、翌1699年にカルロヴィッツ条約を締結した<ref>長谷川、P293 - P295、パーマー、P38 - P49、南塚、P130 - P131、友清、P79 - P84、マッケイ、P43 - P53。</ref>。
 
=== 戦後 ===
カルロヴィッツ条約によりオーストリアはハンガリー・トランシルヴァニアを獲得、東欧に影響力を及ぼした。三十年戦争でドイツから排除され、フランスの勢威に押されていたハプスブルク家は東欧を足掛かりにして新たな大国へと成長していくことになる。但し、未だ貴族と聖職者の権力が強い時期であり、絶対主義からは程遠い状況にあった。また、トランシルヴァニアの反対勢力は健在で、テケリ亡命後に継子の[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]が大規模な反乱を起こすことになる([[ラーコーツィの独立戦争]])。
 
ポーランドは[[ウクライナ]]の[[ポジーリャ|ポドリア]]を獲得したが、内政をおろそかにしていたため王権は弱体化、[[1700年]]に勃発した[[大北方戦争]]を通して更に国威は低下していった。反対にロシアはピョートル1世の下で隆盛を迎え、ポーランドへの干渉を行い、大北方戦争を通して西欧の列強と肩を並べる程になっていった。アゾフは[[1711年]]の[[プルート川の戦い]]で敗北し、[[プルト条約]]でアゾフはオスマン帝国に返還したが、以後のロシアはオスマン帝国への干渉も行うようになった。ヴェネツィアはダルマチアを獲得したが、過去の栄光を取り戻せず衰退していった。
 
オスマン帝国はカルロヴィッツ条約でハンガリー・トランシルヴァニアを失い、勢いを失ったことが明らかになった。危機感を抱いたスルタンはヨーロッパに追いつこうと改革に取り組んだが、その都度反対派に阻まれ失敗を繰り返した。やがてバルカン半島に西欧列強が進出、没落の端緒となった。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
 
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== 関連項目 ==
* [[オスマン帝国領ハンガリー]]
* [[マーチャーシュ聖堂]]
* [[コソボの歴史]]
* [[プリイェドル]]
* [[露土戦争 (1686年-1700年)]]
* [[マーチャーシュ聖堂]]
* [[ザームエル・オッペンハイマー]]
* [[ポーランド・オスマン戦争]]
 
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[[Category:大トルコ戦争|*]]
[[Category:17世紀の戦争]]
[[Category:オーハプトリアブルク帝国の戦争]]
[[Category:神聖ローマ帝国の戦争]]
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[[Category:オスマン帝国の戦争]]
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[[Category:1680年代]]
 
[[Category:1690年代]]
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