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| 生誕地 = [[イギリス]]、[[プリマス]]
| 死没地 = [[オーステンデ]]沖アポロ艦上
| 所属組織 = [[File:British-White-Naval Ensign of Great Britain (1707-17071800).svg|25px]][[イギリス海軍]]
| 軍歴 = [[1748年]]-[[1780年]]
*[[オーストリア継承戦争]]
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**[[1780年1月8日の海戦]]
**[[サン・ビセンテ岬の海戦]]
**[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル包囲戦]]
| 最終階級 = ポストキャプテン
| 除隊後 =
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ポウノルは一流の[[船大工]]の子として生まれ、オーストリア継承戦争の最後の年に海軍に入った。数年間の任務の後、七年戦争の勃発時には自分で艦を指揮するほどにまで出世した。七年戦争では{{仮リンク|スループオブウォー|en|Sloop-of-war}}を指揮し、戦闘のすべてを通じて最も価値のある船を拿捕して、一夜にして大金持ちになった。ポウノルは結婚して土地を買ったが、その富にもかかわらず、アメリカ独立戦争の勃発とともに第一線に戻った。現役の間を通じて、ポウノルは、[[エドワード・ペリュー]]や{{仮リンク|ジョン・ボルラス・ウォーレン|en|Sir John Borlase Warren, 1st Baronet}}といった著名な艦長たちの教師的な存在だった
 
北アメリカにおいて部隊の支援や輸送をうまくこなし、その行動は際立っていた。また、[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル包囲戦]]のような、より大きな艦隊による海戦にも参戦した。[[1779年]]には、[[フランス]]の[[私掠船]]と激しい戦いを繰り広げ、その時に胸に[[銃弾]]を受け、その後、彼が死ぬまでその銃弾は取り去られることはなかった。翌年、またも重装備の私掠船と交戦し、そのさなかに[[砲弾]]を受けて戦死した。この交戦は指揮下の1等[[海尉]]ペリューが勝利に持ち込んだ。彼の戦死は、[[ジョン・ジャーヴィス]]やエドワード・ペリューをはじめとする、同時代の主な海軍軍人からの尊敬を受けた。
 
==家族と海軍入隊==
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ポウノル<ref group="注釈">ポウノールPownall、ポウネルPownellともいわれる。Oxford Dictionary of National Biographyではポウノルとなっている。</ref>は1734年頃に、船大工のイスラエルの息子として[[プリマス]]に生まれた。父は船大工としての生活の中で、数多くの軍艦を手掛け、[[1762年]]から[[1765年]]までは船大工の[[棟梁]]としてプリマスの[[乾ドック]]で、[[1775年]]から[[1779年]]までは[[チャタム (ケント州)|チャタム]]の乾ドックで仕事をしていた<ref name="ODNB">{{cite book |chapter=Pownoll, Philemon (b. in or before 1734, d. 1780)|chapterurl=http://www.oxforddnb.com/view/article/64864|title=Oxford Dictionary of National Biography |doi=10.1093/ref:odnb/64864|format=subscription required for online access}}</ref><ref name="Bradt">{{cite book |last=Bradt|title=Slow Devon & Exmoor|page=144}}</ref>。その1779年にイスラエルは亡くなった、イスラエルは[[ロンドン]]のシャドウェルとクラーケンウェルに土地を持っていた。おそらくはその当時、シャドウェルやワッピングといった地域の独立した[[船員]]や、開業していた[[商人]]から譲り受けたものだったのだろう。イスラエルは[[ニューイングランド]]にも伝手があった。[[海事]]の古物収集家である[[エドワード・ホーク・ロッカー]]は、後に、息子のフィルモンを「アメリカ育ちのジェントルマン」と表現している<ref name="ODNB"/>。
 
[[1748年]]頃、フィルモン・ポウノルは海軍に入隊し、64門艦{{仮リンク|マーズ (軍艦)|label=マーズ|en|HMS Mars (1746)}}に乗務した。[[1755年]][[4月7日]]に海尉試験に合格したが、その当時の記録では彼の年齢は「20歳以上」となっている。1755年[[10月7日]]には海尉に昇進した。最初は二等海尉として60門の{{仮リンク|ウェイマス (1752年の4等艦)|label=ウェイマス|en|HMS Weymouth (1752)}}に乗り、その後100門の{{仮リンク|ロイヤルジョージ (1等艦)|label=ロイヤルジョージ|en|HMS Royal George (1756)}}に転属された。七年戦争の勃発と共に海軍の任務を続け、1758年に74門艦に移った。{{仮リンク|ナムール (軍艦)|label=ナムール|en|HMS Namur (1756)}}は当時、[[エドワード・ボスコーエン]][[提督]]の[[旗艦]]であった。ボスコーエンはポウノルの保護者となり、このおかげでポウノルは四等海尉から一等海尉に早期に出世することができ、そして[[1759年]][[8月6日]]には[[スループ]]艦{{仮リンク|フェイバリット (1757年の艦艇)|en|HMS Favourite (1757)|label=フェイバリット}}の指揮官となった.<ref name="ODNB"/><ref name="Winfield269">{{cite book |last=Winfield |title=British Warships of the Age of Sail |page=269}}</ref>。
 
==指揮官として==
それから2年間、ポウノルはフェイバリットを指揮して、[[1761年]]半ばには、チャールズ・プロビー指揮下の[[カディス]]沖の戦隊に加わって航海した。この戦隊は74門艦[[サンダラー (戦列艦・初代)|サンダラー]] 、{{仮リンク|モデスト (3等艦)|label=モデスト|en|HMS Modeste (1759)}}、44門艦{{仮リンク|テティス (軍艦)|label=テティス|en|HMS Thetis (1747)}}で構成されていた。[[7月16日]]に64門艦アシーユとフリゲート艦ブフォンヌの2隻のフランス艦が、封鎖中の港をかろうじて離れたが、その翌日にイギリス艦隊に追跡され、[[海戦]]となった。激戦の末、両艦とも拿捕された<ref name="Winfield269"/><ref name="Burke">{{cite book |last=Burke |title=The Annual Register|page=151}}</ref>。ポウノルは[[1762年]][[5月]]まで、[[サン・ヴィセンテ岬]]の防御のために[[チャールズ・ソーンダース]]が派遣したフェイバリットで指揮を執った。フェイバリットはソーンダース艦隊の1隻だった<ref name="ODNB"/>。
 
5月15日、フェイバリットはハーバート・ソウヤー艦長の[[フリゲート]]艦{{仮リンク|アクティブ (6等艦)|label=アクティブ|en|HMS Active (1758)}}と共に、サンタマリア岬沖を航海していたところ、2隻はスペイン艦を発見して追跡した。いったん拿捕されたこの船はスペインの[[レジスターシップ]]のエルミオーネで、この年の[[1月6日]]に[[リマ]]を発ち、いくつもの袋に詰めた[[金|黄金]]と、[[金貨]]と、金銀の[[インゴット|延べ棒]]と、[[カカオ]]豆と、[[錫]]の塊を積んでいた。エルミオーネは[[ジブラルタル]]へと連れて行かれ、最終的に積荷、船体、[[艤装]]品共々戦利品となり、すべての価格は51万9705[[ポンド (通貨)|ポンド]]10[[シリング]]にもなった、これは今日の価格で7千130万ポンドに相当する。ポウノルとソウヤーはそれぞれ艦長の分け前として賞金6万4千782ポンド(今日の価格で890万ポンド)を手に入れた。この時代の賞金としては最も大きな部類に入る<ref name="ODNB"/><ref name="LM">{{cite book |last= |title=The London Magazine|page=396}}</ref>。水兵たちもそれぞれ480ポンドを受け取った、これは彼らの30年分の賃金に相当した。偶然にも、ソウヤーもポウノルも、[[リスボン]]の商人の2人の娘である姉妹にそれぞれ求婚していたが、資金が足りないため断られていた。今や大金持ちとなった2人は、彼女たちと結婚した。ポウノルはこの賞金でアシュプリントンのシャープハムに土地を買い、[[ランスロット・ブラウン|ケーパビリティ・ブラウン]]の設計した[[庭園]]つきの大きな邸宅を建てた。この頃ポウノルは、[[ジョシュア・レノルズ]]に肖像画を依頼したといわれる<ref name="ODNB"/><ref name="Bradt"/>。
 
==アメリカ独立戦争==
[[File:Canadian militiamen and British soldiers repulse the American assault at Sault-au-Matelot.jpg|thumb|230px|right|ケベックの戦い。右がイギリスと[[カナダ]]の連合軍、左が[[13植民地|アメリカ植民地]]軍]]
莫大な資産が転がり込んだにもかかわらず、ポウノルは、アメリカ独立戦争が勃発してまもない[[1774年]]の終わりに海軍の任務に戻った。このことにより、ポウノルは[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員の[[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュ]]から称賛された<ref name="ODNB"/>。この年の[[12月]]に32門艦{{仮リンク|ブロンド (軍艦)|label=ブロンド|en|HMS Blonde (1760)}}に乗務して、[[北アメリカ]]までの航海に備え艦の装備作業を進めた<ref name="Winfield193">{{cite book |last=Winfield |title=British Warships of the Age of Sail |page=193}}</ref>。乗組員を召集している間、かつての保護者を務めてくれたエドワード・ボスコーエンの兄弟にあたる、{{仮リ[[ヒュー・ボスコーエ (第2代ファルマス子爵)|2代ファルマス子爵ヒュー・ボスコーエン|en|Hugh Boscawen, 2nd Viscount Falmouth}}]]から、若い{{仮リンク|[[士官候補生|en|Midshipman}}]]を紹介された。ボスコーエンへの借りを返す意味で、ポウノルはその士官候補生を艦に乗せた。この青年は名を[[エドワード・ペリュー]]といい、前に乗艦していた{{仮リンク|アラーム (5等艦)|label=アラーム|en|HMS Alarm (1758)}}の艦長ジョン・スコットと口論したため、転属させられたのである。とはいうもののスコットは、この時代の最も偉大な提督に数えられる人物だった。ポウノルと士官たちは艦の艤装を点検したが、そのうちのほとんどは、1775年2月の嵐で難破し、チャタムから戻ってきたブロンドも難破しそうになったが、ポウノルのすばやい行動のおかげで難を逃れた<ref name="ODNB"/>。
 
この1775年の[[4月]]に、ブロンドはフリゲート艦{{仮リンク|ジュノー (5等艦)|label=ジュノー|en|HMS Juno (1757)}}と共に北アメリカに航海し、{{仮リンク|セントレンズ (シリー諸島)|label=セントヘレンズ|en|St Helen's, Isles of Scilly}}経由で[[ジョン・バーゴイン]][[将軍]]率いる部隊をボストンに輸送するため、20隻の輸送艦で船団を組んだ<ref name="ODNB"/><ref name="Winfield193"/>。兵たちを輸送している間、バーゴインは、[[桁端]]で士官候補生のペリューが逆立ちをしているのに気付いた。ポウノルはペリューがふざけていること、仮に落ちたとしても、反対側から上がってくるだけだと言って安心させた。この航海の終わりの方になって、ペリューはある者を助けようと水中に飛び込み、このことをポウノルに叱責された。しかしポウノルは、後に同僚とこの時のことを話していて涙を流し、ペリューは見上げたやつであると言った<ref name="Museum">{{cite book |last= |title=Museum of Foreign Literature, Science and Art|page=219}}</ref>。
 
ペリューとポウノルは[[ケベックの戦い (1775年)|1775年のケベックの戦い]]に参戦した<ref name="Gore" /> 。[[1776年]]の4月、ポウノルは船に戻り、[[1777年]][[9月16日]]に、アメリカの船に攻撃を仕掛けて私掠船フリーダムを拿捕し、[[1778年]]の[[1月27日]]にはやはり私掠船のトゥルー・ブルーを拿捕した。1777年の1月には32門艦{{仮リンク|アポロ (1763年の5等艦)|en|HMS Glory (1763)}}に、ペリューを新しく部下に加えて乗務した<ref name="Winfield190">{{cite book |last=Winfield |title=British Warships of the Age of Sail |page=190}}</ref><ref group="注釈" name="ex02">アポロは1774年に進水した時はグローリーという名だったが、1774年にアポロに改名された。</ref>。今やポウノルは、部下たちから慕われる存在となり、サンドイッチ伯にこう書き送っている。「素晴らしい艦に乗ることができ、アマースト提督からの新人水兵以外はすべて志願兵で、いい人材がそろっており、彼らのおかげで、私一人では手に負えなかった諸々の問題も片付きました{{refnest|group="注釈"|英語版ではこの箇所がcomplete my complimentとなっており、原文ママを表すsicが挿入されている。ポウノル自身がcomplimentとcomplicacy(複雑な問題、厄介ごと)あたりを取り違えたものか。ここではcomplicacyとして訳した。}}」<ref name="Duffy89">{{cite book |last=Duffy |title=Parameters of British Naval Power|page=89}}</ref>
 
[[File:The Moonlight Battle off Cape St Vincent, 16 January 1780.jpg|thumb|230px|right|サン・ビセンテ岬の海戦(月光の海戦)]]
[[1778年]][[8月]]以来、アポロは[[リチャード・ハウ]][[提督]]の旗艦だった。このアポロは、再装備をすませて[[銅板]]を打ち{{refnest|group="注釈"|この頃からイギリスの戦列艦は喫水線の下に銅板を貼るようになり、その結果艦の速度が非常に上がった<ref>小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年、366頁。</ref>。}}、その年の12月にプリマスに戻っていた。[[1779年]][[1月31日]]、アポロは戦線に復帰し、[[ブルターニュ]]沖で26門のフランスのフリゲート艦ワゾー{{refnest|group="注釈"|このワゾーは後にイギリス海軍の軍艦となった。}}と激戦を繰り広げ、これによりポウノルとフランスの指揮官が負傷した。ポウノルは胸に銃弾を受け、これは終生取り出されることはなかった<ref name="ODNB"/>。アポロはプリマスで修理され、1779年の終わりにまた海へ出て、[[チャールズ・ハーディ]]提督の艦隊に加わった。ポウノルは14門のムティーヌを1779年の[[10月2日]]に拿捕し、その月の終わりにレイノルズの戦隊に加わった。その翌年には、[[ジョージ・ロドニー|ジョージ・ブリッジズ・ロドニー]]の[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル包囲戦]]を支援し、[[1780年1月8日の海戦]]にも参戦していた<ref name="Winfield190"/>。[[1月16日]]から17日の、[[サン・ビセンテ岬の海戦]]で、ポウノルは、スペインの[[戦列艦]]{{仮リンク|モナルカ|en|Spanish ship Monarca (1756)}}と戦って大いにその名をはせた。これは1時間余りの一方的な戦いで、モナルカは、ロドニーの旗艦が視界に入ってきたため、やむをえず旗を降ろした<ref name=Syrett241>Syrett, p. 241</ref> 。[[1780年]][[3月2日]]、私掠船ヴィクトワールがアポロに拿捕された。そして6月半ば、アポロは、{{仮リンク|ジョージ・マレー|en|George Murray (British Army officer)}}艦長指揮下の32門のクレオパトラと共に航海を続けていた<ref name="Winfield190"/>。
 
==最後の戦い==
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==伝説==
[[File:Philemon Pownoll memorial.jpg|thumb|right|ポウノルの記念碑。「フィルモン・ポウノル艦長、1780年6月15日、アポロ艦上にて戦死」と刻まれている。]]
多くの人々がポウノルの死を悼んだ。ペリューは、[[海軍本部]]への報告書で次のように書いている。「ポウノル艦長の戦死は非常につらいものでした。この艦の士官や乗組員は父たる存在を失いました。私はそれ以上のもの、父と盟友とを失いました、この世における唯一の友でした。しかし、卿におかれては、この艦の我々が感じる以上に、この人徳篤い指揮官の急逝に対し、もっと悲痛な思いでおられることでしょう。私はとてもこの思いを表すすべを知りません。とても表しようがありません。」。ジョン・ジャーヴィス提督は、ペリューにこう返信した、ポウノルは「最上にして非常に優秀な士官であり、任務においては思いやりのある男だった。」そしてこうも主張した「最高の[[パルチザン]]を失った、パルチザンでなければ、様々な状況での任務における最高の士官だった」[[エドワード・オスラー]]は[[1835年]]に、「セントビンセント伯(ジョン・ジャーヴィス)とポウノルはボスコーエンに育てられ、ボスコーエンに海尉としての任務を与えられた。ジャーヴィスとポウノルは、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]あるいはエクスマス子爵(エドワード・ペリュー)といった士官に多くのものを与えた。この両者は多くの弟子たる存在を持ったが、両者が弟子たちに与えた規範はボスコーエンの人格であり、手本として示したのはボスコーエンの成功である」
 
ペリューと同様に、ポウノルの部下であったジョン・ボルラス・ウォーレンも海軍での任務を続け、フリゲート艦の艦長になった。一方で、[[1804年]]にジャーヴィスはポウノルの海軍への貢献に謝意を表し、ポウノルの孫にあたる{{仮リンク|ジョン・バスタード|en|John Bastard (Royal Navy officer)}}を昇進させた<ref name="ODNB"/><ref name="Duffy89"/>。ペリューは、かつての上司である艦長と彼の家族の栄誉を称え、長男にポウノルと名付けた<ref name="Gore">{{cite book |last=Gore|title=Soldiers, Saints and Scallywags|page=83}}</ref>。
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*[[ボストン包囲戦]]
 
{{Persondata
|NAME= Pownoll, Philemon
|ALTERNATIVE NAMES=
|SHORT DESCRIPTION=[[Royal Navy]] officer during the [[War of the Austrian Succession]], the [[Seven Years' War]] and the [[American War of Independence]]
|DATE OF BIRTH=c. 1734
|PLACE OF BIRTH=[[Plymouth]]
|DATE OF DEATH= 15 June 1780
|PLACE OF DEATH=Aboard [[HMS Glory (1763)|HMS ''Apollo'']], off [[Ostend]]
}}
{{DEFAULTSORT:ほうのる ふいるもん}}
[[Category:17301734年生]]
[[Category:1780年]]
[[Category:プリマス出身の人物]]
[[Category:イギリス海軍の軍人]]