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{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
|名前 = ブラインド・フェイス<br />{{lang|en|Blind Faith}}
|画像 = Blind Faith (1969).jpg
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|画像補正 = yes<!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
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|別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません -->
|出身地 = {{ENG}}<br />[[サリー州]]リプリー
|ジャンル = [[ブルースロック]]
|活動期間 = [[1968年]] - [[1970年]]
|レーベル = [[ポリドール・レコード]]<br />[[アトコ・レコード]]
|事務所 =
|共同作業者 = [[クリーム (バンド)|クリーム]]<br/>[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]<br/>[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]<br/>[[ファミリー (バンド)|ファミリー]]
|公式サイト =
|メンバー = [[スティーヴ・ウィンウッド]]<br />[[エリック・クラプトン]]<br />{{仮リンク|リック・グレッチ|en|Ric Grech}}<br />[[ジンジャー・ベイカー]]
|旧メンバー = <!-- グループのみ -->
}}
'''ブラインド・フェイス'''
当時の実力派ミュージシャンが集結した[[スーパーグループ]]の一つで、[[スティーヴ・ウィンウッド]](元[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]、[[トラフィック (バンド)|トラフィック]])、[[エリック・クラプトン]](元[[ヤードバーズ]]、[[クリーム (バンド)|クリーム]])、[[ジンジャー・ベイカー]](元クリーム)、{{仮リンク|リック・グレッチ|en|Ric Grech}}(元[[ファミリー (バンド)|ファミリー]])により結成。[[ブルースロック]]をベースに更なる音楽性を追求した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190423091603/https://okmusic.jp/news/259181 |title=スーパーグループとして知られるブラインド・フェイス唯一のアルバム『スーパー・ジャイアンツ』 |publisher=Okmusic |date=2018-04-13 |accessdate=2019-12-28 }}</ref>。
発表された唯一の[[スタジオ・アルバム]]『[[スーパー・ジャイアンツ]]』は、英米のチャートで首位を獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.udiscovermusic.jp/stories/ultimate-supergroups-transatlantic-triumph |title=唯一の作品が英米で首位を獲得したスーパーグループ、ブラインド・フェイス |publisher=U discovermusic.jp |date=2019-09-20 |accessdate=2019-12-28 }}</ref>。収録曲の[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]のような「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」は、クラプトンにとって重要なレパートリーの一つとなり、[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]時代やソロに転じてからのライブでもしばしば演奏された。「[[マイ・ウェイ・ホーム]]」は、ウィンウッドのライブで度々演奏された。
== 結成と初期の経歴 ==
ブラインド・フェイスの始まりは、1968年中頃の[[クリーム (バンド)|クリーム]]の解散に遡る。最初期の「[[スーパーグループ]]」だったクリームは、2年間で何百万枚ものアルバムを売り上げ、グループ及び各メンバーのレパートリーは世界的な人気を博することとなった。しかし、結成以前からの[[ジャック・ブルース]]とジンジャー・ベイカーの不仲は改善されることはなく、クラプトンは2人の仲を取り持つのに尽くしたが徒労に終わり、結局彼等は解散した。彼は商業的におもねったブルースを演奏することに嫌気がさしており、新たなジャンルへ実験的で束縛されないアプローチを進めていくことを望んでいた。
ウィンウッドも、3年間リードシンガーを務めていた[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]で同様の問題に直面していた。彼は[[ジャズ]]の要素を取り入れてバンドのサウンドを変化させたかったが、他のメンバーと方向性が異なったので脱退し、1967年に[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]を結成した。2年後の1969年にトラフィックが解散すると、ウィンウッドは1966年に「[[:en:Eric_Clapton_and_the_Powerhouse|パワーハウス]]」<ref group="注釈">アメリカに本社がある[[エレクトラ・レコード]]がイギリスに進出した記念の一環として制作した英米バンドのセッション・オムニバス・アルバム『[[:en:What's Shakin'|ホワッツ・シェイキン]]』の為に結成されたセッション・バンド。メンバーは[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]を脱退したクラプトン、[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]のウィンウッドと[[ピート・ヨーク]]、[[マンフレッド・マン (バンド)|マンフレッド・マン]]の[[ポール・ジョーンズ (シンガー)|ポール・ジョーンズ]]とジャック・ブルースだった。</ref>で共に活動したクラプトンと、[[サリー (イングランド)|サリー]]にあるクラプトンの地下室でセッションを始めた。
クラプトンはジャム・セッションには満足していたが、本格的なバンド活動を始めることには躊躇していた。1969年のある日、ベイカーが2人の活動に加わり、新しいバンドは最終形態に近い形となった。ただクラプトンはブルースと、もしそれぞれが共に活動することがあるなら、もう一度3人でプレイすると約束しており、ベイカーを誘うとなればブルースも誘うべきではないかという思いがあった。しかし一方では、解散から9週間しか経っていないので再結成をしたくないとも考えていた上に、また「クリームのメンバーのような」スーパースターとしての環境に身を置きたくなかった。結局ウィンウッドが、ベイカーはバンドの音楽性を高めてくれるし彼ほどのドラマーを他に見つけるのは難しいと主張して、ベイカーをバンドに加えるようクラプトンを説得した<ref>Eric Clapton, ''Clapton.'' New York, Broadway Books, 2007. pp. 108-110.</ref>。
1969年5月までに、[[ファミリー (バンド)|ファミリー]]のベーシストだった[[リック・グレッチ]]が誘われ、グレッチはファミリーをツアー途中で脱退して加入した。アルバムのレコーディングはエンジニアの[[アンディ・ジョンズ]]がモーガン・スタジオでバックトラックの大半を録音し、アラン・オダフィーが残りのトラックを録音、オーバーダブとミックスがオリンピック・スタジオで行われた。これらの作業はプロデューサーの[[ジミー・ミラー]]が監修し、彼はそれぞれのトラックを商業的な標準の3-5分以内に収めるのを好んだ。その後バンドは'''ブラインド・フェイス(盲目的信頼)'''と名付けられる。これはクラプトンの新しいグループに対するシニカルな視点からのものであった。
== デビューとツアー ==
グループ結成のニュースはメディアとファンに興奮を持って迎えられ、「スーパー・クリーム」との告知さえ行われた。彼等は、[[1969年]]6月7日に[[ロンドン]]の[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]で行われたフリーコンサートでデビューし<ref>{{cite web|url=http://www.angelfire.com/wi/blindfaith/bfconcerts.html|title=Blind Faith's Concert Performances|accessdate=2008-12-10}}</ref>、当時史上最高の10万人を動員したという。その内容は観客から良く受け取られたものの、クラプトンは演奏は平均以下であると考え<ref>Eric Clapton, ''Clapton.'' New York, Broadway Books, 2007. p. 111.</ref>、群衆がほとんど全てに拍手喝采するのを、へつらいであり過分であって、クリーム時代の名声の名残によるものだと考えていた。クラプトンは自分達が十分にリハーサルもせず十分な準備が出来ていないと考え、ツアーに出ることを嫌がった。ブラインド・フェイスがクリームの二の舞になることを恐れたのである。
ウィンウッドはアイランド・レコードと契約していたので、彼はクラプトンとベイカーがイギリスで契約していたポリドール・レコードへの貸し出しという形になった。おそらくはこの取引の一部として、彼らはアイランド・レコードのためのプロモーションシングルを一枚リリースした<ref>{{Cite web |url=https://www.discogs.com/release/3144647-Blind-Faith-Change-Of-Address-From-June-23rd-1969 |title=Discogs |access-date=2024年12月23日}}</ref>。このシングルは、アイランドがオフィスを移転したことを発表するためのものであり、「''Change Of Address From 23 June 1969''」と題され、片面のみにインストゥルメンタル・ジャムが収められ、ラベルにグループの情報は全く記載されなかった。ラベルに記載されたその他の情報はアイランドの新たな住所、電話番号、ケーブルアドレスのみであった。このセッションは、おそらく1969年3月から5月の間にオリンピック・スタジオで行われたもので、500枚ほどがプレスされ、ほとんどがイギリスのディスクジョッキーや音楽業界人に配付されたと考えられている。そのジャム・セッションは、31年後の2000年に発表された『スーパー・ジャイアンツ』デラックス・エディションのボーナスCD「''Change of Address Jam''」として日の目を見ることとなった。
ハイド・パークでのコンサートの後、アルバムに向けてのレコーディングは継続されつつスカンジナビアでの短期ツアーが行われた。バンドは小さなギグを行い、それはアメリカ及びイギリスでのツアーのリハーサルとなった。短期ツアーの後、バンドはアメリカでのツアーを行い、7月12日には[[マディソン・スクエア・ガーデン]]において、2万人の聴衆の前でプレイした。アメリカ・ツアーは7週間続き、8月24日の[[ハワイ]]で終了した<ref>{{Cite web|url=http://www.stevewinwood.com/timeline.full.htm|title=Official Steve Winwood Website|accessdate=2007-01-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061112124843/http://www.stevewinwood.com/timeline.full.htm|archivedate=2006-11-12|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。
ツアーでの大きな問題は、レパートリーがごく僅かで1時間を満たすのがやっとである事だった。聴衆を喜ばせるために、彼等はやむを得ず新曲よりも人気のあったクリームやトラフィックの楽曲を演奏することになり、これはクラプトンがまさにそうありたくないと考えていた状況だった。「スーパー・クリーム」はマディソン・スクエア・ガーデンでの公演初日で観客が引き起こした暴動{{Sfb|Baker|Baker|2010|p=128}}の中、にっちもさっちもいかない状態に陥り、彼等は観衆をなだめ、新曲の不足によって残された空白を埋めるために、クリームの楽曲を披露した。
彼等の前座は[[フリー (バンド)|フリー]]、[[テイスト (バンド)|テイスト]]、[[デラニー&ボニー]]といったバンドだった。クラプトンはデラニー&ボニーの魂がこもった気さくなブルースを特に気に入っていた。彼はデラニー&ボニーと過ごす時間が増え、ブラインド・フェイスのより際立った役割をウィンウッドに任せるようになった。
== アルバムと論争==
アルバム『スーパー・ジャイアンツ』は1969年7月にリリースされ、イギリス及びアメリカでチャート1位となった。アメリカではBlack Albumsでも40位を記録し、これはイギリスのロックバンドにとっては見事な離れ業であった。発売から1か月で50万枚を売り上げ、[[アトランティック・レコード]](アメリカでは[[アトコ・レコード|アトコ]])及びクラプトンとベイカーに巨額の利益をもたらした。本作の売れ行きは、クリームのアルバムの売り上げにもつながり、こちらもアメリカではアトコの配給であった。
アルバム・ジャケットにはタイトルもバンド名も無く、包装紙のみが誰名義のアルバムなのかを買い手に示していた。ジャケットは銀色の宇宙船を手に持った[[トップレス]]の少女の写真だったため、論争が引き起った<ref name="Romanowski, 2003">Romanowski, , Patricia (2003). ''Rolling Stone Encyclopedia of Rock & Roll'' Rolling Stone Press, ISBN 0-671-43457-8</ref>。この宇宙船はロイヤル・カレッジ・オブ・アートの宝石職人だったミック・ミリガン(Mikko Milligan)がデザインした物で<ref>{{cite web|url=http://www.bobseidemann.com/blind_faith_doc.html |title=about BLIND FAITH |publisher=Bobseidemann.com |date= |accessdate=2011-09-13}}</ref>、[[男性器]]を象徴していると見なされた<ref>{{cite web|author=Stephen Smith |url=http://www.winwoodfans.com/cs/cscollab.htm |title=Steve Winwood Fans' Site: Collaborations & Sessions: Collaborations |publisher=Winwoodfans.com |date= |accessdate=2011-09-13}}</ref>。アメリカではイギリス盤の内側に使われたバンドの写真を使ったジャケットが採用された<ref name="Romanowski, 2003"/><ref>{{Cite web |url=https://www.discogs.com/release/1139803-Blind-Faith-Blind-Faith |title=Discogs |access-date=2024年12月23日}}</ref>。またイギリスでも別バージョン、薄いラミネートカバーのついたジャケットが作成され、そのレコード番号はオリジナル盤の番号の末尾に「B」が付け加えられたものになった(583 059B)<ref>{{Cite web |url=https://www.discogs.com/release/3837653-Blind-Faith-Blind-Faith |title=Discogs |access-date=2024年12月24日}}</ref>。
[[カバーアート]]はクラプトンの友人で以前のフラットでの同居人だった写真家のボブ・サイデマン([[:en:Bob_Seidemann|Bob Seidemann]])による。彼は[[ジャニス・ジョプリン]]や[[グレイトフル・デッド]]の写真でよく知られていた。バンドと少女の関係に関する噂は論争をあおることとなった。彼女はベイカーの[[嫡出|隠し子]]でありバンドの[[グルーピー]]で[[奴隷]]のように扱われていた、という噂もあった。ジャケットに関するサイデマンの随筆で説明されている<ref>{{cite web |url=http://www.angelfire.com/wi/blindfaith/vvcov69.html |title=Blind Faith Website |accessdate=2007-06-20}}</ref>ように、彼女は実際はロンドン郊外に居住しており、両親の同意の上でモデルに起用された。
本作は当初いくつかの国で発売禁止になったが、オリジナルのアートワークは人気が高くコレクターズアイテムとなった。1970年代後半になるとRSOレーベルから世界的に発売されることとなった。1980年代半ばには[[モービル・フィデリティ・サウンド・ラボ]]からアナログ盤およびゴールドCDのリマスター盤が発売された。2000年には2枚組デラックス・エディションがポリドールから発売され、別バージョン、アウトテイク、スタジオリハーサルが収録された。
== 解散とメンバーのその後 ==
ツアーが8月に終わった後、イギリスに戻った彼等には国内ツアーのオファーもあったが、結局10月までにバンドは事実上の解散を迎え、ブラインド・フェイスの活動は半年にも満たないということになった。彼等が残したアルバムは『スーパー・ジャイアンツ』のみだったが、いくつかのライブテイクはウィンウッドの編集アルバム『[[:en:The_Finer_Things_(Steve_Winwood_album)|The Finer Things]]』(1995年)に収められた。
その後クラプトンはスポットライトから外れて脇役になり、初めは[[プラスティック・オノ・バンド]]、続いてデラニー&ボニー&フレンズのメンバーとしてステージに立った。彼は自分をクリームやブラインド・フェイスを解散させた疫病神と思い込んでいたが、これらの活動が彼を癒すこととなった。デラニー&ボニー&フレンズのツアーに参加した後、彼はメンバー数名と共に新たなスーパーグループである[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]を結成した。クラプトンはブラインド・フェイスの楽曲をレパートリーから排除せず、その後のソロ活動でも「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「[[マイ・ウェイ・ホーム]]」といった曲を演奏した。
ベイカーはクラプトンと異なり、ブラインド・フェイスでの経験を楽しんだ。そしてグレッチやウィンウッドと共に[[ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース]]を結成した{{Sfb|Baker|Baker|2010|p=134}}。ベイカーと共に何度かステージに上った後、ウィンウッドはグレッチと同時に脱退し、アイランド・レコードに戻ってソロ・アルバムの制作を経てトラフィックを再結成した。グレッチはトラフィックのアルバム『[[ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン]]』(1970年)と『[[ザ・ロウ・スパーク・オブ・ザ・ハイヒールド・ボーイズ]]』(1971年)にベースで参加した。ウィンウッドは1974年にトラフィックを解散させ、その後はソロ経歴を積み重ねた。一方、グレッチは様々なグループに参加した後、1990年に脳内出血で死去した<ref name="Romanowski, 2003"/>。
クラプトンとウィンウッドは2000年に映画『[[ブルース・ブラザース2000]]』に「ルイジアナ・ゲーター・ボーイズ」のメンバーとして出演した。両者はブラインド・フェイス時代の活動を肯定的に捉え、そのレパートリーをステージで演奏したり、様々なアルバムに収録している。
2019年、ベイカー病没。享年80歳。
== メンバー ==
*[[スティーヴ・ウィンウッド]] (Steve Winwood) - [[ヴォーカル]]/[[ギター]]/[[キーボード (楽器)|キーボード]]
*[[エリック・クラプトン]] (Eric Clapton) - ギター/ヴォーカル
*[[リック・グレッチ]] (Ric Grech) - [[ベースギター|ベース]]/[[ヴァイオリン]]
*[[ジンジャー・ベイカー]] (Ginger Baker) - [[ドラムス]]
<gallery widths="120px" heights="180px">
File:Stevie Winwood (1970).jpg|スティーヴ・ウィンウッド(1970年)
File:Eric-Clapton 1975.jpg|エリック・クラプトン (1975年)
File:Ginger Baker (Cream) on Fanclub in 1968 (cropped).png|ジンジャー・ベイカー(1968年)
</gallery>
==ディスコグラフィ==
*『[[スーパー・ジャイアンツ]]』''Blind Faith'' - アメリカ:1位(1969年8月)プラチナアルバム イギリス:1位(1969年9月)ゴールドアルバム
==映像作品==
*''[[:en:London Hyde Park 1969 (album)|London Hyde Park 1969]]''
==チャート==
『スーパー・ジャイアンツ』のビルボードでの最高順位:
{| class="wikitable"
|-
!年
!チャート
!最高位
|-
|rowspan="2"|1969年
|Black Albums
| style="text-align:center;"|40
|-
|Pop Albums
| style="text-align:center;"|1
|-
|1977年
|Pop Albums
| style="text-align:center;"|126
|}
==クラプトンとウィンウッドの共演==
[[File:Eric Clapton & Steve Winwood (4776990912).jpg|thumb|right|220px|ウィンウッド&クラプトン共演ツアー(2009年)]]
2007年7月、クラプトンとウィンウッドは[[イリノイ州]][[ブリッジヴュー]]の[[トヨタパーク]]で行われた[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]に揃って出演し、「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」「泣きたい気持」の3曲を演奏して、ブラインド・フェイスの再結成と騒がれた。この共演の模様は同年に発表されたDVD『クロスロード・ギター・フェスティヴァル 2007』に収録された。
この成功が刺激となり、両者は翌[[2008年]]2月に[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で再び共演、3日間の公演を実現した。これは公式なブラインド・フェイスの再結成ではなく「ウィンウッドとクラプトン」の共演だった。彼らは、ブラインド・フェイスのナンバーに加えてトラフィック、デレク・アンド・ザ・ドミノス、クラプトンのソロおよび[[ジミ・ヘンドリックス]]のカバーを演奏した。[[ウィリー・ウィークス]]がベース、イアン・トーマスがドラムス、[[クリス・ステイントン]]がキーボードを担当した。同公演の模様は、2009年にライヴ・アルバム及び映像作品『[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]]』として発表された。
2009年6月10日、両者は[[ニュージャージー州]]の[[アイゾッド・センター]]を皮切りとする14日間に及ぶアメリカ・ツアーを決行した。バックバンドは前年と大きくは変わらなかったが、ドラマーがイアン・トーマスから[[エイブ・ラボリエル・ジュニア]]に交代し、バッキング・ヴォーカルにミシェル・ジョン、シャロン・ホワイトが加わった。翌2010年にはドラマーが[[スティーヴ・ガッド]]に交代したバンドを連れて、ヨーロッパツアーを行った。2011年は、5月26日から6月1日までロンドンの[[ロイヤル・アルバート・ホール]]で5公演を行い、11月から12月にかけて日本で15公演を行った。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 引用文献 ===
* {{cite book|last1=Baker|first1=Ginger|last2=Baker|first2=Ginette|year=2010||title=Ginger Baker: Hellraiser|location=London|publisher=Bonnier Books|id=ISBN 978-1-84454-966-5|ref=harv}}
==外部リンク==
* [http://www.gingerbaker.com/bands/blind-faith.htm The Blind Faith Story - from the Official Ginger Baker Archive]
* [http://www.gingerbaker.co.uk/ Official Ginger Baker Archive]
* [http://www.ericclapton.com/ Eric Clapton official website]
* [http://www.stevewinwood.com/ Steve Winwood official website]
{{クリーム}}
{{トラフィック}}
{{エリック・クラプトン}}
{{スティーヴ・ウィンウッド}}
{{ジンジャー・ベイカー}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふらいんとふえいす}}
[[
[[Category:ブルースロック・バンド]]
[[
[[Category:4人組の音楽グループ]]
[[Category:1968年に結成した音楽グループ]]
[[Category:1970年に解散した音楽グループ]]
|