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|天皇名 = 昭和天皇
|歴代 = 124
|画像 = Emperor_Showa_1956-11-faceHirohito in dress uniform.jpg
|画像幅 = 230
|画像代替文 = 昭和天皇
|画像説明 = 19561935(昭和31年)撮影の正式な肖像写真。
|在位期間 = [[1926年]][[12月25日]] - [[1989年]][[1月7日]]
|和暦在位期間 = [[大正]]15年/[[昭和]]元年[[12月25日]] - 昭和64年[[1月7日]]
|即位礼 = 即位礼紫宸殿の儀<br />[[1928年]](昭和3年)[[11月10日]]<br />於 [[京都御所]]
|大嘗祭 = 1928年(昭和3年)<br />[[11月14日]]・[[11月15日|15日]]<br />於 [[仙洞御所]]大嘗宮
|元号 = [[昭和]]: 1926年12月25日 - 1989年1月7日
|追号 = 昭和天皇(しょうわてんのう)
|追号勅定年月日 = [[1989年]]([[平成]]元年)<br />[[1月31日]]<ref>1989年:平成元年1月31日内閣告示第3号「[[大行天皇]]の追号が定められた件」([[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]])</ref>
|政府首脳官職 = [[内閣総理大臣]]
|政府首脳人物 = {{Collapsible list|title=[[内閣総理大臣の一覧#昭和元年|一覧参照]]|[[若槻禮次郎]]<br />[[田中義一]]<br />[[濱口雄幸]]<br />[[犬養毅]]<br />[[斎藤実]]<br />[[岡田啓介]]<br />[[広田弘毅]]<br />[[林銑十郎]]<br />[[近衛文麿]]<br />[[平沼騏一郎]]<br />[[阿部信行]]<br />[[米内光政]]<br />[[東條英機]]<br />[[小磯國昭]]<br />[[鈴木貫太郎]]<br />[[東久邇宮稔彦王]]<br />[[幣原喜重郎]]<br />[[吉田茂]]<br />[[片山哲]]<br />[[芦田均]]<br />[[鳩山一郎]]<br />[[石橋湛山]]<br />[[岸信介]]<br />[[池田勇人]]<br />[[佐藤栄作]]<br />[[田中角栄]]<br />[[三木武夫]]<br />[[福田赳夫]]<br />[[大平正芳]]<br />[[鈴木善幸]]<br />[[中曽根康弘]]<br />[[竹下登]]}}
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|次代 = [[明仁]]
|地位 = [[摂政#日本における摂政|摂政]]
|地位在位期間 = [[1921年]][[11月25日]] - [[1926年]][[12月25日]]<br />[[大正]]10年11月25日 - 大正15年/[[昭和]]元年[[12月25日]]
|政府首脳官職乙 = 天皇
|政府首脳人物乙 = [[大正天皇]]
|政府首脳官職乙2 = 内閣総理大臣
|政府首脳人物乙2 = {{Collapsible list|title=[[内閣総理大臣の一覧|一覧参照]]|[[加藤友三郎]]<br />[[山本権兵衛]]<br />[[清浦奎吾]]<br />[[加藤高明]]<br />[[若槻禮次郎]]}}
|誕生年月日時 = [[1901年]]([[明治]]34年)[[4月29日]]<br />午後10時10分
|誕生場所 = {{JPN1889}} [[東京府]][[東京市]][[赤坂区]]<br/>[[東宮御所|青山御所]]
|崩御年月日時 = [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]<br />午前6時33分<br />(87歳没)
|崩御場所 = {{JPN1947}} [[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]<br/>[[吹上御苑|吹上御所]]
|大喪儀 =葬場殿の儀<br />[[大喪の礼]]<br />[[1989年]]([[平成]]元年)[[2月24日]]<br />於 [[新宿御苑]]葬場殿
|陵所 = [[武蔵陵墓地|武蔵野陵]]<br />([[東京都]][[八王子市]][[長房町]])
|諱 = 裕仁(ひろひと)
|命名年月日 = [[1901年]](明治34年)[[5月5日]]
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|父親 = [[大正天皇]]
|母親 = [[貞明皇后]]
|皇后 = [[香淳皇后]](良子女王)<br />[[1924年]](大正13年)[[1月26日]]<br/>結婚
|子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[東久邇成子]](成子内親王→盛厚王妃成子内親王)<br />[[久宮祐子内親王|祐子内親王]]<br />[[鷹司和子]](和子内親王)<br />[[池田厚子]](厚子内親王)<br />[[明仁]](明仁親王 → 第125代天皇 → 上皇)<br />[[常陸宮正仁親王]](正仁親王)<br />[[島津貴子]](貴子内親王)}}
|皇嗣 = [[秩父宮雍仁親王]]{{efn|明仁親王が誕生する[[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]以前の皇嗣。ただ、昭和天皇と香淳皇后の間に男子が誕生する可能性が充分にあったため、皇太子や皇太弟にはたてられなかった。}}<br/>↓<br/>[[明仁|皇太子明仁親王]]{{efn|[[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]以降}}
|皇居 = [[皇居|宮城・皇居]]
|空欄表題1 = 栄典
|空欄記載1 = [[大勲位]]
|空欄表題2 = [[学歴]]
|空欄記載2 = 学習院初等科卒業、東宮御学問所修了<ref>[https://f-showa.or.jp/museum/about_emperor_showa/]昭和天皇記念館</ref>
|空欄表題3 = [[副業]]
|空欄記載3 = [[生物学|生物学者]]
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}}
 
'''昭和天皇'''(しょうわてんのう、[[1901年]]〈[[明治]]34年〉[[4月29日]] - [[1989年]]〈[[昭和]]64年〉[[1月7日]])は、[[日本]]の第124代[[天皇]]{{efn|代数<!-- ×「世数」(意味が異なります)-->は[[皇統譜]]による。}}(在位: [[1926年]]〈[[大正]]15年/昭和元年〉[[12月25日]] - [[1989年]]〈昭和64年〉[[1月7日]])。[[諱]]は'''裕仁'''(ひろひと)、[[御称号]]は'''迪宮'''(みちのみや)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10214587 皇室略牒 宮内省図書寮]</ref>。[[お印]]は'''[[竹|若竹]]'''(わかたけ)。[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・[[大正天皇]]の健康状態の悪化により、[[摂政]]となり、自身の天皇[[即位]]まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に[[第二次世界大戦]]を挟み、[[大日本帝国憲法]]下の「[[大日本帝国憲法第4条|統治権の総攬者]]」としての天皇と[[日本国憲法]]下の「[[日本国憲法第1条|象徴天皇]]」の両方を経験した唯一の[[天皇]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 昭和天皇(コトバンク)]</ref>。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った
 
[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・[[大正天皇]]の健康状態の悪化により、[[摂政]]となり、自身の天皇[[即位]]まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に[[第二次世界大戦]]を挟み、[[大日本帝国憲法]]下の「[[大日本帝国憲法第4条|統治権の総攬者]]」としての天皇と[[日本国憲法]]下の「[[日本国憲法第1条|象徴天皇]]」の両方を経験した唯一の[[天皇]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87-122005#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 昭和天皇(コトバンク)]</ref>。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。
 
現在、天皇に在位する[[徳仁|第126代今上天皇 (徳仁)]]の祖父。
 
== 人物 ==
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[[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・[[明仁|継宮明仁親王]](のちの第125代天皇、現・上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。
 
[[1935年]](昭和10年)4月、日本を公式訪問する[[満洲国]][[皇帝]]の[[愛新覚羅溥儀]]([[清]]朝最後の皇帝)を歓待した。[[4月6日]]、[[東京駅]]に到着した溥儀を自ら出迎えた<ref name="kanpo2477-19350409">『官報』第2477号「宮廷録事」、昭和10年4月9日({{NDLJP|2958956/14}})</ref>。[[赤坂離宮]]を溥儀の宿泊先とし、秩父宮と馬車に同乗させて宮城に招き入れ、鳳凰の間で天皇・皇后と会談した<ref name="kanpo2477-19350409"/>。昭和天皇は、溥儀を宮殿の車寄せで出迎えて案内し、帰りも車寄せで見送った<ref name="kanpo2477-19350409"/>。中華皇帝の末である溥儀にとって東夷の王にこのような扱いを受けることは極めて屈辱的であったと後に溥儀が回想している<ref>{{Cite web |title=植民地から自動車へ、イノベーションが帝国主義の終焉を齎すメカニズム |url=http://dx.doi.org/10.31235/osf.io/p6a32 |website=dx.doi.org |date=2024-01-12 |access-date=2024-11-23 |first=Charles |last=Kongō}}</ref>。同日夜は、天皇・皇后と皇族・[[王公族]]らと会食を行った<ref name="kanpo2477-19350409"/>。4月14日夜に再び別れの会食を催し、翌4月15日に溥儀は東京駅を発った<ref >『官報』第2483号「宮廷録事」、昭和10年4月16日({{NDLJP|2958962/8}})</ref>。同年11月28日、第二皇子・[[常陸宮正仁親王|義宮正仁親王]](のちの[[常陸宮]])が誕生した。
 
{{Gallery
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一方、同親電は開戦前には届いておらず、つまり自由勝手に遅らせられていたのであり、それだけ軍閥の力が国政全般に影響を及ぼしていたのだとする資料もある<ref>{{Cite Book |title=天声人語 1 |date=1981-01-20 |publisher=朝日新聞 |page=116-117}}</ref>。
 
『[[昭和天皇独白録]]』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は「開戦には、消極的であった」といわれている。しかし、[[1941年]](昭和16年)11月には、昭和天皇が「開戦に前向きな決意」を示していたことを、[[百武三郎]]侍従長が日記に記している<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210901092620/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210901/k10013237521000.html|title=太平洋戦争開戦直前 昭和天皇の心情 侍従長の日記で明らかに|accessdate=2021/9/1-09-01|publisher=NHK}}</ref>。『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]](GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)[[12月25日]]には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の[[領域 (国家)|領土]]となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の[[日記]]に記されている。
 
{{要出典範囲|date=2022年5月|[[日本共産党]][[日本共産党中央委員会幹部会委員長|中央委員長]]も務めた[[田中清玄]]がのちに[[転向]]して「[[天皇制]]([[皇室]])護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない[[1945年]](昭和20年)[[12月21日]]、宮内省(のちの一時期[[宮内府]]、現在の[[宮内庁]])から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は[[立憲君主]]であって、[[専制君主]]ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と回答している。}}
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* 学習院在学中に[[古式泳法]]の[[小堀流踏水術|小堀流]]を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
* [[ダイムラー・ベンツ]]社の最高ランクだった[[メルセデス・ベンツ・770]](通称:グロッサー・メルセデス)に乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。このほか、菊紋をあしらった[[モーゼルC96|モーゼル]]なども所持していたといわれる。
* [[ナチス・ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]で[[フランス]]に勝利した1940([[1940年]](昭和15年)6月22日に、[[第一次世界大戦]]で[[ドイツ帝国]]がフランスに降伏した場所と同じ[[コンピエーニュの森]]にて、フランス側に降伏文書の調印をさせた。そのことを知った昭和天皇は、「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と言ってヒトラーの対応を批判したという。(『昭和天皇実録』1940年7月31日の記述)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20140914-66OCMMB6RVOYFMHKDDQ2Y4KXDE/2/|title=【昭和天皇実録公表】幼・少年期 心に刻まれた乃木大将の教え|publisher=産経新聞|date=2014-09-14|accessdate=2020-02-22}}</ref>{{R|昭和天皇実録 産経1409090064 3/3}}
 
==== 戦時中 ====
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* [[ガダルカナル島の戦い]]での[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]成功の際、「[[戦艦「初瀬」と「八島」の撃沈|初瀬・八島の例]]がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と[[日露戦争]]の戦訓を引いて[[軍令部]]に警告、これは[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]と司令部にも伝わっていた<ref>[[#吉田比叡|吉田(1985年)]]254頁。</ref>。だが、参謀・[[黒島亀人]]以下連合艦隊司令部は深く検討せず<ref>[[#吉田比叡|吉田(1985年)]]208頁。</ref>、再度の艦砲射撃を企図した際、待ち伏せていたアメリカ軍との間で[[第三次ソロモン海戦]]が発生。御召艦を度々務めた[[比叡 (戦艦)|戦艦「比叡」]]を失い、翌日には[[霧島 (戦艦)|姉妹艦「霧島」]]も沈没し、天皇の懸念は的中した。
* [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の[[ペリリューの戦い|ペリリュー島の戦い]]の折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の[[中川州男]]大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、[[感状]]も3度も与えている。
* 「[[原子爆弾|原爆]]や細菌を搭載した[[風船爆弾]]の製造を中止させた」と伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山元参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
* 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。[[1943年]](昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶の為に参内した[[岡新]]海軍中将に対して、赴任先の[[フィリピン]]方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(「[[あきつ丸]]」「[[神州丸]]」など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する[[艦載機]]のない空母がある。なぜ融通しないのか?」とさらなる下問があった。 そのときはそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、「返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えた」という。
* 戦争中、昭和天皇は[[靖国神社]]や[[伊勢神宮]]などへの親拝や[[宮中祭祀]]を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治史研究家の[[原武史]]は、「昭和天皇が熱心な祈りを通じて『神力によつて時局をきりぬけやう』<ref>{{Cite book|和書
|author=橋本明|authorlink=橋本明
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|chapter = 1945年3月6日に皇太子へあてた手紙
}}{{要ページ番号|date=2014年8月}}</ref>とするようになったという。
* 大戦末期に開始された[[特別攻撃]]に対しては複雑な感情を抱いていた。特攻開始当初は、戦果を上奏した[[米内光政]]海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と発言するなど、戸惑っていたが{{Sfn|猪口|中島|1967|p=111}}、陸軍初の特攻隊「[[万朶隊]]」に対しては「万朶隊はそんなにたくさんの弾丸を受けながら、低空攻撃をやって、非常な戦果をあげたことは結構であった」と述べている<ref>{{Harvnb|高木俊朗②|2018|p=44}}</ref>。[[1945年]]の元旦に宮中恒例の晴れの御膳が[[大膳職]]からだされたが、その後に軍からも白布に包まれたお膳が届けられた。軍からそのお膳について「連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途にはなむけて出す料理でございます」という説明を聞いた昭和天皇は長い間何も言わずそのお膳を見つめていたが、手をつけることはなくそのまま[[侍従武官]]に下げた。下げられた武官たちは昭和天皇の胸の内を察して胸がつまる思いになったという<ref>{{Harvnb|読売新聞社|1967|p=130}}</ref>。しかし「一撃講和」を考えていた昭和天皇は特攻に期待を抱いており、[[神風特別攻撃隊]]「第2御盾隊」が[[硫黄島の戦い]]で、空母を撃沈する大戦果を挙げたとの上奏があると、硫黄島へ再度の特攻出撃を命じている<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2003}}</ref>。沖縄戦でも日本軍は多数の特攻機を出撃させたが、毎日夕刻に侍従武官から受ける特攻の戦果の上奏に対して、昭和天皇は「そうか、本当によかった」と心から喜んでいた。ある日、侍従武官が地図を広げて天皇に戦況を説明していると、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしたので、侍従武官は、天皇が懸命に耐えている悲痛な心の一端を示したのだと察した<ref>{{Harvnb|半藤一利|2006|p=332}}</ref>。昭和天皇には、軍の最高指揮官大元帥として部下将兵の戦果を褒めたたえる面と、天皇として臣民を十死零生の非情の作戦に従事させ悲しむ面の両面を、両立させざるを得ない立場にある苦悩があったという指摘もある<ref>{{Harvnb|半藤|保阪|御厨|磯田|2015|p=211}}</ref>。昭和天皇は戦後に特攻に対して「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。」という思いを述べている{{Sfn|寺崎、テラサキ|1991|p=113}}。
* 「天皇として自分の意を貫いたのは、[[二・二六事件]]と[[日本の降伏|終戦]]の時だけであった」と語っている(後述)。
* 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、対米英開戦時の首相であった[[東條英機]]に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」「東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、「追い詰められた東條の苦しい言い訳には、顔をしかめることもあった」と伝わる。しかしながら、のちに[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)でA級戦争犯罪人として有罪が確定し死刑となった東條の葬儀には勅使を遣わしている。東條の側近に対しての評価は辛辣で、「[[田中隆吉]]とか[[富永恭次]]次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しで非難している{{Sfn|寺崎、テラサキ|1991|p=103}}。東條の首相失脚後に、後ろ盾を失った富永が、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]司令官としてフィリピンの最前線に送られたときにも、昭和天皇は、富永の指揮能力を懸念してその人事に難色を示していたが、[[レイテ島の戦い]]初期において富永は積極的な作戦指揮でマッカーサーを苦戦させ<ref>{{Harvnb|ダグラス・マッカーサー|2014|p=291}}</ref>、一時的にレイテ島の制空権を確保するなど健闘していたため<ref>{{Harvnb|伊藤正徳・3|1960|p=266}}</ref>、昭和天皇は「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」と称賛している<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=352}}</ref>。また田中については、東京裁判の際に[[ジョセフ・キーナン]]主席検事から[[昭和天皇の戦争責任]]を回避するための協力を求められ、昭和天皇の訴追回避のために検事側証人として出廷したとする説もある{{Sfn|豊下楢彦|2008|p=20}}。
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}}</ref>。
* 終戦時の[[陸軍大臣]]でかつて[[侍従武官]]として昭和天皇に仕えた[[阿南惟幾]]には好感を抱いており、阿南が侍従武官のときには馬術の指導を受けたり、長い時間2人で話し込んだり、自分のワイシャツを贈ったりしている{{Sfn|半藤一利|2006|p=288}}。阿南が師団長として戦場に赴くこととなったときには、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、2人は[[松花堂弁当]]を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んでいる{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=18}}。昭和天皇は阿南のことを親しみをこめて「あな'''ん'''」と呼んでいた{{Sfn|半藤一利|2006|p=40}}。阿南は陸軍大臣に就任すると「国体護持」と「昭和天皇の安全の保障」のために早急な降伏に反対したが、最後は昭和天皇が「聖断」を下して終戦が決まると、泣き崩れる阿南に「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いた{{Sfn|藤田尚徳|2015|p=Kindle1464}}。その後、阿南は責任を取って自決したが、そのときに身に着けていたのは昭和天皇から拝領したワイシャツであった。阿南自決の知らせを聞いた昭和天皇は「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と[[蓮沼蕃]]侍従武官長にもらしている{{Sfn|半藤一利|2003|p=512}}。侍従長の[[藤田尚徳]]によれば、阿南は昭和天皇が信頼していた数少ない陸軍軍人で、阿南の率直豪快な性格を好んでおり、その死を悼んでいたという{{Sfn|藤田尚徳|2015|p=Kindle1617}}。初代宮内庁長官の[[田島道治]]によれば、昭和天皇は、阿南について「終戦ハ[[鈴木貫太郎|鈴木]]、[[米内光政|米内]]、[[木戸幸一|木戸]]、それから陸相の阿南、と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビがよかつた。」と評したとされる。
* 宮内省と宮殿の間にある大膳寮で調理された食事は、御文庫(戦争後半から天皇皇后が暮らした建物)に車で運ばれ、当直侍医の「おしつけ」(毒見)を受ける。開戦直後から食糧事情が厳しくなった上、生真面目な昭和天皇が闇物資を仕入れることを禁じたため、戦争末期の食事はかなり貧しかった。主食は配給の[[米]]に[[ムギ|丸麦]]や外米を混ぜたものを日に一度だけ、他の2食は[[うどん]]、[[蕎麦|そば]]、[[すいとん]]、代用[[パン]]、[[イモ]]類など。物資を囲い込み、贅沢を続けた軍部とは大違いだった<ref name="shiseikatsu1945">{{Cite web|和書|url=https://shosetsu-maru.com/recommended/book-review-50|title=『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』|publisher=小説丸|date=2016-02-23|accessdate=2023-03-24}}</ref>。
* 御文庫の御書斎の飾り棚に[[エイブラハム・リンカーン]]と[[チャールズ・ダーウィン]]の[[銅像|ブロンズ像]]を置いていた。敵国の元大統領と皇室の神話とは相いれない[[進化論]]を唱えた科学者である。だが、昭和天皇はリンカーンを政治家として尊敬し、ダーウィンの学者としての真摯な姿勢に共感し、何の違和感も抱いていなかったらしい。ちなみに、[[1942年]](昭和17年)4月29日(天長節)、自身の41歳の誕生日の夜に香淳皇后と側近たちと共に[[ミッキーの捕鯨船]]という[[アメリカ映画]]を鑑賞したことが記録されている<ref name="shiseikatsu1945"/>。
 
==== 戦後 ====
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|month = 8
}}{{要ページ番号|date=2016年5月}}</ref>。
* 自身の初孫で、長女・成子内親王([[東久邇成子]])の長男・[[東久邇信彦]]に対し、結婚相手の条件として「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家に[[癌|ガン]]系統がないこと」などを伝え、「条件に合えば自分の好きな人でいい」とした<ref name="maig19890121-136"/>。
 
=== 人物像 ===
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|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080626043555/http://www.tokyo-np.co.jp/feature/essay/
|archivedate = 2008-06-26
}}</ref>がある。[[チャールズ・チャップリン]]監督・主演の『[[街の灯]]』を、皇后とともに鑑賞したと『[[昭和天皇実録]]』に記述がある<ref>{{Cite book|和書 |title=昭和天皇実録 第六(昭和7年 - 昭和10年) |date=2016-03-30 |publisher=東京書籍 |page=436 |editor=宮内庁 |isbn=978-4-487-74406-0 |quote=ご夕餐後、皇后と共に、「皇太子殿下御誕生奉祝実況」「街の灯」等をご覧になる。内大臣以下側近奉仕者が陪覧する。}}</ref>。
}}</ref>がある。
* 1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した<ref name="kaiken"/>。
** 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており<ref>{{Cite book|和書
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}}P320の3段組み行配列のうち2段目の5行目から下3段目の3行目まで。奥野修司「「皇室アルバム」を救った昭和天皇の一言」より</ref>。
* 好角家として知られる昭和天皇は、当時の[[日本相撲協会]]理事長・[[栃錦清隆|春日野清隆]]が「[[蔵間竜也|蔵間]]は[[大関]]になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野理事長は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。
** また[[高見山大五郎|見山]]が現役引退を表明した頃、日本相撲協会を管轄していた[[森喜朗]][[文部大臣]](当時)へ「{{CP932フォント|髙}}見山がなぜ辞めたのかね」「{{CP932フォント|髙}}見山は残念だったろうな」と発言。そのことをのちに森文部大臣が{{CP932フォント|髙}}見山に伝えると見山は「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという<ref>{{Cite book|和書
|author=岩見隆夫
|authorlink=岩見隆夫
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==== 生物・自然 ====
* 生物学者だった昭和天皇は、1912年4月27日に学習院初等学科5年生の授業で[[カエルの解剖]]を習った。帰宅してからも[[トノサマガエル]][[解剖学|解剖]]を行い、観察後は死骸を箱に入れて庭に埋め、「[[正一位]]蛙大明神」の称号を与えたという{{R|昭和天皇実録 日経1409090064 1/3}}{{R|昭和天皇実録 毎日新聞 裕仁新イソップ}}。
* 昭和天皇は海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として[[釣り]]も楽しんだ。[[沼津市|沼津]]において、[[常陸宮正仁親王]]を伴って[[磯]]釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、すべて食べる主義であった。終戦直後には「[[ナマコ]]が食べられるのだから、[[ウミウシ]]も食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(のちに「あまりおいしいものではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した[[マダイ|大ダイ]]をそのまま[[標本]]にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
* [[1929年]](昭和4年)、戦艦「長門」で[[和歌山県]]に訪問し進講を受けた[[南方熊楠]]のことを昭和天皇は後々まで忘れることがなく、その名を戦後の御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって[[粘菌]]の標本の献呈を受けている。通常は[[桐]]の箱で渡される標本は[[森永製菓|森永]][[キャラメル]]の大箱に入れられていたが昭和天皇はそれさえも面白がったという。
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== 昭和天皇を扱った作品 ==
;=== 映画 ===
:* 『[[日本の悲劇 (1946年の映画)|日本の悲劇]]』([[1946年]]、[[日本映画社]] - 記録映画から引用)
:* 『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』([[1967年]]、[[岡本喜八]]監督 - 演・[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎(八代目)]])
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:* 『[[日本独立]]』([[2020年]]、[[伊藤俊也]]監督 - 演・[[野間口徹]])
: <!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;=== テレビドラマ ===
:* 『[[歴史の涙]]』([[1980年]]、[[TBSテレビ]] - 二代目 市村萬次郎)
:* 『[[そして戦争が終った]]』([[1985年]]、TBSテレビ - [[加藤剛]])
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:* 『昭和天皇は何を語ったのか~初公開・[[田島道治|秘録 拝謁記]]』([[2019年]]、[[日本放送協会|NHK]]『[[NHKスペシャル]]』- [[片岡孝太郎]])
:* 『[[ザ・クラウン (ネットフリックス)|ザ・クラウン]]』([[2019年]]、[[Netflix]] - [[トーゴ・イガワ]])、第3シーズン・第8話のみ登場。
;=== 映像 ===
:* 『昭和天皇87年のご生涯』([[2005年]]より上映、[[昭和天皇記念館]])
:* [https://www.youtube.com/watch?v=dqV-gFLuZ6s 「昭和天皇とその時代」第一巻、蘇る昭和の記録・企画・製作:日本記録映画社](映像科学館、YouTube配信)
:* [https://www.youtube.com/watch?v=aMj_3LFVwAk 「昭和天皇とその時代」第二巻、企画・製作:日本記録映画社](映像科学館、YouTube配信)
:* 「天皇皇后両陛下 ヨーロッパご訪問の旅」(1972年、企画:宮内庁 製作:毎日映画社、[[35ミリフィルム]]、40分)※ 映文連登録番号5693
;=== マンガ ===
:* 『昭和天皇にあいたい』(美健ガイド社)
:* 『終戦の昭和天皇 ボナー・フェラーズが愛した日本』([[2013年]]、[[オークラ出版]]、作画 [[山野車輪]]:原案 [[井上智重]])<ref>{{Cite web |title=終戦の昭和天皇 : ボナー・フェラーズが愛した日本 {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I024658668 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-08-21 |language=ja |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>
:** 1『鹿児島湾上闇夜の答礼』(2013年、作画:[[永松承]]、構成:[[谷川桜太郎]])<ref>{{Cite web |title=昭和天皇にあいたい 1 (鹿児島湾上闇夜の答礼) {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026430167#bib |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-10-22 |language=ja}}</ref>
:* 『[[昭和天皇物語]]』([[2017年]] から『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、作画 [[能條純一]]:原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:志波秀宇)
:** 2『皇居勤労奉仕団涙の『君が代』』(2013年、作画・構成:[[桜多吾作]])<ref>{{Cite web |title=昭和天皇にあいたい 2 (皇居勤労奉仕団涙の『君が代』) {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I026430190 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-10-22 |language=ja}}</ref>
 
:** 3『御仏の子』(2015年、作画:[[こばやし将]]、構成:[[朝戸りょう]])<ref>{{Cite web |title=昭和天皇にあいたい 3 {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028023938 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-10-22 |language=ja}}</ref>
:* 『終戦の昭和天皇 ボナー・フェラーズが愛した日本』([[2013年]]、[[オークラ出版]]、作画 [[山野車輪]]原案 [[井上智重]])<ref>{{Cite web |title=終戦の昭和天皇 : ボナー・フェラーズが愛した日本 {{!}} NDLサーチ {{!}} 国立国会図書館 |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I024658668 |website=国立国会図書館サーチ(NDLサーチ) |access-date=2024-08-21 |language=ja |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>
:* 『[[昭和天皇物語]]』([[2017年]] から『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、作画 [[能條純一]]原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:志波秀宇)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shōwa Emperor}}
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* {{NHK放送史|D0009060072_00000|食糧難克服のための天皇の放送}}
* {{NHK放送史|D0009030468_00000|昭和天皇の還暦とその年の皇室の話題}}
* {{NHK放送史|D0009170063_00000|天皇皇后両陛下  戦後初ヨーロッパ訪問}}
* {{NHK放送史|D0009030137_00000|天皇・皇后両陛下 初のご訪米}}
* {{NHK放送史|D0009043926_00000|天皇在位50年記念式典}}
* {{NHK放送史|D0009030604_00000|歴代最長  天皇陛下在位50年記念式典}}
* {{NHK放送史|D0009170080_00000|天皇陛下御在位60年記念式典}}
* {{NHK放送史|D0009030219_00000|昭和天皇 100 100日を越える闘病}}
* {{NHK放送史|D0009030226_00000|昭和天皇崩御}}
 
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[[Category:ダグラス・マッカーサー]]
[[Category:王立協会旧規定12フェロー]]
[[Category:報道特別番組]]
[[Category:超長時間番組]]
[[Category:癌で亡くなった人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:癌で亡くなった人物]]
[[Category:1901年生]]
[[Category:1989年没]]