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[[File:Graduating class of 1909, St. Paul's College, Tokyo, Middle School.jpg|thumb|230px|[[立教池袋中学校・高等学校|立教中学校]]の生徒たち([[1909年]])]]
'''旧制中学校'''(きゅうせいちゅうがっこう)とは、[[1947年太平洋戦争]]後の[[学校教育法制改革]]が施行されるより前の[[日本]]における、[[男子高等教育|高等教育機関]]に対して[[旧制高教育学校]](普通教育などへの進学行っていた望む男子が、[[尋常小学校]]の1つ。(6年制)を経て進学する学校(5年制{{Efn|旧制中学校は5年制であったが、4年修了で高等教育法施行後は[[機関(旧制高等学校]]など)に進学することができた新制'''四修'''。→#「四修」移行しよる上級学校への進学。)}})。だし、同時代の呼称はあくまで「'''中学校'''」である
 
'''旧制中女子に対する同じ位置付けの'''(きゅうせいちゅうがく)と略されることも多い(校は[[高等女学校]]や[[実業学校]]を含んだ、より広い概念(4年制)である'''[[旧制中等教育学校|旧制中と高学校]]'''との違いは、戦後注意)。[[女子普通科 (学校)|普通科]]に対する中等教育は[[高等学校]]に移われ例が多い
 
なお、名称が似ている[[旧制中等教育学校|旧制中等学校]](きゅうせいちゅうとうがっこう)は、旧制中学校、高等女学校、[[実業学校]](現在の商業高等学校などに相当)などを包括する概念である。
「旧制」とは現在の学校教育法に基づく制度が実施される前の制度のことであり、当時は単に「中学校」と呼称した。
 
戦後、多くは[[普通科]]の新制[[高等学校]]へ移行した。
 
== 概要 ==
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入学資格は[[尋常小学校]](後に[[国民学校]]初等科に移行)を[[卒業]]していることであり、[[修業年限]]は5年間であったが、[[1943年]](昭和18年)に制定された[[中等学校令]](昭和18年勅令第36号)によって4年間に短縮され、戦後再び5年間に戻された。
 
旧制中学校と類似の学校には、女子に対して中等教育を行った[[高等女学校]]、小学校卒業者に職業教育を行った[[実業学校]]がある(ただし、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するには旧制中学校より制限があった)。
 
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+旧制中学校の学年に対応する他の旧制学校(1946年(昭和21年)時点)、および、新制学校の学年の対比
!colspan="2"|開始時(修了時)の年齢 →!!12歳(13歳)!!13歳(14歳)!!14歳(15歳)!!15歳(16歳)!!16歳(17歳)
|-
!rowspan="8"|旧制!![[国民学校]]
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|<br />||<br />||<br />||<br />||予科1年
|-
!rowspan="23"|新制!![[中学校]]
|1年||2年||3年||<br />||<br />
|-
![[義務教育学校]]
|7年||8年||9年||<br />||<br />
|-
![[高等学校]]
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|}
 
=== 「四修」による上級学校への進学 ===
旧制中学校を経ると([[中等学校令]]制定前は4年修了後に)[[旧制高等学校]]、[[大学予科]]、[[大学専門部 (旧制)|大学専門部]]、[[高等師範学校]]、[[旧制専門学校]]、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に進学することが可能であった。また、旧制中学校2年生を修了すると[[師範学校]]への進学が可能であった。5年制でも4年修了(四修)で旧制高等学校、大学予科の受験資格が得られた。[[飛び級#日本における歴史]]も参照。
[[1918年]](大正7年)の[[高等学校令]]改正以降、戦後の[[学制改革]]に至るまで、旧制中学校(5年制)の4年生は、卒業を待たずに(1年の[[飛び級]]をして)、上級学校たる[[日本の学校制度の変遷#高等教育機関|高等教育機関]]([[旧制高等学校|高等学校]]、[[大学予科]]、[[高等師範学校]]、[[旧制専門学校|専門学校]]{{Efn|[[高等商業学校]]、[[大学専門部 (旧制)]]など。[[旧制専門学校]]、大学専門部(旧制)は、いずれも[[専門学校令]]を根拠法令としていた。}}、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]、[[高等商船学校]]など)に進学できた('''四修''')<ref name="旧制高校物語_四修">{{Cite book|和書 |title=旧制高校物語 |year=2003 |publisher=[[文藝春秋]] |page=85, 90-94 |series=文春新書 |author=秦郁彦 |author-link=秦郁彦}}</ref>。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]、陸軍士官学校、海軍兵学校、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学予科]]などの難関校(「[[第一高等学校 (旧制)|一高]][[第三高等学校 (旧制)|三高]][[陸軍士官学校 (日本)|陸士]][[海軍兵学校 (日本)|海兵]]」<ref>{{Cite journal|author=今村実|year=1997|title=嘉村礒多論:私小説論(3)|journal=鳥取女子短期大学研究紀要|volume=35|page=74|publisher=[[鳥取女子短期大学]]}}</ref>などと列挙した)に'''四修'''で進学するのは秀才の誉れであった{{Efn|「事実上、もしくは制度上、無試験で入学できる」[[旧制専門学校]]なども存在した。[[1924年]](大正13年)に[[早稲田大学]]([[大学令]]を根拠法令とする[[旧制大学]])が新設した「早稲田専門学校」(夜間部のみ)は、早稲田大学が既に設置していた「早稲田大学専門部」(昼間部のみ)と同じく、[[専門学校令]]を根拠法令とする[[旧制専門学校]]であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B8%83%E7%AB%A0 |title=早稲田大学百年史:第3巻:第6編 大学令下の早稲田大学:第7章 勤労学生への福音 |accessdate=2023-07-05 |publisher=[[早稲田大学]]}}</ref>。両校は、いずれも学生を「第一種生」(「[[旧制中等教育学校|中等学校]]卒業」または「[[師範学校]]卒業」または「[[大学入学資格検定#開始まで|専検]]〈戦後の[[大学入学資格検定|大検]]に相当〉合格」が応募要件)と、「第二種生」(緩和された応募要件)の2つに区分していた<ref name="全国高等専門学校 入学年鑑_18-21">{{Cite book|和書 |title=全国高等専門学校 入学年鑑 |year=1936 |publisher=成文社 |pages=18-21 |chapter=全国高等専門学校一覧:早稲田大学(私立) |author=帝国教育研究会}}</ref>。そして「早稲田大学専門部の全学生」と、「早稲田専門学校の第一種生」は、卒業に要する修業期間は同じ(3年)であり、卒業後に得られる法的資格も概ね同じであった<ref name="全国高等専門学校 入学年鑑_18-21" />。しかし両校の大きな違いとして、「早稲田大学専門部」が全ての応募者に何らかの入学試験を課す制度であったのに対し、'''「早稲田専門学校」の第一種生は無試験入学する制度(募集要項に明記)であった'''<ref name="全国高等専門学校 入学年鑑_18-21" />。}}。全国の高等学校(最終的に38校)の全入学者に占める'''四修'''の比率は2割弱で推移した<ref name="旧制高校物語_四修" />。
 
{{See also|飛び級#第二次世界大戦以前}}
 
=== 中学校2年修了での師範学校への進学 ===
旧制中学校(5年制)2年修了で[[師範学校]]に進学できた。
 
==歴史==
[[File:Toyama prefectural Toyama Middle School(3).jpg|thumb|230px|[[富山県立富山高等学校|県立富山中学校]]武道場(1939年)]]
*[[1872年]][[9月4日]](明治5年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]){{Efn|当時は旧暦([[天保暦]])を使用。現在使用されている新暦([[グレゴリオ暦]])に移行したのは明治6年}} - [[学制]]の公布により、小学校を修了した生徒に普通の学科を教える所として'''中学校'''を設置。
**工業学校・商業学校・通弁学校・農業学校・諸民学校を中学校の種類とする。
**「'''上等中学'''」(修業年限:17歳から19歳までの3年間)・「'''下等中学'''」(修業年限:14歳から16歳までの3年間)の2段階に分ける。
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**文部大臣の許可を受ければ、1校につき1分校の設置ができるようになる。
*[[1907年]](明治40年)[[7月18日]] - 中学校令の一部改正
**[[義務教育]]年限の延長<ref>{{Efn|それまで[[尋常小学校]]4年間が義務年限であったが、[[小学校令]]の改正に伴い、義務年限が2年延長され、6年となった。尋常小学校4年・[[高等小学校]]4年であった修業年限が、尋常小学校6年・高等小学校2年に改められた。</ref>}}に伴う措置として、入学資格を12歳以上で尋常小学校(6年)卒業者と改める。
*[[1919年]]([[大正]]8年)2月7日 - 中学校令の一部改正により、以下のことが規定される。
**中学校の設置に関して市町村学校組合を加えて設置の主体を拡張。
109 ⟶ 114行目:
**修業年限が'''4年'''に短縮される。
**第一種・第二種課程を廃止。
**'''[[夜間中学|夜間課程]]'''(修業年限3年)の設置を認める。
**従来の補習科や予科を廃止し、修業年限1年以内の実務科を設ける。
**中学校間の転校、中学校から実業学校への転校、第3学年以下で実業学校の生徒が中学校に転校することを認める。
*[[1944年]](昭和19年)4月1日 - 前年に[[閣議]]決定された[[教育ニ関スル戦時非常措置方策]]により、修業年限4年施行<ref>{{Efn|本来は1943年(昭和18年)に入学した生徒が4年を修了し卒業する1947年(昭和22年)3月に施行する予定であった。</ref>}}の前倒しが行われることとなる。
**この時に4年となった者(1941年(昭和16年)入学生)から適用し、4年を修了する1945年(昭和20年)3月の施行となる。
*[[1945年]](昭和20年)
**3月 - 決戦教育措置要綱<ref>{{Efn|国民学校初等科を除く学校の昭和20年度1年間の授業停止を決定した。</ref>}}が閣議決定され、昭和20年度(同年4月から翌3月末まで)授業が停止されることとなる。
**[[5月22日]] - [[戦時教育令]]が公布され、授業を無期限で停止することが法制化される。
**[[8月15日]] - [[終戦]]
**[[8月21日]] - [[文部省]]により戦時教育令の廃止が決定され、同年9月から授業が再開されることとなる。
**[[9月12日]] - 文部省により戦時教育を平時教育へ転換させることについての緊急事項が指示される。
*[[1946年]](昭和21年) - 修業年限が'''5年'''に戻る。夜間課程は4年に変更
*[[1947年]](昭和22年)4月1日 - [[学制改革]](六・三制の実施、'''新制中学校の発足''')
**'''旧制中学校の生徒募集を停止'''。
**[[新制中学校]](現在の中学校)が併設され、旧制中学校1・2年修了者<ref>{{Efn|1946年(昭和21年)と1945年(昭和20年)に旧制中学校に入学した生徒。</ref>}}を新制中学2・3年生として収容。
**併設中学校はあくまで暫定的に経過的措置で設置されたため、新たに生徒募集は行われず(1年生不在)で、在校生が2・3年生のみの中学校であった。ただし私立に関しては募集を継続し、現在まで中高一貫校として存続している学校もある。
**旧制中学校3・4年修了者<ref>{{Efn|1944年(昭和19年)と1943年(昭和18年)に旧制中学校に入学した生徒。</ref>}}はそのまま旧制中学校4・5年生として在籍(4年で卒業することもできた)。
*[[1948年]](昭和23年)4月1日 - [[学制改革]](六・三・三制の実施、'''新制高等学校の発足''')
**'''旧制中学校が廃止'''され、[[新制高等学校]](現在の高等学校)が発足。'''旧制中学校のほとんどが男子校の高等学校'''となる。
**旧制中学校卒業生(希望者)を新制高校3年生として、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生として編入。
**併設中学校の卒業生(1945年(昭和20年)旧制中学校入学生)が新制高校1年生となる。
164 ⟶ 169行目:
1947年(昭和22年)の学制改革後、旧制中学校の後身となった高等学校は現在も地域の中核校・伝統校として難関・進学校としての地位にある場合が多い。しかし、長い時間を経て交通環境や、新設校の整備等の環境の変化のほか、伝統の否定ないし、伝統の継承を難しくする制度改革が行われたことによって、その地位を低下させた学校も少なくない。実際、[[総合選抜|総合選抜制度]]や[[学校群制度]]の導入された地域では、対象となった公立高校の多くでは、高い実力を持つ生徒が当該校の受験を回避した結果として、名門公立高校の進学実績が低迷すると同時に、[[私立学校|私立]]高校や近隣の新設校の進学実績が著しく伸びるといった事例が見られた。このように、必ずしも旧制中学校を前身とする伝統校が、現在においても進学実績で上位にあるというわけではない。
 
もっとも、そのように地位を低下させた場合であっても、新設校と比べて一定の優位性を持っていることも少なくない。例えば、東京都の場合[[2001年]]以降、[[石原慎太郎]][[東京都知事]](当時。[[2012年]]に任期途中で退任)のもと「都立復権」をスローガンとした都立高改革が実施されたが、[[ナンバースクール (東京都)|都立ナンバースクール]]で[[東京大学|東大]]進学実績の上位を占めていた[[1950年代]]から60年代ほどではないものの、日比谷高校や西高校などの伝統校が難関・進学校として地位を向上させている([[都立高等学校]]参照)。他にも愛知県では、1989年の学校群制度廃止後、複合選抜制とよばれる、一定の学校の組み合わせであれば、生徒が自由に志望順位をつけた上で2校受験できる制度が導入されたが、これによって伝統校の復活がみられた。この時、伝統校の明和高校と高度成長期に新設された千種高校はその2校受験が可能な組み合わせであるが、学校群制度期には圧倒的に千種高校の方が明和高校よりも高い進学実績を持っていたにもかかわらず、複合選抜制度2期生が大学受験した1993年には、既に進学実績で明和高校が千種高校を東大京大ともに凌駕し、その後一度も逆転されていない。また、学校群制度導入以前に絶対的であった旭丘高校は学校群制度導入によってやや地位を低下させ、一時的に千種高校に実績で抜かれたこともあったものの、今日に至るまで愛知県のトップ進学校の一角である。これらは、受験生の受験校選択の価値観や政策等の背景事情等を総合的に勘案した優位性が伝統校にあることを示しているものであろうとされている
 
== 授業内容 ==
1931年までは、1-3年は、国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の過半を占め、他に、歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)、[[修身]]、図画、[[唱歌]]、体操があり、4・5年で、物理、化学、法制、経済が加わり、図画・唱歌の代わりに数学の比重が高かった<ref>『事典 昭和戦前期の日本』 380頁。</ref>。
 
== 進学率 ==
{| class="wikitable" style="float:rightfloatright"
|+ [[筑波大学附属中学校・高等学校|東京高範学校附属中学校]]<br />生徒父兄の職業<br />(大正9年5月1日調べ)
! 父兄の職業 !! 人数<br />(5学年の合計)
|-
189 ⟶ 191行目:
| style="text-align:center" | 33
|-
!  銀行会社員 
| style="text-align:center" | 68
|-
208 ⟶ 210行目:
|}
 
右の表は旧制[[東京高範学校]]附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中・高]])における、[[1925年]]5月1日当時の親の職業別人数表である<ref>[httphttps://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43009496 東京高等師範学校附属中学校一覧 大正9,14年度]P. 111より</ref>。
旧制中学校は明治32年勅令第28号中学校令改正で「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と位置づけられた[[エリート]]の登龍門としての役割があり<ref>『事典 昭和戦前期の日本』 379頁。</ref>進学率は非常に低かった<ref>{{Cite web|author=[[中央教育審議会]]|year=1999|month=11|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad196201/hpad196201_2_012.html|title=第1章 検討の視点|work=初等中等教育と高等教育との接続の改善について(中間報告)|publisher=[[文部科学省]]|accessdate=2008-10-02}}</ref>。理由として、男子は、農業・工業などの産業従事や、兵役といった事態に際しての即戦力になる者が多く求められていて、旧制中学進学というエリートコースを制限する必要があったからである。
 
旧制中学校は明治32年勅令第28号[[中学校令]]改正で「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と位置づけられた[[エリート]]の登龍門としての役割があり<ref>『事典 昭和戦前期の日本』 379頁。</ref>進学率は非常に低かった<ref>{{Cite web|和書|author=[[中央教育審議会]]|authorlink=中央教育審議会|year=1999|month=11|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad196201/hpad196201_2_012.html|title=第1章 検討の視点|work=初等中等教育と高等教育との接続の改善について(中間報告)|publisher=[[文部科学省]]|accessdate=2008-10-02|archive-url=https://web.archive.org/web/20071211042150/http://www.mext.go.jp:80/b_menu/hakusho/html/hpad196201/hpad196201_2_012.html |archive-date=2007-12-11 |url-status=dead |url-status-date=2024-09-23}}</ref>。理由として、男子は、農業・工業などの産業従事や、[[兵役]]といった事態に際しての即戦力になる者が多く求められていて、旧制中学進学というエリートコースを制限する必要があったからである。
明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は[[華族]]、身分が高めの上位[[士族]]、[[地主]]、豪商やそして、新しく生まれてきたブルジョアとプチブル階層の出身者にほとんど限定されていた。例えば、[[佐賀県立唐津東中学校・高等学校|唐津中学校]]ボート部の唐津湾東部、志摩船越沖)での遭難事故の記事(1905年4月30日(日)発生、『[[佐賀新聞]]』1905年5月3日朝刊2頁)によると、「死者8人、生存者1人のうち、士族が5人、3人が平民、不詳が1人」となっていた<ref name="senmon">『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 168頁。</ref>。
 
明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は[[華族]]、身分が高めの上位[[士族]]、[[地主]]、[[豪商]]やそして、新しく生まれてきた[[ブルジョア]][[プチブル]]階層の出身者にほとんど限定されていた。例えば、旧制唐津中学校(現・[[佐賀県立唐津東中学校・高等学校|県立唐津学校・高]]ボート部の唐津湾東部、志摩船越沖)での遭難事故の記事(1905年4月30日 (日) 発生、『[[佐賀新聞]]』1905年5月3日朝刊2頁)によると、「死者8人、生存者1人のうち、士族が5人、3人が平民、不詳が1人」となっていた<ref name="senmon">『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 168頁。</ref>。
右の表は旧制[[東京高等師範学校]]附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])における、[[1925年]]5月1日当時の親の職業別人数表である<ref>[http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=43009496 東京高等師範学校附属中学校一覧 大正9,14年度]P. 111より</ref>。
 
[[大正デモクラシー]]の時代になると中学進学が一般市民の間にも広がってきた。第一次世界大戦後、都市住民子弟の、中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校への進学熱は急速に高まってきたが、それでも一般大衆にはまだまだ「高嶺の花」だった<ref name="senmon"/>。
 
当時の[[インテリ]]層の代表中核である小学校教員の月収が1929年の段階で46円ほどなのに、市立東京一中(現・[[千代田区立九段中等教育学校|区立九段中等学校]])など東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入学者の1/3にも達した<ref>『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 168-170頁。</ref>。
 
この状況を当時の[[文部省]]は次のように考えていた。
{{quotation|
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減らすことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」|『[[読売新聞]]』[[1929年]]12月10日
}}
 
また、[[東京高等師範学校|高等師範学校]]([[東京教育大学]]を経た、在の[[筑波大学]])及びその[[附属学校]](現・[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]]、[[筑波大附属中学校・高等学校]])の校長と、[[東京女子高等師範学校|女子高等師範学校]](現・[[お茶の水女子大学|お茶の水女子大]])校長を務めた[[山川浩]]は、[[1887年]]、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。
{{quotation|
「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」<br />
231 ⟶ 233行目:
つまり、所得の低い一般人の子弟は中学に行くなと考えていたのである<ref>『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 170頁。</ref>。
 
皮肉なことに、[[日中戦争]]による戦時景気で一般の人々でも中学に進学できるようになった。それでも、旧制中等教育学校への進学率は13%前後に過ぎず、特に、中学入学者についてみると進学率は8%くらいだった。農村からの進学者は[[地主]]の子弟が主で、村で1人か2人くらいしかいなかった。農村の二男三男は小学校6年卒あるいは[[高等小学校]]2年卒で[[町工場]]へ出稼ぎに出るのが当たり前だった<ref>『大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た』 170-171頁。</ref>。
 
反面、旧制中学校に比べ[[高等女学校]]の設置数は多く、女子の方が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。社会進出が制限されていた女子の進学をわざわざ制限する必要性がない上に、いわゆる「[[良妻賢母]]」教育は社会の要望に合致していたからだと思われる。
 
==関連作品==
242 ⟶ 244行目:
*『[[君たちはどう生きるか]]』 - [[吉野源三郎]]作 [[1937年]]。主人公は2年生。旧制[[筑波大学附属中学校・高等学校|東京高師附属中]]出身の作者の自伝的人生論。
*『[[決戦の大空へ]]』-(1943年 [[東宝]]) 主人公は(旧制[[茨城県立土浦第一高等学校・附属中学校|土浦中学校]])の生徒
*『[[けんかえれじい]]』 - [[鈴木清順]]監督 [[1966年]]。[[不良行為少年|不良]]が主人公
*『夏草冬涛』 - [[井上靖]]作 [[1966年]]。作者の自伝的小説(旧制[[静岡県立沼津東高等学校|沼津中学校]])
*『[[はっさい先生]]』 - [[1987年]]。NHKの[[連続テレビ小説]]
248 ⟶ 250行目:
*『歩調取れ、前へ! フカダ少年の戦争と恋 』 - [[深田祐介]]作 2007年。作者の自伝的小説(旧制[[暁星中学校・高等学校|私立暁星中学校]])
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist}}
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
 
==参考文献==
*{{Cite book|和書|author=中村忠一|title=大学崩壊と学力低下で専門学校の時代が来た|origdate=2002-03-15|accessdate=2008-11-05|edition=初版|publisher=エール出版社|series=YELL books|isbn=4753921352|pages=pp.168-171}}
*{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|others=[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]監修|title=事典 昭和戦前期の日本…制度と実態|origdate=1990-02-10|accessdate=2009-09-13|edition=初版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=9784642036191}}
 
274 ⟶ 279行目:
* [[特別科学学級]]
 
== 外部リンク ==
* [https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552.htm 学制百年史] - [[文部科学省]]
 
{{日本の教育史}}
 
{{DEFAULTSORT:きゆうせいちゆうかつこう}}
[[categoryCategory:日本の旧制教育機関]]
[[Category:日本の旧制中学校|*]]
[[categoryCategory:日本の旧制中等教育学校|*ちゆうかつこう]]
[[categoryCategory:日本の男子校|旧ちゆうかつこう]]