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'''アイブロックスの惨事'''({{Lang-en|''Ibrox disaster'' }})は、[[イギリス]]・[[スコットランド]]の[[グラスゴー]]にある[[アイブロックス・スタジアム]](旧称はアイブロックス・パーク)で行われた[[サッカー]]の試合の際に発生した[[群集事故]]である。[[1902年]][[4月5日]]の事故の際には25人が死亡し、[[1971年]][[1月2日]]の事故の際には66人が死亡した。
 
== 1902年の事故 ==
[[File:Ibrox_stands.jpg|thumb|220px|left|崩落した西側スタンド。観客が地上へと転落し500人以上の死傷者を出す惨事となった。]]
1902年4月5日、スタジアムではサッカーの国際試合である[[ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ]]の[[サッカースコットランド代表|スコットランド代表]]対[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]戦が行われることになっていた<ref name="モリス272">[[#モリス 1983|モリス 1983]]、272頁</ref>。両者の伝統の一戦はファンの関心も高く、スタンドの改修工事が行われ、当日は68,114人の観客が詰めかけた<ref name="モリス272"/>。スタジアム内の西側スタンドは試合開始前から満員の観客で溢れていたが、この段階において[[鉄]]製の支柱に[[板]]張りの[[床]]で構成される階段状の立見席は群集の重圧により振動していたという<ref name="モリス272"/><ref name="Shiels">{{Cite web |first=Robert S. |last=Shiels |url =http://www.aafla.org/SportsLibrary/SportsHistorian/1998/sh182k.pdf | title= THE FATALITIES AT THE IBROX DISASTER OF 1902 |format=PDF |year=1998 |accessdate=2012年5月5日-05-05}}</ref>。
{{main|:en:1902 British Home Championship}}
1902年4月5日、スタジアムではサッカーの国際試合である[[ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ]]の[[サッカースコットランド代表|スコットランド代表]]対[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]戦が行われることになっていた<ref name="モリス272">[[#モリス 1983|モリス 1983]]、272頁</ref>。両者の伝統の一戦はファンの関心も高く、スタンドの改修工事が行われ、当日は68,114人の観客が詰めかけた<ref name="モリス272"/>。スタジアム内の西側スタンドは試合開始前から満員の観客で溢れていたが、この段階において[[鉄]]製の支柱に[[板]]張りの[[床]]で構成される階段状の立見席は群集の重圧により振動していたという<ref name="モリス272"/><ref name="Shiels">{{Cite web |first=Robert S. |last=Shiels |url =http://www.aafla.org/SportsLibrary/SportsHistorian/1998/sh182k.pdf | title= THE FATALITIES AT THE IBROX DISASTER OF 1902 |format=PDF |year=1998 |accessdate=2012年5月5日}}</ref>。
 
試合開始2分から3分が経過した時、西側スタンドの上部で床の崩落が発生し、崩落部にいた数百人の観客は15メートル下の地上へと転落<ref name="モリス272"/>。中には転落したタイミングが遅れたために死傷者の山がクッション代わりになり一命を取り留めた者もいたが<ref name="モリス272"/>、この崩落によるパニックは西側スタンドの下部にいる観客たちにも伝播し、一部の観客が難を逃れようとピッチへ流入を始めたことにより試合は一時中断された<ref name="モリス272"/>。この事故による死者は25人、重体は168人、重傷は153人、軽症は172人、合計518人<ref name="モリス273">[[#モリス 1983|モリス 1983]]、273頁</ref>(軽症は171人、合計517人とする資料もある<ref name="Shiels"/>)にのぼったが、事故現場一帯は[[血]]の海と化した<ref name="モリス273"/>。
 
犠牲者の救出作業が行われ、全ての負傷者を搬出した30分後に試合は再開され1-1の引分けに終わったが、翌日の地元紙には試合続行を不謹慎とする論評がつづられた<ref name="モリス273"/>。
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== 1971年の事故 ==
=== 背景 ===
[[グラスゴー・レンジャーズFC|レンジャーズFC]]と[[セルティックFC]]のダービーマッチ([[オールドファーム]])はスコットランドにおいて伝統の一戦として知られる。両クラブはクラブ設立の目的と支持層{{#tag:ref|レンジャーズは[[1873年]]にイングランドのラグビークラブの名称に倣って設立され、グラスゴーでも富裕層の住む南部や西部の人々の支持を得た<ref name="マクギル229">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、229頁</ref>。セルティックは[[1888年]]に[[カトリック教会]]の修道僧によりグラスゴーに住む[[アイルランド]]系移民と地元民との交流を目的に設立され<ref name="マクギル228">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、228頁</ref>、貧民層の居住するイーストエンド地区や北部の人々の支持を得た<ref name="マクギル229"/>。|group=注}}や信仰する[[宗教]]{{#tag:ref|スコットランドは伝統的に[[プロテスタント]]を信仰する者が多いとわれる<ref name="マクギル228"/>。レンジャーズはプロテスタント信者から支持を集めているのに対し<ref name="マクギル229"/>、セルティックはカトリック信者から支持を集めている<ref name="マクギル229"/>。|group=注}}も異なり、宗教的背景を基盤にサポーターを獲得し長年に渡ってライバル関係を形成していた<ref name="マクギル229"/>。
 
スコットランドでは元日を[[祝日]]とし[[クリスマス]]よりも盛大に祝う<ref name="朝日19710104a">{{Cite journal|和書|title=サッカー場で66人圧死 108人けが 人波でサク倒れる」『|journal=[[朝日新聞]]|issue=1971年1月4日 12版 3面}}</ref>。このダービーマッチも毎年[[1月1日]]に開催されていたが、泥酔した観客による乱闘騒ぎがしばしば問題となり、事故発生の4年前から開催日を1月2日へと変更された<ref name="朝日19710104b">{{Cite journal|和書|title=新春恒例 宿命の試合」『|journal=朝日新聞|issue=1971年1月4日 12版 3面}}</ref>。[[1968年]]に行われたダービーマッチにおいて、得点に沸き立つレンジャーズ・サポーターの観客席で混乱が生じ2人が死亡する事故が発生すると<ref name="朝日19710104b"/>、再発防止策としてスタジアムの収容能力を10万人から8万人に削減し、事故防止用の金属製の柵が設置された<ref name="朝日19710104b"/>。
 
=== 経過 ===
[[ファイル:Johngreig.jpg|160px|thumb|right|1971年当時のレンジャーズの主将{{仮リンク|ジョン・グレイグ|en|John Greig}}をかたどった事故の記念碑]]
1971年1月2日の試合には8万人以上の観客が詰めかけた<ref name="朝日19710104a"/><ref name="Telegraph">{{Cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/rangers/8230503/The-Ibrox-Disaster-of-January-2-1971-which-claimed-66-lives-was-a-tragedy-waiting-to-happen.html | title= The Ibrox Disaster of January 2, 1971 which claimed 66 lives was a tragedy waiting to happen |publisher= Telegraph |date=2010-12-30|accessdate=2012年5月5日-05-05}}</ref>。試合は両チーム無得点のまま時間が経過したが、終了間際の89分に{{仮リンク|ジミー・ジョンストン|en|Jimmy Johnstone}}の得点でアウェイのセルティックが先制すると、終了間際の失点に落胆したゴール裏のレンジャーズのサポーターの一部は出口へと向かいはじめた<ref name="朝日19710104a"/>。[[アディショナルタイム]]に入り残り数秒というところで、{{仮リンク|コリン・スタイン|en|Colin Stein}}の得点でレンジャーズが1-1の同点に追いつくと、サポーターの歓声が沸き起こった<ref name="on the day">{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/2/newsid_2478000/2478305.stm | title= 1971: Sixty-six die in Scottish football |publisher= BBC ON THIS DAY |accessdate=2012年5月5日-05-05}}</ref>。事故はこの直後、あるいは試合後に西側スタンドの13番階段 (stairway 13) で発生したが、事故原因については文献によって食い違いがある。
 
#「13番階段を下りていたサポーター達は歓声を聞くと、場内へと引き返しはじめた。この再度の入場を試みる群集の波と、試合終了を見届けて出口へ向かおうとする群集の波とが階段上で正面衝突を引き起こした。急勾配の[[階段]]を降ってくる群集の波と、階段を登って場内に戻ろうとする群集の波とが押し合う形となり、群集の圧力で階段上の金属製の手すりが崩壊したことにより[[将棋倒し]]が発生した<ref name="朝日19710104a"/><ref name="on the day"/><ref name="モリス276">[[#モリス 1983|モリス 1983]]、276頁</ref>」
#「試合が終了し観客たちが出口へと向かう最中、13番階段で転倒する者が現れた。しかし試合の余韻が残る他の観客たちはこの転倒に気がつかずに次々と階段へと進んだことが惨事へと繋がった<ref name="欧州サッカー">{{Cite book|和書|authorauthor1= 野辺優子、斉藤健仁 |yearauthorlink1=2006斉藤健仁|author2=野辺優子|title=欧州サッカースタジアムガイド|publisher=[[エイ出版社]]|series=枻文庫 114|year=2006|isbn= 9784-4777904860 7779-0486-5|page=199 }}</ref>」
#「試合内容に興奮した観衆の圧力により柵が崩壊し転落した<ref>{{Cite book|和書|authoreditor= |year=20069日外アソシエーツ編集部|title=世界災害史事典 1945-2009|publisher=[[日外アソシエーツ]] |year=2009|isbn= 978-4816922114 4-8169-2211-4|page=93 }}</ref>」
[[英国放送協会]] (BBC) によると、警察当局による実況見分や遺体の発見場所などから、犠牲者はすべて退場するために同一方向へと進行していた際に事故に遭遇したと結論付けられ<ref name="BBC20110103">{{Cite web |url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-glasgow-west-12104856 | title= Families gather for Ibrox disaster memorial service |publisher= BBC |date=2011年1月3日 -01-03|accessdate=2012年5月5日-05-05}}</ref>、先に退場していた観客が引き返したことに起因するとの説は否定された、としている<ref name="on the day"/>。同時に大勢の観客が退場しようと階段を下りた際に、群集による圧力が下方へと圧し掛かったことが事故の原因と考えられ<ref name="on the day"/>、密集状態でいったん人間が転倒すると体勢を立て直すことが困難なことも被害拡大の要因と指摘している<ref name="on the day"/>。この事故により66人が死亡し200人以上が負傷した<ref name="BBC20110103"/>が、そのうちの31人は18歳以下の未成年者だった<ref name="欧州サッカー"/><ref>{{Cite journal|和書|title=死者の半数、青少年」『|journal=朝日新聞|issue=1971年1月4日 12版 3面}}</ref>。また正月休みということもあり、父親に連れられて観戦に訪れた少年サポーターも犠牲者の中に数多く含まれていた<ref name="朝日19710104a"/>。
 
事故に際し、[[エリザベス2世]]やローマ法王[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]が弔電をおくり<ref name="読売19710104">{{Cite journal|和書|title=新春サッカーで大惨事 イギリス 66人圧死 168人ケガ」『|journal=[[読売新聞]]|issue=1971年1月4日 14版 15面}}</ref>、[[イギリス]]の[[エドワード・ヒース]]首相は[[スコットランド大臣|スコットランド国務大臣]]を通じて事故原因の詳細な調査を指示した<ref name="読売19710104"/>。また、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) の[[スタンリー・ラウス]]会長は「大規模なスタジアムの構造上の問題に対し、至急調査を執り行う」と表明した<ref name="読売19710104"/>。
 
=== 影響 ===
この事故を契機に[[1973年]]からスタジアムの改装工事が行われていたが、レンジャーズは[[1977年]]に[[西ドイツ]]の[[ドルトムント]]にある[[ヴェストファーレンシュタディオン]]をモデルにしたスタジアム再開発計画を発表した<ref name="Telegraph20101230">{{Cite web |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/rangers/8232393/Waddell-accepted-the-need-for-urgent-change-and-drew-inspiration-from-the-grounds-at-the-1974-World-Cup-finals.html | title='Waddell accepted the need for urgent change and drew inspiration from the grounds at the 1974 World Cup finals’ |publisher= Telegraph |date=2010-12-30|accessdate=2012年5月5日-05-05}}</ref>。建設費用は600万ポンドから1,000万ポンドと推定されるが、それまでのイギリスのサッカークラブにおいて例のない大規模な計画だった<ref name="Telegraph20101230"/>。[[1981年]]までにそれまでの立見席を改めて全着席方式の近代的なスタジアムへと改装され<ref name="欧州サッカー"/><ref name="Football Grounds of Britain ">{{citeCite book| ref = harv | first = Simon | last = Inglis | title = Football Grounds of Britain | year = 1996 | publisher = Collins Willow | isbn = 0002184265 0-00218426-5|page=467}} p. 467 </ref>、収容能力も従来の8万人から4万4千人に削減された<ref name="欧州サッカー"/>。
 
スタジイブロックスは当時としては最新の設備を持つスタジアムへと生まれ変わった<ref name="Telegraph20101230"/>その先見性は[[1985年]]に発生した{{仮リンク|[[ブラッドフォード・シティ・スタジアムサッカー場火災|en|Bradford City stadium fire}}]]や[[ヘイゼルの悲劇]]、[[1989年]]に発生した[[ヒルズボロの悲劇]]と、ヒルズボロの悲劇の調査および将来的なスタジアム管理のあり方を示したテイラー報告書により正当性を証明する形となった<ref name="Telegraph20101230"/>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=クレイグ・マクギル著、|translator=田邊雅之|year=2002|title=サッカー株式会社|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=9784-16-358180-41635818044|ref=マクギル 2002}}
* {{Cite book|和書|author=デズモンド・モリス著、|authorlink=デズモンド・モリス|translator=白井尚之訳|year=1983|title=サッカー人間学--マンウォッチング 2|publisher=[[小学館]] |year=1983|isbn=9784-4096930090 09-693009-1|ref=モリス 1983}}
 
== 関連項目 ==
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{{coord|12|04|02.2|S|77|02|01.4|W|type:landmark|display=title}}
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