「アート・ブレイキー」の版間の差分

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| Years_active = [[1940年代]] - [[1990年代]]
| Label = [[ブルー・ノート・レコード]]
| Associated_acts = アート・ブレイキー&amp;ザ・ジャズ・メッセンジャー<br />アート・ブレイキー・クァルテット<br />アート・ブレイキー・クインテット<br />アート・ブレイキー&amp;ザ・アフロキューバン・ボーイズ
| URL = http://www.artblakey.com/
| Current_members =
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[[ドラマー]]としての一番の特徴はメリハリのあるバッキング(ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラロール」までの振幅)にあり、ことにシンバルレガートの滑らかで美しい音色は特筆される。また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されるべきだろう。
 
晩年の録音では視力や聴力の衰えに伴い、全盛期のようなプレイが満足にできなくなってしまった。[[1990年]]に[[がん癌]]のため、ニューヨーク・マンハッタンにて死去した。{{没年齢|1919|10|11|1990|10|16}}。生涯で4度結婚し、10人の子供に恵まれた。
 
== 人物 ==
[[File:Chunichi1961-01-05-1.jpg|thumb|240px|アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの初来日公演を報じる『[[中日新聞|中部日本新聞]]』1961年1月5日付朝刊の記事。]]
アート・ブレイキーは多くの新人を発掘し、多くの著名なミュージシャンがメッセンジャーズから巣立った。50年代後半からは[[リー・モーガン]]、[[ボビー・ティモンズ]]、[[ウェイン・ショーター]]等が、60年代には[[フレディ・ハバード]]、[[キース・ジャレット]]、[[カーティス・フラー]][[チャック・マンジョーネ|、チャック・マンジョーネ]]、[[シダー・ウォルトン]]、[[レジー・ワークマン]]等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになった。80年代に流行した[[新伝承派]]と呼ばれる若手プレイヤーを中心とした、[[モダン・ジャズ]]ムーヴメントで活躍したプレイヤーの多くがメッセンジャーズの出身である。第一線で活躍している[[ウィントン・マルサリス]]、[[ブランフォード・マルサリス]]、[[テレンス・ブランチャード]]、[[マルグリュー・ミラー]]、[[ジェイムス・ウィリアムス]]、[[ロニー・プラキシコ]]、[[ケニー・ギャレット]]などがメッセンジャーズの出身である。長女エブリン・ブレイキー(2007年没)も、メッセンジャーズでの活動を経て、プロの歌手として成功を収めた。
 
[[親日|親日家]]として知られる。その背景には母国であるアメリカを含めツアー先の世界各地で黒人差別により不当で理不尽な扱いを受けてきた彼らが[[1961年]]に初来日した際、彼らを一目見ようと空港には多くの日本人ファンが歓声と共に殺到し、中には彼らに手を振ったり花束を持ったファンもいたが、今までの彼らにとって信じられない光景と雰囲気に、アート・ブレイキーたちは「自分達が乗ってきた飛行機に誰かVIPがいて、その人に声援が向けられてるんだろう」と最初は思ったそうだが、実は自分達への歓迎だと知るとアート・ブレイキーは号泣し、その後スピーチを求められても涙で上手く話すことが出来なかったという。
[[親日|親日家]]として知られる。[[1961年]]の初来日以降、何度も日本で演奏を行った。初来日時、とあるファンから記念写真をせがまれ、「俺は黒人だぞ? 一緒に写真に収まってもいいのかい?」と驚き、ファンが「そんな事知ってます。ぜひ一緒に!」と答えた事にさらに驚き喜んだ。当時のアメリカでは有色人種に対する差別が公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同時に、大いに感銘を受けたようである。
 
また、あるファンから記念写真をせがまれ、「俺は黒人だぞ? 一緒に写真に収まってもいいのかい?」と驚き、「そんな事知ってます。ぜひ一緒に!」とファンが答えた事に驚き、大喜びして撮影に応じた。当時のアメリカでは有色人種に対する差別が公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同時に大いに感銘を受けたようで、帰国を前に、彼は「俺は今まで世界を旅してきたが、日本ほど俺の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」<ref>{{Cite journal|和書|author=|date=1982-03|title=A DAY WITH ART BLAKEY 1961|journal=[[スイングジャーナル]]|volume=36|issue=3|page=70|publisher=スイングジャーナル社}}</ref>とも述べている。
彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" や "On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降[[鈴木良雄]]、[[鈴木勲]]等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の1人も日本人であったという。また来日時には、日本人ドラマーの[[ジョージ川口]]、[[白木秀雄]]らともドラム合戦を繰り広げた。自分の息子に「Taro(太郎)」と名付けていたり、[[日本酒]]を大いに気に入り、千鳥足でステージに上がったこともあったという。使用するドラムも晩年は日本のメーカーと契約し、亡くなるまで愛用した。
 
また後日、東京での公演がTBS系列で日本全国にラジオ中継されると聞かされた際、母国のアメリカすらも黒人という理由だけで音楽を流し貰えないこともあったを始めジャズメッセンジャーズのメンバーは「本当にいいのか?」と大いに奮起した。するなど、前述の初来日時の感激やインスピレーションが、親日家アート・ブレイキーを生んだと伝えられている。帰国を前に、彼は「俺は今まで世界を旅してきたが、日本ほど俺の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=A DAY WITH ART BLAKEY 1961 |journal=[[スイングジャーナル]] |volume=36 |issue=3 |publisher=スイングジャーナル社 |date=1982-03 |page=70 }}</ref>とも述べている。その後、亡くなる間際まで来日を繰り返し、何度も日本で演奏を行った。特に夏のフェスティバルではおなじ馴染みだった。
 
彼の演奏した曲の中には"Ugetsu(雨月)" や "On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"など、日本をテーマにしたものも存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降[[鈴木良雄]]、[[鈴木勲]]等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の1人も日本人であったという。また来日時には、日本人ドラマーの[[ジョージ川口]]、[[白木秀雄]]らともドラム合戦を繰り広げた。他にもかつての妻の1人が日本人であったり、自分の息子に「Taro(太郎)」と名付けていたり、[[日本酒]]を大いに気に入り、って千鳥足でステージに上がったこともあったという。使用するドラムも晩年は日本のメーカーと契約し、亡くなるまで愛用した。
 
== ディスコグラフィ/代表作 ==
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* ''"The Big Beat"''([[ザ・ビッグ・ビート]])
 
== ライーノー ==
*CDアルバム「モーニン」ライナー・ノーツ(執筆は大村幸則。CD番号 TOCJ-9003([[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)]])
*CDアルバム「チュニジアの夜」ライナー・ノーツ(執筆は小川隆夫。CD番号 TOCJ-9082([[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)]])
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{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:ふれいきい ああと}}
[[Category:アート・ブレイキー|*]]
[[Category:アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン]]
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[[Category:1919年生]]
[[Category:1990年没]]
[[Category:肺癌で亡くなった人物]]