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| タイトル = 第251代ローマ教皇
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| 就任 = [[1800年]][[3月14日]]
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| 曖昧 = ピウス
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'''ピウス7世'''
▲'''ピウス7世'''('''Papa Pius VII''', [[1742年]][[8月14日]] - [[1823年]][[8月20日]])は第251代[[ローマ教皇]](在位:[[1800年]][[3月14日]]-[[1823年]][[7月20日]])、[[カトリック教会]]の[[司祭]]。本名、'''ジョルジョ・バルナバ・ルイジ・キアラモンティ'''(Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)。ナポレオンと激しく対立して幽閉されるも、結果的に欧州外交界において[[教皇領|教皇庁]]の地位を高めることになった。
== 生涯 ==
ルイージ・キアラモンティは[[1742年]]に[[
[[1799年]]にピウス6世が没したため、[[コンクラーヴェ]]が行われた。
ピウス7世が教皇としてまず取り組まなければならなかったのは、カトリック教会と世俗国家の関係修復であった。当時は[[ガリカニスム]]、[[フェブロニウス主義]]などが盛んで、反教会的な雰囲気が最高潮に達していた。彼は手始めにフランスの[[第1コンスル|第一執政]]であった[[ナポレオン・ボナパルト]]と折衝を開始し、[[1801年]]に
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<gallery widths="200px" heights="200px" mode="packed" caption="[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|ナポレオンの戴冠]]』">
File:Jacques-Louis David 015.jpg|拡大
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しかし[[1804年]]
以後、教会を利用しつくそうとするナポレオンと教皇の関係は急速に悪化し、ナポレオンが[[教皇領]]を接収するにおよんで、ピウス7世はナポレオンを[[破門]]した。[[1809年]]、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアの[[サヴォーナ]]に監禁した。ナポレオン退位後、[[1814年]]にようやく[[ローマ]]へ戻った教皇を、市民は歓呼をもって迎えた。▼
▲[[画像:Jacques-Louis David 006-crop.jpg|200px|left|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]「ナポレオンの戴冠」<BR><SUB>中央の帝冠を手にしているのが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]。その右に座って白の[[カロッタ]]とカズラをまとっているのが教皇ピウス7世。</SUB>]]
▲しかし[[1804年]]にナポレオンの[[戴冠式]]に招かれてフランスを訪れたピウス7世は、政府が教会を支配するシステムが確立していることに愕然とし、ナポレオンが教皇の権威を政治的に利用している現実に直面した。このときのピウス7世の心情は、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の傑作「ナポレオンの戴冠」でナポレオンの後ろに座っているピウス7世の渋い表情によくあらわされている。
ピウス7世と教皇庁の地位は、ヨーロッパ諸国においても認知されるものとなり、[[ウィーン会議]]では[[教皇領]]の復活が認められた。ピウス7世は23年の在位期間において、1814年の[[イエズス会]]の復興、ロシアとプロシアとのコンコルダートの締結など多くの成果を残した。▼
▲以後、教会を利用しつくそうとするナポレオンと教皇の関係は急速に悪化し、ナポレオンが[[教皇領]]を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを[[破門]]。ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアの[[サヴォナ]]に監禁した。ナポレオン退位後、[[1814年]]にようやく[[ローマ]]へ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。
▲ピウス7世と教皇庁の地位はヨーロッパ諸国においても認知されるものとなり、[[ウィーン会議]]では教皇領の復活が認められた。ピウス7世は23年の在位期間において1814年の[[イエズス会]]の復興、ロシアとプロシアとのコンコルダートの締結など多くの成果を残した。
ピウス7世は任期の前半においてナポレオンと激しく対立したが、ナポレオン没落後は一族をローマにかくまったり、臨終のナポレオンのために[[セント・ヘレナ島]]に司祭を派遣したりする粋な一面も見せている。
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{{ローマ教皇|第251代: 1800年-1823年}}
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[[Category:ベネディクト会]]
[[Category:フランス革命関連人物]]
[[Category:ナポレオン戦争の人物]]
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