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| 敬称2 =
| タイトル = 第251代ローマ教皇
| 画像 = [[ImageFile:Jacques-Louis_David_018.jpg|250px]]
| 画像説明 = {{small|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]による『[[教皇ピウス7世の肖像画。(]]』<br>[[1805年]] [[ルーヴル美術館]]所蔵}}
| 就任 = [[1800年]][[3月14日]]
| 離任 = [[1823年]][[8月20日]]
| 先代 = [[ピウス6世_ (ローマ教皇)|ピウス6世]]
| 次代 = [[レオ12世_ (ローマ教皇)|レオ12世]]
| 司祭 =
| 司教 =
| その他 =
| 本名 = ジョルジョ・バルナバ・ルイジ・キアラモンティ<br/>({{lang|it|Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)}}
| 生年月日 = [[1742年]][[8月14日]]
| 生地 = {{ITAPAP-1}}、[[教皇領]]、<br />[[チェゼーナ]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1742|8|14|1823|8|20}}
| 没地 = {{ITAPAP}}<br />[[ローマ]]
| 埋葬地 =
| 原国籍 =
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| 妻 =
| 子 =
| 母校 =
| 署名 = Pius VII signature.svg
| 紋章 = C o a Pius VII.svg
| 曖昧 = ピウス
}}
'''ピウス7世'''('''Papa Pius(Pius VII''', [[1742年]][[8月14日]] - [[1823年]][[8月20日]])は第251代[[ローマ教皇]](在位:[[1800年]][[3月14日]]-[[1823年]][[78月20日]])、[[カトリック教会]]の[[司祭]]。本名、'''ジョルジョ・バルナバ・ルイジ・キアラモンティ'''(Giorgio({{lang|it|Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)Chiaramonti}})。ナポレオンと激しく対立して幽閉されるも、結果的に欧州外交界において[[教皇領|教皇庁]]の地位を高めることになった。
 
'''ピウス7世'''('''Papa Pius VII''', [[1742年]][[8月14日]] - [[1823年]][[8月20日]])は第251代[[ローマ教皇]](在位:[[1800年]][[3月14日]]-[[1823年]][[7月20日]])、[[カトリック教会]]の[[司祭]]。本名、'''ジョルジョ・バルナバ・ルイジ・キアラモンティ'''(Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)。ナポレオンと激しく対立して幽閉されるも、結果的に欧州外交界において[[教皇領|教皇庁]]の地位を高めることになった。
 
== 生涯 ==
ルイジ・キアラモンティは[[1742年]]に[[イタリア教皇領]]の[[チェゼーナ]]で貴族の家に生まれた。[[ラヴェンナ]]で学び、[[1756年]]に[[ベネディクト会]]に入会した。彼は同郷の友人であったジョヴァンニ・ブラスキが教皇職につくための援助を惜しまず、その功によって教皇[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]となったブラスキからローマのサン・カリスト修道院院長、[[司教]]、そして[[枢機卿]]に任命された。
 
[[1799年]]にピウス6世が没したため、[[コンクラーヴェ]]が行われた。三ヶ3か月にわたって紛糾した選挙の末に選ばれたのはキアラモンティであり、彼は友人であった前任者の名前を引き継いでピウス7世を名乗った。
 
ピウス7世が教皇としてまず取り組まなければならなかったのはカトリック教会と世俗国家の関係修復であった。当時は[[ガリカニスム]]、[[フェブロニウス主義]]などが盛んで反教会的な雰囲気が最高潮に達していた。彼は手始めにフランスの[[第1コンスル|第一執政]]であった[[ナポレオン・ボナパルト]]と折衝を開始し、[[1801年]]に[[{{仮リンク|1801年のコンコルダート]]|label=コンコルダート|en|Concordat of 1801}}を成立させることで、[[フランス革命]]以来断絶していたフランス政府とカトリック教会の関係が公式に修復された。彼の外交面での成功には右腕となった枢機卿[[エルコール・コンサルヴィ]]の働きが大きかった。
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<gallery widths="200px" heights="200px" mode="packed" caption="[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|ナポレオンの戴冠]]』">
[[画像:Jacques-Louis David 006-crop.jpg|200px|left|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]「ナポレオンの戴冠」<BR><SUB>中央の帝冠を手にしているのが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]。その右に座って白の[[カロッタ]]とカズラをまとっているのが教皇ピウス7世。</SUB>]]
File:Jacques-Louis David 015.jpg|拡大
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しかし[[1804年]]ナポレオンの[[戴冠式]]に招かれてフランスを訪れたピウス7世は、政府が教会を支配するシステムが確立していることに愕然とし、ナポレオンが教皇の権威を政治的に利用している現実に直面した。このときのピウス7世の心情は、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の傑作『[[ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠|ナポレオンの戴冠]]』でナポレオンの後ろに座っているピウス7世の渋い表情によくあらわされている。
 
以後、教会を利用しつくそうとするナポレオンと教皇の関係は急速に悪化し、ナポレオンが[[教皇領]]を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを[[破門]]した[[1809年]]、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアの[[サヴォナ]]に監禁した。ナポレオン退位後、[[1814年]]にようやく[[ローマ]]へ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。
[[画像:Jacques-Louis David 006-crop.jpg|200px|left|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]「ナポレオンの戴冠」<BR><SUB>中央の帝冠を手にしているのが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]。その右に座って白の[[カロッタ]]とカズラをまとっているのが教皇ピウス7世。</SUB>]]
しかし[[1804年]]にナポレオンの[[戴冠式]]に招かれてフランスを訪れたピウス7世は、政府が教会を支配するシステムが確立していることに愕然とし、ナポレオンが教皇の権威を政治的に利用している現実に直面した。このときのピウス7世の心情は、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の傑作「ナポレオンの戴冠」でナポレオンの後ろに座っているピウス7世の渋い表情によくあらわされている。
 
ピウス7世と教皇庁の地位はヨーロッパ諸国においても認知されるものとなり、[[ウィーン会議]]では[[教皇領]]の復活が認められた。ピウス7世は23年の在位期間において1814年の[[イエズス会]]の復興、ロシアとプロシアとのコンコルダートの締結など多くの成果を残した。
以後、教会を利用しつくそうとするナポレオンと教皇の関係は急速に悪化し、ナポレオンが[[教皇領]]を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを[[破門]]。ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアの[[サヴォナ]]に監禁した。ナポレオン退位後、[[1814年]]にようやく[[ローマ]]へ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。
 
ピウス7世と教皇庁の地位はヨーロッパ諸国においても認知されるものとなり、[[ウィーン会議]]では教皇領の復活が認められた。ピウス7世は23年の在位期間において1814年の[[イエズス会]]の復興、ロシアとプロシアとのコンコルダートの締結など多くの成果を残した。
 
ピウス7世は任期の前半においてナポレオンと激しく対立したが、ナポレオン没落後は一族をローマにかくまったり、臨終のナポレオンのために[[セント・ヘレナ島]]に司祭を派遣したりする粋な一面も見せている。
 
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{{ローマ教皇|第251代: 1800年-1823年}}
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