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| 芸名 = 上山 草人
| ふりがな = かみやま そうじん
| 画像ファイル = Sojin kamiyama with signature.jpg
| 画像サイズ = 170px200px
| 画像コメント =
| 本名 = 三田 貞<small>(みた ただし)</small>
| 別名義 = Sojin
| 出生地 = {{JPNJPN1868}}<br>[[宮城県]][[遠田郡]][[涌谷町]]
| 死没地 = {{JPNJPN1947}}<br>[[東京都]][[世田谷区]]
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1884
| 生月 = 1
22行目:
| ジャンル = [[新劇]]、[[劇映画]]([[現代劇]]・[[時代劇]]、[[サイレント映画]]・[[トーキー]])
| 活動期間 = [[1905年]] - [[1954年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[山川浦路]]
| 著名な家族 = 義妹:[[上山珊瑚]]<br>子:[[三田松五郎]]
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『{{仮リンク|[[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|en|The Thief of Bagdad (1924 film)|label=バグダッドの盗賊}}]]』<br />『[[愛よ人類と共にあれ]]』<!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''上山 草人'''(かみやま そうじん、[[1884年]][[1月30日]] - [[1954年]][[7月28日]])は、[[日本]]の[[俳優]]。本名は'''三田 貞'''(みた ただし)。号は半月<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E8%8D%89%E4%BA%BA-15842#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 美術人名辞典「上山草人」の項]</ref>。
 
[[坪内逍遥]]の[[文芸協会]]を経て、妻の[[山川浦路]]らと[[近代劇協会]]を設立して[[新劇]]俳優として活動。[[1919年]](大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、[[ダグラス・フェアバンクス]]主演の活劇映画『{{仮リンク|[[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|en|The Thief of Bagdad (1924 film)|label=バグダッドの盗賊}}]]』に出演。[[ハリウッド]]で活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』『[[七人の侍]]』などがある。
 
== 来歴 ==
=== 新劇俳優に ===
[[1884年]](明治17年)[[1月30日]]、現在の[[宮城県]][[遠田郡]][[涌谷町]]に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる<ref name="谷崎潤一郎1">[https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/?action{{Cite journal|和書|author=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=790&item_no=1&page_id細江光 |title=13&block_id=17 「上山草人年譜稿 ; 1 : 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光<!--機関リポジトリの記述のまま--> ]|journal=甲南女子大学研究紀要 文学・文化編 |ISSN=1347121X |publisher=甲南女子大学 |year=2001 |issue=38 |pages=45-57 |naid=40005405859 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/790}}</ref>。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。母は涌谷町の名門の医者の娘である<ref name="谷崎潤一郎1" />が、草人が産まれてすぐに発狂したため、草人は母と引き離され、親戚の家を転々として10歳から父親宅に引き取られた。父親は厳しく、愛情薄い幼少期だった<ref name="自伝">自伝『蛇酒』</ref>。生家は涌谷町の涌谷第一小学校の前庭にあり、今でもそこにあった木が残っている。
 
[[宮城県仙台第二高等学校|宮城県立第二中学]]を卒業して、[[1903年]](明治36年)に上京。父の友人である[[犬養毅]]宅へ寄宿し、[[早稲田大学]]文科に通う<ref name="谷崎潤一郎1" /><ref name="全集">『日本映画俳優全集・俳優篇』p.165-166</ref>。在学中はテニスに熱中した。この頃に[[川上音二郎]]に共感し、後の妻[[山川浦路]]と知り合った。
60行目:
[[1907年]](明治40年)、大学を中退して[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]日本画科に入学(後に中退)<ref name="谷崎潤一郎1" />。翌[[1908年]](明治41年)に浦路との間に長男・平八が産まれ、3月に犬養の仲人で浦路と結婚した<ref name="谷崎潤一郎1" /><ref name="全集" />。同年11月、[[藤沢浅二郎]]主宰の[[東京俳優養成所]](後に東京俳優学校)に第1期生として入所。同期には[[諸口十九]]、[[岩田祐吉]]、[[勝見庸太郎]]、[[田中栄三]]らがいる。しかし、講師の[[桝本清]]と衝突して排斥運動を起したため、[[1909年]](明治42年)に退所させられた<ref name="谷崎潤一郎1" /><ref name="全集" />。その後は[[栗島狭衣]]一座に加わり、[[有楽座 (明治・大正)|有楽座]]で毎週土曜日に催されるお伽芝居に出演。また、[[岩藤思雪]]が狭衣一座を使って製作した児童用映画『新桃太郎』『カチカチ山』『牛若丸』などに出演<ref name="全集" />。お伽芝居には[[栗島すみ子]]、[[田口桜村]]、[[天野雉彦]]らも出演していた。
 
同年5月、[[坪内逍遙]]の起こした[[文芸協会]]演劇研究所が開設され、8月の研究生補欠募集に合格して入所した<ref name="全集" />。妻の浦路、[[佐々木積]]、小林正子([[松井須磨子]])らの第1期生に加わり、'''上山草人'''を芸名とした<ref name="全集" />。研究所時代は[[土肥春曙]]が保証人となった<ref name="全集" />。同年12月、化粧品開発に熱心だった草人は妻と[[新橋 (東京都港区)|新橋]]で「かかしや」という化粧品店を開店<ref name="#1">[http://snob.s1.xrea.com/fumikura/takadatamotu/burari05.html#b091  「ブラリひようたん」高田保]</ref>、草人が考案した眉墨は人気を集めて繁盛した。
 
[[1911年]](明治44年)4月、研究所を卒業し文芸協会に加入したが、7月に[[大阪]][[道頓堀角座|角座]]の『ハムレット』公演中に配役上の不満からトラブルを起こし、夫婦ともども退会させられた<ref name="全集" />。[[1912年]](明治45年)5月、浦路や[[伊庭孝]]、[[衣川孔雀]]らと共に[[近代劇協会]]を結成。10月に[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]作『ヘッダ・ガブラー』の上演で旗揚げ<ref>[httphttps://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E8%8D%89%E4%BA%BA-15842 デジタル版 日本人名大辞典+Plus「近代劇協会」の項]</ref>。翌[[1913年]](大正2年)に[[森外]]訳の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』、9月に同訳の『[[マクベス]]』を上演し話題を呼んだ。大正時代初頭に起こった新劇ブームの一翼を担い、草人は俳優としてよりも興行主としての手腕のほうが評価された。当時7歳の[[夏川静江]]を発掘したのも草人であった。妻も芝居を始めたことで、出身校の[[女子学習院]]から除名騒ぎを起こされながらも<ref>[httphttps://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html  「婦人と文学」宮本百合子]</ref>、劇団運営を支えた。妻公認の愛人である衣川の協会脱退などで、次第に経済的に行き詰まり、[[根岸興行部]]の陰の顧問となって苦境を打開する<ref name="全集" />ものの、[[1919年]](大正8年)2月の『[[リア王]]』上演を最後に協会を解散した。
 
=== ハリウッドへ ===
[[File:Kamimura Sojin The Thief of Bagdad 1924.png|thumb|バグダッドの盗賊でモンゴル王子に扮した上山草人]]
同年、妻と長男と共に[[アメリカ]]へ渡った。アメリカでは方々を渡り歩いた後、[[ロサンゼルス]]に落ち着き、[[1922年]](大正11年)5月に邦字雑誌『東西時報』の発行を開始し、傍ら在留邦人相手の芝居を上演を上演した後、[[ハリウッド]]へ行って[[エキストラ]]となった。
 
[[1924年]](大正13年)、[[ダグラス・フェアバンクス]]主演の『{{仮リンク|[[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|en|The Thief of Bagdad (1924 film)|label=バグダッドの盗賊}}]]』に[[モンゴル]]の王子役で出演。当初、アメリカで興行中だった[[剣劇]]一座の役者がやることに決まっていたが、それを聞き付けた上山が映画会社に「あれは二流俳優。使ったら日本で笑い者になる」と忠告し、周り回って演劇経験のある上山がやることになった<ref>[http://www.big-game.jp/big_blue/b1/b1_10/index_1.html  「明るく、やさしく、上山草人」BIG GAME]</ref>。
 
その後も'''Sojin'''という名前で数々の[[サイレント映画]]に出演、[[ポーラ・ネグリ]]、[[クララ・ボウ]]、[[ロン・チェイニー]]らと共演した。出演した映画は47本にのぼるが、日本人役は一度も演じたことが無くほとんどが中国人の悪役だった。本人は「複雑怪奇な役をよくやらされた」と回想している<ref name="全集" />。ただ、泥棒など下っ端の役の場合は断っていた<ref name="谷崎潤一郎4">[https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/?action{{Cite journal|和書|author=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=825&item_no=1&page_id=13&block_id細江光 |title=17 「上山草人年譜稿 ; 4 : 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光] |journal=甲南女子大学研究紀要 文学・文化編 |ISSN=1347121X |publisher=甲南女子大学 |year=2003 |issue=40 |pages=37-63 |naid=110004680870 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/825}}</ref>。[[1927年]](昭和2年)公開の『{{仮リンク|支那の鸚鵡|en|The Chinese Parrot (film)}}』では中国人探偵の[[チャーリー・チャン]]を演じ、当たり役となった。この役は欧州から呼び寄せられた[[コンラート・ファイト]]との演出競争の結果に得た役だという<ref name="谷崎潤一郎4" />。
 
しかし、[[トーキー映画]]が始まると、英語がしゃべれないため草人の仕事は激減していった。そのため[[1929年]](昭和4年)[[12月20日]]に「[[天洋丸級貨客船|天洋丸]]」で[[横浜市|横浜]]へ帰国した<ref>『日本映画事業総覧 昭和5年版』p.84</ref>。翌[[1930年]](昭和5年)1月から[[浅草]]、[[大阪]]、[[名古屋]]、[[京都]]、[[新宿]]の各[[松竹座]]で『モンゴールの王子』を上演<ref name="全集" />。[[7月17日]]に米映画の出演(実現せず)のため再渡米し、[[10月4日]]に帰国した<ref name="谷崎潤一郎4" />。
 
===帰国後・晩年===
[[1931年]](昭和6年)、[[松竹蒲田撮影所]]に入社し<ref name="全集" /><ref>[httphttps://www.townnews.co.jp/0116/2012/10/25/162444.html  「豊岡に居を構えた親友・上山草人」タウンニュース]</ref>、草人の帰朝記念映画として『[[愛よ人類と共にあれ]]』が製作され、主演した。当時の大スター[[鈴木伝明]]、[[田中絹代]]、[[岡田時彦]]らが共演し、アメリカから[[マック・スウェイン]]らも出演するという豪華出演者による大作映画となった。翌[[1932年]](昭和7年)封切りの[[松竹京都撮影所|松竹下加茂撮影所]]製作『[[実話唐人お吉#1931年版|唐人お吉]]』には、[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]役という、外国人役で出演した。[[1935年]](昭和10年)、[[片岡千恵蔵プロダクション]]と[[日活]]の提携作品で[[伊丹万作]]監督の『[[赤西蠣太#映画|赤西蠣太]]』で按摩安甲役を好演。[[1939年]](昭和14年)に[[新興キネマ]]専属となり、数作に主演後、[[1942年]](昭和17年)の戦時統合による合併で[[大映]]専属となったが、セリフ回しに癖があるなどの理由からしだいに振るわなくなっていった。
 
[[1954年]](昭和29年)、[[黒澤明]]監督の『[[七人の侍]]』で[[琵琶法師]]役で出演、セリフは一切なく、ただ黙々と琵琶を弾いているだけの演技であった。続いて[[稲垣浩]]監督の『[[宮本武蔵 (1954年の映画)|宮本武蔵]]』に年寄役で端役出演したが、同作封切りの2カ月前の[[7月28日]]、[[腸閉塞]]手術後に容態が悪化し、午後9時8分に[[東京都]][[世田谷区]]の大脇病院で死去<ref name="全集" />。70歳没。[[8月3日]]に[[東玉川]]の自宅で告別式が営まれた。墓所は[[青山霊園]]。
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[[束髪|女優髷]]は、浦路の広すぎる額に合う髪型として草人が考案したとされる<ref name="自伝" />。
 
森鴎外の長男、[[森於菟]]の随筆『砂に書かれた記録 28』(『父親としての森鴎外』所収)に、観潮楼に当時見出した記念物が12項目列記され、その内の1つの説明に上山草人の名がある。即ち「一、父の自画像素焼皿(記念館)。日記には記していないが1月1日上山草人に頼まれて素焼の皿に「みみずく」の絵をかいたと見える。それを焼いて氏が1月12日に来訪し、贈ったらしい。皿の内側に JANUAR 1.1913 印とある。鴎外日記の大正2年1月に「十二日(日)、上山草人楽焼を持ちて来訪す。ファウストの校正刷を与ふ」とある。」
 
== 家族 ==
最初の妻の[[山川浦路]]こと三田千枝は、鉱山学者、三田守一の長女。千枝の妹に[[上山珊瑚]]。浦路は英語ができたため、草人が日本に帰国後もアメリカに残り、ロスで「Uraji」という名で化粧品業を営んでいた<ref>[http://ipr.ues.gseis.ucla.edu/classroom/IshigoPlans/IshigoImages/1emitaletter1.jpg Letter from Edo Mita to Estelle Ishigo. 13 August, 1942.]</ref>。大戦中は[[日系人の強制収容]]所に収監され<ref>[http://www.japaneserelocation.org/index.php?page=directory&rec=75571 WW2 Japanese Relocation Camp Internee Records]</ref>、アメリカで没した。葬儀は日本で行われ<ref>[http://snob.s1.xrea.com/fumikura/takadatamotu/burari05.html name="#b091 「ブラリひようたん」高田保]<1"/ref>、草人とともに[[青山霊園]]に眠る<ref>[http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/bochi/kamiyama/  「上山草人・山川浦路の墓」写真紀行・旅おりおり]</ref>。草人は帰国後、バーの女中をしていた関口直子と事実婚。
 
子供は浦路と直子との間に少なくとも8人生まれている([[衣川孔雀]]との間にも2児をもうけるも夭折)<ref>[http://ci.nii.ac.jp/els/110001045532.pdf?id{{Cite journal|和書|author=ART0001210506&type=pdf&lang=jp&host細江光 |title=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1361462727&cp= 「上山草人年譜稿 ; 3 : 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光] |journal=甲南女子大学研究紀要 文学・文化編 |ISSN=1347121X |publisher=甲南女子大学 |year=2002 |issue=39 |pages=11-54 |naid=110001045532 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/808}}</ref>。浦路の子はいずれも他家に預けられている。長男の三田平八(三田穢土、上山平八の筆名も)は長女の袖子(12歳で病死)とともに浦路の母親宅で育てられ、幼いころ二人は[[佐藤春夫]]に詩を習った。平八は13歳のときに渡米して両親と暮らし、日系人文芸誌『收穫』の編集子をしながら<ref>[http://www.discovernikkei.org/en/journal/article/3758/  日系アメリカ文学雑誌研究:日本語雑誌を中心に幻の文芸誌『收穫』]</ref>俳優の息子としてアメリカで華やかな暮らしをしていたが、[[結核]]のため療養し、収容所収監を免れた<ref>[http://www.discovernikkei.org/es/journal/article/4041/  日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に望郷の総合雑誌-『ポストン文藝』]</ref>。元共産党員で<ref>[http://library.nufs.ac.jp/kiyou/gendaikokusai%285%29/17.pdf  「ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史」吉見かおる]</ref>、戦後はエド・ミタの名前で俳優をしていた<ref>[httphttps://www.imdb.com/name/nm0593031/  Edo Mita  IMDB]</ref>。
 
三男の竹三郎は帰国した草人に引き取られるが、3歳しか違わない竹三郎と直子の仲を草人が疑い暴行したため、自殺未遂を起こしたのち、家出。新聞配達をしながら学校を卒業し、主婦の友社に入社したが肺病のため療養<ref name="谷崎潤一郎4" />。養女に出された蕗子は女工などをしながらプロレタリア運動に傾倒、掃除婦をしながら竹三郎を助けた。平八と蕗子は生涯左翼活動を続け、青山の[[解放運動無名戦士墓|解放運動無名戦士の墓]]に葬られている<ref>[https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/?action{{Cite journal|和書|author=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=839&item_no=1&page_id細江光 |title=13&block_id=17 「上山草人年譜稿 ; 5 : 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光] |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学 |year=2005 |month=mar |issue=41 |pages=A39-A49 |naid=120005182805 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/839}}</ref>。直子の子としては[[三田松五郎|松五郎]]と梅代。『ハリウッドの怪優  上山草人とその妻山川浦路』を著した三田照子は竹三郎の妻。
 
== 主な出演作品 ==
[[File:Sojin Kamiyama - The Thief of Bagdad - 1924 selected scenes.webm|thumb|『バグダッドの盗賊』の上山(動画)]]
* [[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|バグダッドの盗賊]] ''[[:en:The Thief of Bagdad (1924 film)|The Thief of Bagdad]]''(1924年)- モンゴルの王子
[[ファイル:Kanjūrō Arashi and Sōjin Kamiyama in Kurama Tengu (1942).jpg|thumb|『鞍馬天狗横浜に現る』(1942年)。左は[[嵐寛寿郎]]]]
* [[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|バグダッドの盗賊]] ''[[:en:The Thief of Bagdad (1924 film)|The Thief of Bagdad]]''(1924年)- モンゴルの王子
* [[スエズの東]] ''[[:en:East of Suez (film)|East of Suez]]'' (1925年)
* 市俄古キッド ''[[:en:Soft Shoes|Soft Shoes]]'' (1925年)
* 腕自慢 ''[[:en:Proud Flesh (film)|Proud Flesh]]'' (1925年)
* 海の野獣 ''[[:en:The Sea Beast|The Sea Beast]]''(1926年)
* マンダレイへの道 ''[[:en:The Road to Mandalay (1926 film)|The Road to Mandalay]]'' (1926年)
* ''[[:en:The Honorable Mr. Buggs|The Honorable Mr. Buggs]]'' (1927年)
* 支那の鸚鵡 ''[[:en:The Chinese Parrot (film)|The Chinese Parrot]]'' (1927年)- [[チャーリー・チャン]]
* [[愛欲争闘街]] ''[[:en:The Crimson City|The Crimson City]]'' (1928年)
* [[マダムX (1929年の映画)|マダムX]] ''[[:en:Madame X (1929 film)|Madame X]]'' (1929年)
* ''[[:en:The Show of Shows (film)|The Show of Shows]]'' (1929年)
* [[愛よ人類と共にあれ]](1931年、[[松竹]]) - 山口鋼吉
* [[実話唐人お吉#1931年版|唐人お吉]] (1931年、松竹)- ハリス
* [[忠臣蔵 (1932年の映画)|忠臣蔵]](1932年、松竹)- 吉良上野介
* [[春琴抄|春琴抄 お琴と佐助]](1935年、松竹)- 春松検校
* 永久の愛(1935年、松竹)- 浜田順
111 ⟶ 117行目:
* [[人妻椿]](1936年、松竹)- 多門寺和尚
* [[金色夜叉]](1937年、松竹)- 鰐渕直行
* [[大坂夏の陣 (映画)|大坂夏の陣]](1937年、松竹)- 盤獄
* 喧嘩花盛り(1939年、[[新興キネマ]])- 隠居谷村六兵衛
* [[五人の兄妹 (1939年の映画)|五人の兄妹]](1939年、松竹)- 清岡代議士
* 娘たずねて三千里(1940年、新興キネマ)- 水夫ポパイの源三
* 鮒と将軍(1941年、新興キネマ)- 退役将軍梶原喜十郎
122 ⟶ 128行目:
* [[恋風五十三次]](1952年、[[東映]])- 小田原本陣の老主人
* [[七人の侍]](1954年、[[東宝]]) - 琵琶法師
* [[宮本武蔵 (1954年の映画)|宮本武蔵]](1954年、東宝)- 年寄 ※遺作
 
== 著書 ==
* 『蛇酒』(1917年、[[アルス (出版社)|阿蘭陀書房]])※序文[[谷崎潤一郎]]
* 『煉獄』(1918年、[[新潮社]])※序文[[生田長江]]・谷崎潤一郎
* 『素顔のハリウッド』(1930年、[[実業之日本社]])※
**※復刊『最尖端民衆娯楽映画文献資料集 (13)』(2006年、[[ゆまに書房]]、ISBN 4843321028)として復刊4843321028
 
* 『聖林のモンゴル王子』(工藤美代子著)
;伝記
* [[工藤美代子]]『聖林のモンゴル王子』- 月刊「潮」1985-1986年に6回連載(未単行本)
 
== 脚注 ==
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== 参考書籍 ==
* {{Cite book|和書|author=三田照子 |title=ハリウッドの怪優 上山草人とその妻山川浦路』、[[三田照子]]、[[ |publisher=日本図書刊行会]]、 |year=1996 |ISBN =4890390758 |id={{全国書誌番号|97050367}} |ref=harv}}
 
==関連文献==
* {{Cite journal|和書|author=細江光 |date=2002-03 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/790 |title=上山草人年譜稿 ; 1 : 谷崎潤一郎との交友を中心に |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学 |volume=38 |pages=45-57}}
* {{Cite journal|和書|author=細江光 |date=2003-03 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/808 |title=上山草人年譜稿 ; 3 : 谷先潤一郎との交友を中心に |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学
|volume=39 |pages=11A-54A}}
* {{Cite journal|和書|author=細江光 |date=2004-03 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/825 |title=上山草人年譜稿 ; 4 : 谷崎潤一郎との交友を中心に |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学 |volume=40 |pages=A37-A63}}
* {{Cite journal|和書|author=細江光 |date=2005-03 |url=https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/records/839 |title=上山草人年譜稿 ; 5 : 谷崎潤一郎との交友を中心に |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学 |volume=41 |pages=A39-A49}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sōjin Kamiyama}}
* {{Kinejun name}}
* {{imdb name|id=0436787|name=Sojin}}
* {{Jmdb name|id=0191600|name=上山草人}}
* [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0191600.htm 上山草人] - [[日本映画データベース]]
* [httphttps://archive.org/details/ThiefOfBagdad1924  映画「The Thief of Bagdad」]
* [http://ddr.densho.org/search/results/?fulltext=Sojin+Kamiyama 上山草人画像集]Densho Digital Repository
 
 
{{Normdaten}}
150 ⟶ 168行目:
[[Category:日本の舞台俳優]]
[[Category:新派]]
[[Category:戦前の松竹の俳優]]
[[Category:松竹の俳優]]
[[Category:大映の俳優]]
[[Category:サイレント映画の俳優]]
[[Category:悪役俳優在アメリカ合衆国日本人]]
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