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{{Portal|文学}}
『'''鉄道員'''』(ぽっぽや)は、[[浅田次郎]]の[[短編小説]]。『[[小説すばる]]』平成7年([[1995年]])11月号に掲載され、後に同名の短編集にまとめられ、[[1997年]]4月に[[集英社]]から刊行された。
 
廃線寸前の鉄道の駅を実直に守る駅長。幼い娘、妻を亡くした孤独な彼の前に起こった優しい奇跡の物語。
 
本項では映画版やドラマ版、漫画版についても記述する。
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== あらすじ ==
[[主人公]]の佐藤乙松(さとうおとまつ)は、[[北海]]の道央([[十勝支庁|十勝]]・[[空知支庁|空知]]と推測されるが、あくまで架空)にある廃止寸前の[[ローカル線]]「幌舞線(ほろまいせん)」の[[終着駅]]・幌舞駅の[[駅長]]である。[[鉄道員]]一筋に生きてきた彼も定年退職の年を迎え、また同時に彼の勤めるが働く幌舞駅も路線とともに廃止の時を迎えようとしていた。彼は生まれたばかりの一人娘を病気で失い、また妻にも先立たれ、[[孤独]][[生活]]を送っていた。
 
[[]][[正月]]、彼のもとに真っ赤な[[ランドセル]]をしょった少女が現れ、[[人形]]を忘れて帰る。彼女の来訪それは、彼に訪れた優しい[[奇跡|奇蹟]]の始まりだった。
 
== 書籍 ==
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== ラジオドラマ ==
* [[1997年]][[10月17日]]に、『'''浅田次郎ワールド・鉄道員「ラブ・レター」'''』として[[文化放送]]でラジオドラマ化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=134182|title=放送ライブラリー / 浅田次郎ワールド・鉄道員「ラブ・レター」(1997年10月17日、文化放送)|accessdate=2022-10-05|publisher=BPCJ 公益財団法人 放送番組センター}}</ref>。キャストは[[下條アトム]]、[[菅野美穂]]、[[松田洋治]]ほか。翌[[1998年]][[2月]]、[[集英社]]よりCDブックが発売された。
* [[1997年]][[11月23日]]から[[12月14日]]には、[[NHKラジオ第1放送]]「[[日曜名作座]]」枠にて『'''浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"'''』として「鉄道員」「うらぼんえ」「角筈にて」「オリヲン座からの招待状」の4編が放送された(全4回)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A199711232105001300500
|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第1回『鉄道員(ぽっぽや)』(1997年11月23日放送、全4回)|accessdate=2022-11-01|publisher=NHK 日本放送協会}}<br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A199711302105001300500
|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第2回『うらぼんえ』(1997年11月30日放送、全4回)|accessdate=2022-11-01|publisher=NHK 日本放送協会}}<br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A199712072105001300500
|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第3回『角筈にて』(1997年12月7日放送、全4回)|accessdate=2022-11-01|publisher=NHK 日本放送協会}}<br>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A199712142105001300500
|title=NHKアーカイブス NHKクロニクル / 日曜名作座「浅田次郎短編集"鉄道員(ぽっぽや)"」第4回・最終回『オリヲン座からの招待状』(1997年12月14日放送、全4回)|accessdate=2022-11-01|publisher=NHK 日本放送協会}}</ref>。出演は[[森繁久彌]]と[[加藤道子]]。
 
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| 製作会社 = [[東映東京撮影所]]
| 配給 = [[東映]]
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1999年]][[6月5日]]
| 上映時間 = 112分
| 製作国 = {{JPN}}
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[[ファイル:JRH-Kiha40 764.jpg|thumb|200px|「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影に使用された[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形700番台|キハ40 764]] [[2005年]][[1月9日]] [[石北本線]][[金華信号場|金華駅]]にて]]
[[ファイル:JRH-Ikutora_station_square.jpg|thumb|200px|「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影に使用された'''だるま食堂'''の建物と、キハ40 764の保存車体 [[2007年]][[5月4日]] [[根室本線]][[幾寅駅]]前にて]]
平成11年(1999年)6月5日公開。高倉健が『[[動乱 (映画)|動乱]]』以来19年ぶりに東映映画に出演した作品である<ref name="toei">{{Cite web|和書|date=|author=|title=鉄道員(ぽっぽや) デジタルリマスター版|url=https://www.toei.co.jp/movie/details/1219313_951.html|website=|publisher=[[東映]]|accessdate=2022-11-27}}</ref><ref>{{citeCite web|和書|url=https://hitocinema.mainichi.jp/films-info/2u7h4h4m4mke|title=ひとシネマ:鉄道員(ぽっぽや)|nweapaperwork=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=|accessdate=2013年6月-06-22}}</ref>。[[1990年代|90年代]]を象徴する[[アイドル]]として人気絶頂期だった[[広末涼子]]との共演や<ref name="toei"/>、映画への出演が初めてであった[[志村けん]]の起用<ref name="toei"/>、高倉とは初共演となる[[大竹しのぶ]]<ref name="toei"/>、[[坂本龍一]]による[[主題歌]]なども話題を集めた<ref name="toei"/>。
 
公開時期に放送されていた北海道の駅を舞台とした[[連続テレビ小説]]『[[すずらん (テレビドラマ)|すずらん]]』と併せて、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]による[[オレンジカード]]などの販売、両作の撮影協力を発端に[[SLすずらん号]]運転開始という形で北海道で蒸気機関車が復活するといった[[タイアップ]]も実現した。
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映画版は原作のイメージを損なうことなく<ref name="toei"/>、より幻想的に創りあげた<ref name="toei"/>。本編上の時間軸は、幌舞線の廃止と乙松が退職を迎える寸前の現代の[[歳末]]から[[正月]]明けにかけてで、加えて乙松が回想する形式で、かつて[[炭坑]]の町だった幌舞に暮らしてきた人々にもスポットを当てている。
 
志村けんは[[2020年]]12月公開予定の映画『[[キネマの神様]]』に主演予定だったが{{refnest|group=注|結局主演は[[沢田研二]]に変更になり公開も2021年8月6日に延期となった。}}、クランクインを待たずに急逝した為、ドリフの映画やアニメ映画の吹き替え等を除くと本作が生涯唯一の実写映画出演作となった。
 
[[キャッチコピー]]は「'''男が守り抜いたのは、小さな駅と、娘への想い。'''」「'''1人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…'''」<ref name="toei"/>。
 
=== キャスト ===
; 佐藤乙松:[[高倉健]]
: 幌舞線とともに生きてきた鉄道員。[[蒸気機関車]]の[[火夫|カマ焚き]]・[[運転士|機関士]]を経て、1977年(昭和52年(1977年)より幌舞駅長を任じられ、退職定年を迎える。
:「おっかない性格」を自負しているが、鉄道員一筋。常に列車到着時刻を気にかけ、静枝が亡くなっても「ぽっぽや」だからとなかなか涙を見せなかった。
:寡黙だが部下や同僚を気遣っており「'''乙松さん'''」と慕われている。
; 佐藤雪子
: 乙松と静枝が結婚後17年を経てようやく授かった一人娘。両親から可愛がられたが、わずか生後2ヶ月で病死。乙松は仕事から離れられず、最期を看取れなかった。
; 佐藤静枝:[[大竹しのぶ]]
: 乙松の妻。乙松とともに駅を支える存在。
:身体が弱く、暫く子供に恵まれず、ようやく授かった雪子も亡くす。
:雪子のしばらく経過した現在より2年前に病死。乙松は雪子の時と同じく仕事から離れられず(交替人員がいなかったことが理由)、最期を看取れなかった。
; 佐藤雪子
; 3人の少女(佐藤雪子):[[山田さくや]](幼少)、[[谷口紗耶香]](小学校6年生)、[[広末涼子]](高校生)
: 乙松と静枝が結婚後17年を経てようやく授かった一人娘。両親から可愛がられたが、生後わずか2ヶ月で病死。乙松は仕事から離れられず、最期を看取れなかった。
: 現代の乙松の許へ、見覚えがある人形を抱えて現れた少女とその姉2人。乙松と同じく「佐藤」と名乗る。
; 三姉妹:三女(小学校就学前)[[山田さくや]]、二女(小学校6年生)[[谷口紗耶香]]、長女(高校1年生)[[広末涼子]]
:「[[冬休み|正月休み]]で遊びに来た」と話したため、乙松は近所にある寺の住職の孫だと思い込んでいた。住職からの電話の折、「孫たちに遊んでもらっている」と告げると「娘も孫も帰ってきていない」と告げられ、少女が誰であるかを知ることになる。
: ある日幌舞駅のホームに人形を抱えた女児が現れた。彼女が帰った後、当日の勤務を終えた乙松が駅舎に戻ると、なぜか女児の持っていた人形がそこにあった。その夜、夜半過ぎに彼女の姉が人形を受け取りに駅舎を訪れる。彼女は乙松と同じ「佐藤」姓を名乗り、また来ると言って帰ったが、なぜか人形は持ち帰らなかった。
:翌日の夕刻、激しい吹雪の中、乙松が駅舎に戻ると、昨日現れた二人の姉が待っていた。彼女はなぜか昔の美寄高校の制服を着ており、「[[冬休み|正月休み]]で遊びに来た」と話した。乙松は三姉妹が近所の円妙寺の住職の孫だと思い込んでいた。しかし、住職からの[[電話]]の折に乙松が「お孫さんをすっかり引き留めちまって・・・」と言うと、住職は「娘も孫も帰ってきていない」と答え、乙松は3人の少女の正体を知る。
; 杉浦仙次:[[小林稔侍]]
: 乙松の同僚。互いに「乙さん」「仙ちゃん」と呼び合う仲。幌舞線の機関士を経て、幌舞線のターミナル駅である美寄駅長に昇進。若い頃は血の気が多かったようだが、今では孫にデレデレしている好々爺。
:退職後は[[星野リゾート トマム|トマムのホテル]](本編では美寄駅に東京のデパートとJRの合弁でできるとされる駅ビル)へJRの[[コネ]]で重役待遇で[[天下り]]することになっている。乙松にも勇退後の再就職を誘い<ref>その際の乙松と仙次との会話の中で、乙松が何らかの病を患っている事が語られている。</ref>に正月に幌舞駅を訪れる。
; 杉浦明子:[[田中好子]]
: 仙次の妻。仙次から「おっかあ」と呼ばれる。乙松に代わって静枝の最期を仙次と共に看取り、最期を看取れなかった乙松を強く責めていた。
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; 杉浦秀男:[[吉岡秀隆]]
: 仙次と明子の長男。乙松からは「秀坊」と呼ばれる。幌舞線で高校へ通っていたことから乙松に感謝している。
:JR北海道の[[北海道旅客鉄道鉄道事業本部|札幌本社(鉄道事業本部)]]<!--本編では[[札幌市]][[中央区 (札幌市)'''|'''中央区]]の[[北海道庁旧本庁舎|赤レンガ]]が窓から見える場所であるが、現実には[[桑園駅]]前にある。-->事務職を務める。乙松の退職後を案じ、定年後の働き口をJRの中で探すも、どこからも良い返事はもらえずにいる。
:内示より早く、乙松へ幌舞線の廃止を電話で伝えた。
; 杉浦由美:[[大沢さやか]]
: 秀男の妻。
; 吉岡肇:[[志村けん]]
: 閉山した[[筑豊]]([[福岡県]])の[[炭鉱]]から、長期間[[石炭]]が掘れるからと幌舞へ移住してきた[[期間工]]の炭坑夫。
:酒癖く、さが原因で妻と別れ、離婚。離婚後は息子の敏行を連れて幌舞で暮らすが、前述の酒癖の悪さもあり、息子を満足に育てられなかった。
:幌舞炭鉱事故に巻き込まれ、帰らぬ人となるで死んだ
; 吉岡敏行:[[松崎駿司]](小学生)→加藤敏行:[[安藤政信]]
: 肇の長男。母親が娘(敏行のを連れて逃げたため、後は父親との二人暮らしだった。肇の死で孤児となった彼を乙松と静枝が[[養子縁組|養子]]にしようと考えたが、静枝が病気がちで難しかったため、代わりに加藤ムネが引取って養子にした
:成長後は料理人となる。北[[イタリア]]の[[ボローニャ]]で数年間料理修行をし、帰国後[[札幌市|札幌]]で[[イタリア料理|イタリア料理店]]「ロコモティーヴァ(イタリア語で機関車の意)」を開店した。
:父親の死後、当初は乙松と静枝が養子にしようと考えていたが、静枝が病弱であることからムネに育てられる。[[養子縁組]]したため、改姓している。
:イタリアへ数年間料理修行をした後に帰国。札幌でイタリア料理店を開店させる。
; 加藤ムネ:[[奈良岡朋子]]
: 幌舞駅前で「だるま食堂」を長く営んでいた。敏行からは「ばっちゃん」と呼ばれる。
:肇の死去に伴い、敏行を引き取って育ての母となる。過疎化の影響で客が減ったために食堂を畳んだ
:近年の過疎化の影響で客が減ったために食堂を畳む。
; 飯田:[[中本賢]]
: 幌舞の出身で幌舞線の運転士。幌舞の出身。幌舞[[線]]後の自分の身生活に不安を感じてい
;その他の出演者
:* 川口:[[平田満]]
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=== 主題歌 ===
* 鉄道員 (作詞:[[奥田民生]]、作曲:[[坂本龍一]]、編曲:[[国吉良一]](TETSUDOIN)- 歌:[[坂本美雨]]
{{Infobox Single
| Name = 鉄道員(TETSUDOIN)
| Type = [[シングル]]
| Artist = [[坂本美雨]]
| Album =
| B-side =
| Released = [[1999年]][[5月26日]]
| Recorded =
| Format = [[8センチCD|8cmシングルCD]]
| Genre = [[J-POP]]
| Length =
| Label = [[フォーライフ・レコード|FOR LIFE RECORDS]]/güt
| Writer =
| Producer = 坂本龍一
| Chart position = *週間49位<small>([[オリコン]])<ref name="other side">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/211085/products/302836/1/|title=鉄道員 坂本美雨|work=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|accessdate=2023-3-30}}</ref>
| Last single = [[The Other Side of Love]]<br />([[1997年]])
| This single = '''鉄道員(TETSUDOIN)'''<br />(1999年)
| Next single = in aquascape<br />(1999年)
| Misc =
}}
==== 概要 ====
[[東映]]配給の映画『鉄道員』(ぽっぽや) 主題歌。”坂本龍一 featuring Sister M” 名義でリリースされた「[[The Other Side of Love]]」に続いてリリースされた作品で、坂本美雨名義としては初のシングルとなる。作曲・編曲は[[坂本龍一]]。作詞は[[奥田民生]]が担当している。
 
==== 収録曲 ====
{{tracklist
| collapsed =
| headline =
| extra_column =
| total_length =
 
| all_writing =
| all_lyrics = 奥田民生
| all_music = 坂本龍一
| all_arrangements= 坂本龍一
 
| writing_credits = no
| lyrics_credits = no
| music_credits = no
 
| title1 = '''鉄道員'''
| note1 =
| lyrics1 =
| music1 =
| length1 =
 
| title2 = '''鉄道員'''
| note2 = Chamber mix
| lyrics2 =
| music2 =
| length2 =
 
| title3 = '''鉄道員'''
| note3 = Instrument
| lyrics3 =
| music3 =
| length3 =
}}
{{-}}
 
=== 挿入歌 ===
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* 北海道[[南富良野町]]
* [[星野リゾート トマム|アルファリゾート・トマム]]
* [[小林酒造 (北海道)|小林酒造]]
*[[大井川鐵道]]
*第一ゴム株式会社
 
=== 製作 ===
原作の[[直木三十五賞|直木賞]]受賞により、映像化の動きに火が付き<ref name="avj9908">{{Cite journal|和書 |author= |title=東映・岡田剛映画営業部門担当インタビュー 『東映が直面するもう一つの問題点』 |journal=AVジャーナル |issue=1999年8月号 |publisher=文化通信社 |pages=24–31頁 }}</ref>、映画化には15社が手を挙げ<ref name="日経産業121120">{{cite news |author = |title=出会いに導かれた活動屋(7)映画プロデューサー坂上順氏(仕事人秘録) |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2012-11-20 |page=21 }}</ref>、獲得競争が激しかった<ref name="日経産業121120"/>。特に[[松竹]]も映画化を決定していたといわれる<ref name="逆転のシナリオ"/>。高倉健と長く苦楽を共にした[[東映東京撮影所]](以下、東映東京)の[[撮影技師]]が[[定年#日本|定年]]を迎え、「どうしてももう一度健さんと仕事をしたい」と訴え<ref name="日経産業121120"/><ref name="すばらしき男の世界74">{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=ほとばしるベテランたちの熱き想い 夢ゆだねるなら、ただひとり。|publisher=[[集英社]]|isbn=4-8342-4011-8|pages=74–89}}</ref>、それは東映東京の多くのスタッフにとっても総意であり<ref name="日経産業121120"/><ref name="すばらしき男の世界74"/><ref name="経済界991109">{{Cite journal|和書 |author = |title = 佐藤正忠の極意対談 連載第400回 ゲスト・高岩淡 『日本映画の持つ独特な雰囲気、そこにはいつも情熱があふれている』 |journal = [[経済界 (雑誌)|経済界]] |issue = 1999年11月9日号 |publisher = [[経済界 (出版社)|経済界]] |pages = 142–145頁 }}</ref>、坂上順東映東京所長に申し出て1997年春企画が動き出した<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904">{{Cite journal|和書 |author = 浜田佳代子 |title = ぽっぽや人生を全うした主人公の生き方に映画人の思いが重なる 『鉄道員(ぽっぽや)』撮影現場の報告 |journal = シネ・フロント |issue = 1999年4月号 |publisher = シネ・フロント社 |pages = 24–26 }}</ref><ref name="キネ旬990201">{{Cite journal|和書 |author = 川村章子 |title = 製作 健さん19年ぶりの東映作品 『鉄道員(ぽっぽや)』製作発表 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1999年2月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 120 }}</ref>。[[岡田裕介]]は企画を出したのは、撮影技師ではなく、東映東京の企画営業スタッフ次長・石川通生で<ref name="avj9908"/>、石川が東映東京の映像開発室プロデューサー・山本八洲男の協力を得て企画書を提出した、企画の提出は通常業務で、健さんの東映復帰を要請するアプローチは社内に何人かからあったようだ、と述べている<ref name="avj9908"/>。
 
坂上所長も59歳になり、自身も定年が近いことから、日本映画逆風の中、撮影所での映画作りを復活させたいと考え、これが最後の仕事という意気込みで製作に挑んだ<ref name="日経産業121120"/><ref name="シナリオ9909_16">{{Cite journal |和書 |author = |title =映画『鉄道員(ぽっぽや)』 創作ノート [[岩間芳樹]]インタビュー 北の風雪 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1999年7月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 16–18頁 }}</ref>。1997年夏頃の企画会議では乙松役は高倉しかいないという意見が大勢ではあったが<ref name="avj9908"/><ref name="時報9903">{{Cite journal|和書 |author = 松崎輝夫 |title = 『鉄道員(ぽっぽや)』にオール東映の総力を結集! 2001年の創業50周年へ向け逞しく、積極果敢に戦い抜く 特別インタビュー 東映社長・高岩淡 |journal = 映画時報 |issue = 1999年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 28–38頁 }}</ref>、乙松/仙次コンビは『[[蒲田行進曲#映画|蒲田行進曲]]』の[[風間杜夫]]・[[平田満]]コンビを推す意見もあった<ref name="avj9908"/>。1997年秋過ぎに監督・[[降旗康男]]、脚本・[[岩間芳樹]]が決まったことから<ref name="時報9903"/>、高倉の出演が映画化の絶対条件という流れになり<ref name="時報9903"/>、浅田次郎も映画になるなら主人公は高倉に演じて欲しかったとされたため<ref name="時報9903"/>、高倉さえ承諾してくれれば、すんなり東映で映画化出来る状況にはあった<ref name="時報9903"/>。オフィシャルな形での出演交渉はシナリオ脱稿後でないと出来ず<ref name="avj9908"/>、岩間シナリオは9ヵ月改稿を重ね、1998年8月に完成<ref name="avj9908"/>。しかし高倉はしょぼくれた[[駅長|駅員]]役に出演を渋ったといわれる<ref name="映撮990815">{{Cite journal|和書|author=兼松熈太郎(JSC)・佐々木原保志(JSC)・渡部眞(JSC)・高間賢治(JSC)|title=撮影報告 『鉄道員(ぽっぽや)』を語る」 / 木村大作(JSC)|journal=映画撮影|issue142|publisher=[[日本映画撮影監督協会]]|date=1999-08-15|pages=30-36頁}}</ref><ref name="シナリオ9909">{{Cite journal |和書 |author = |title =映画『鉄道員(ぽっぽや)』シナリオと演出 降旗康男インタビュー映画『あ・うん』以来―10年ぶりの健さんとの仕事 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 1999年9月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 10–15頁 }}</ref><ref name="キネ旬170501">{{Cite journal|和書 |author = 金澤誠 |title = 『追憶』特集第1弾 降旗康男監督と木村大作キャメラマンの奇跡 『駅 STATION』から『追憶』までの36年 |journal = キネマ旬報 |issue = 2017年5月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 47 }}</ref>。すんなりはいかなかったが、東映東京のスタッフたちの熱い思いから、1998年9月、降旗邸で降旗、坂上、高倉が顔を合わせ、高倉が正式に出演を承諾した<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904"/><ref name="映撮990815"/><ref name="キネ旬170501"/>。高倉が出演を承諾してくれたことで、監督・降旗、脚本・岩間、撮影・[[木村大作]]と仕事人を集結させ、浅田に企画書を提出し<ref name="シナリオ9909"/>、浅田から映画化権を獲得した<ref name="日経産業121120"/><ref name="シナリオ9909"/>。[[日本映画製作者連盟|邦画メジャー三社]]は[[1990年代]]に入ると自社主導で製作する映画をめっきり減らし、メガヒットの製作母体は邦画メジャーの手を離れていた<ref name="逆転のシナリオ"/><ref>{{cite news |author = 勝田友巳 (学芸部) |title=〔ニュースな展望〕 好調な日本映画界 進む業界の構造変革 |newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1999-02-09 |page=4 }}</ref><ref name="キネ旬000202">{{Cite journal|和書 |author = 川端靖男・指田洋・鈴木元・前野裕一 |title = 映画・トピック・ジャーナル スペシャル 『1999年の映画界を語る』 |journal = キネマ旬報 |issue = 2000年2月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 | pages =224-225頁 }}</ref>。このため、映画化を画策しなかった[[東宝]]が、東映の自社製作の大作の動向に強い関心を持った<ref name="逆転のシナリオ"/>。本作にも出演する[[広末涼子]]は東宝製作の『[[秘密 (東野圭吾)#映画|秘密]]』に早くから出演が決まっていたが、東映の製作の根を刈ってはならないと配慮し、また東映の動向が東宝自体にも跳ね返ってくるという計算があり、広末のキャスト発表を遅らせた<ref name="逆転のシナリオ"/>。松竹も同じように狙っていた本作の映画化権を東映に取られたため<ref name="文芸ポスト88秋">{{Cite journal |和書 |author = 田沼雄一 |title = 小説映画抄 #2 『小説家を驚愕させる映像の巧さ』 |journal = 文芸ポスト |issue = 1988年秋号 |publisher = [[小学館]] |pages = 420–421頁 }}</ref>、本作と同じ短編集に収録されていた『[[ラブ・レター (小説)|ラブ・レター]]』を『鉄道員』より先に映画化してやれ、と慌てて『[[ラブ・レター (小説)#映画|ラブ・レター]]』を製作している<ref name="文芸ポスト88秋"/>。
 
降旗監督は「最初、東映とは別の会社から、原作権を取る段階で名前を貸してくれって電話をもらい、その後、東映が原作権を取って正式に話が来たんです。でも原作は短編ですし、映画化するには長さが足りるかとか、今時このような駅はどこにあるんだろうとか、全部セットを作ると大変な金がかかるなあとか考え、前途多難だなと思い、東映に『覚悟なさってるんですか』と聞いたら、『当然です』と言われたから「じゃあやりましょう」と返事した」と述べている<ref name="シナリオ9909"/>。
 
[[撮影]]の[[木村大作]]は「健さんは当初は『しょぼくれた駅員なんて、あまりやりたくないね』とあまり乗り気でなかった…一方で健さんと青春時代を共に過ごした東映東京のスタッフが、最後にもう一度健さんと仕事がしたいと立てた企画で、それで完全に[[NG (放送用語)|NG]]にならずに足踏み状態が続いた。最終決断を迫られる時期になって、健さんが降旗監督に『どんな映画になるんでしょうか』と尋ねたら、『いい映画になると思います。5月の雨に濡れるような映画です』と答えて、健さんが出演を決意したと聞いた」<ref name="キネ旬170501"/>、「俺は99.9%ボツになると思っていた。企画はずいぶん前からあったけど、俺も原作読んでさ、こんなしょぼくれた老人を健さんは絶対やらんだろうと思っていた。それをプロデューサーの坂上(順)がしつこく粘ったということと、降旗監督が健さんと何遍か会ってね、健さんが断ったらあっさり引く人が『これはやった方がいいんじゃないですか』と言ったらしいんだな。俺は原作読んでもちっとも面白くなくてさ、俺はやりたくなかったんだよ。降旗さんが端的に言ってるけど、これは中年の[[アイドル映画]]だよ」等と述べている<ref name="映撮990815"/>。
 
[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映会長は「降旗君が来てどうしてもやらせてくれ、成功すると言うので、高倉君は彼とは盟友だから、高倉君はノッってるのかと聞いたら、僕が口説きますというので製作させた」と述べている<ref>{{Cite book |和書 |author=小石原昭 |year=2000 |title=僕らはそれでも生きていく! |chapter = 喧嘩の作法 岡田茂 |publisher=財界研究所 |pages=154 - 155 |isbn= 4-87932-014-5}}</ref>。
 
高倉は「『鉄道員』の話をお受けすることになったのは、坂上君が動いたからです。動機ははっきり言って、それだけでしたね。それとまだぼくがやると決めていないころ、木村大作が駅を探して北海道中を車で駆けまわっていたこともあとで聞いたんです。それを記事で知ったんです。決して本人は言いませんから。えー、そんなことがあったのかと。それがボディに効いてくるんですよね」などと述べている<ref name="すばらしき男の世界36">{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=高倉健ロング・インタビュー|publisher=集英社|isbn=4-8342-4011-8|pages=36–61}}</ref>。
 
==== 脚本 ====
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==== 製作会見 ====
1998年10月末、「高倉健主演で『鉄道員(ぽっぽや)』が映画化」と[[マスメディア]]が一斉に報じた<ref name="avj9908"/>。1998年12月18日に[[帝国ホテル|東京帝国ホテル]]で製作発表会見があり<ref name="すばらしき男の世界36"/>、高岩淡東映社長、浅田次郎、降旗康男監督、高倉健、[[大竹しのぶ]]、[[小林稔侍]]、広末涼子らが出席<ref name="avj9908"/><ref name="キネ旬990201"/><ref name="シネフロント9904"/>。高倉は「すばらしい原作、すばらしいスタッフ、キャスト、故郷の東映東京撮影所……。先日、20年ぶりに衣装合わせに行って感慨無量になったのですが………。えーすいません……一生懸命…燃焼しようと思っています」と途中で言葉を詰まらせながら話した<ref name="シネフロント9904"/><ref name="キネ旬990201"/><ref name="すばらしき男の世界36"/>。途切れ途切れの高倉の言葉に会場いっぱいに詰めかけた報道陣・関係者は、高倉の言葉の行間の思いを馳せながら次の言葉を待った<ref name="シネフロント9904"/>。高倉は本作まで201本の映画に出演し、うち138本が東映作品<ref name="キネ旬990201"/>。[[1980年]]の『[[動乱 (映画)|動乱]]』以来の東映出演となった<ref name="キネ旬990201"/>。高岩東映社長は「命を賭けてこの映画をヒットさせる」、降旗監督は「イメージキャストがそのまま実現できました。私も健さんも主人公の佐藤乙松と同じ世代。人生の黄昏どきに差し掛かった世代です。それだけに人生にけじめを付ける…。自然と胸に湧き上がって来ます」、小林稔侍は「僕も東映育ちなものですから、当時、東映では色んなスターさんの派閥がありまして、僕は高倉一家に所属していましたから、いつも高倉さんの前では青春の、青年の気持ちでいるわけです。高倉さんに長年お世話になってきた。その思いだけで、この役に邁進したいと思っています」、大竹しのぶは「高倉さんと夫婦役で共演できるなんて夢のよう」、広末涼子は「この作品に出会えたことをすごく感謝しています」などと話した<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904"/><ref name="キネ旬990201"/><ref name="時報9903"/>。高倉は映画も5年ぶりで、最後に「映画俳優というのは映画を撮っていなければ、何を言っても虚しいんだなと感じた。持っているエネルギーを映像に燃焼したい」と話した<ref name="キネ旬990201"/>。夫婦の回想場面で使われる「[[テネシーワルツ#日本での歌唱|テネシーワルツ]]」は高倉からの提案<ref name="逆転のシナリオ"/>。正式に採用が決まると高倉は「ええっ、困っちゃったなあ、言わなきゃよかった」と言ったが、押し切った<ref name="逆転のシナリオ"/>。
 
=== ロケハン ===
木村は『[[おもちゃ (1999年の映画)|おもちゃ]]』の撮影が盆休みの間<ref name="映撮990815"/>、1998年夏に北海道[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]]<ref name="映撮990815"/><ref name="すばらしき男の世界90">{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=木村大作インタビュー『大作、ひとりごと』|publisher=集英社|isbn=4-8342-4011-8|pages=90–99}}</ref>。高倉はまだ出演を迷っていた頃だったが<ref name="すばらしき男の世界90"/>、高倉の返事を待ってからでは手遅れになると判断し<ref name="すばらしき男の世界90"/>、イメージに合う駅を探し歩いた<ref name="映撮990815"/><ref name="すばらしき男の世界90"/>。『[[駅 STATION]]』で使った[[上砂川駅]]など、いい駅はあっても廃線で線路がなく、行ってみたら工事中だったり、駅舎からホームから線路から全部のセットをってたらると製作費が莫大になってまうため、もう企画は潰れるんじゃのではないかと諦めかけたとき、[[根室本線]][[幾寅駅]]を見つけた<ref name="映撮990815"/><ref name="すばらしき男の世界90"/>。これが1998年8月<ref name="すばらしき男の世界90"/>。当地は背後に[[星野リゾスキト トマム|アルファリゾート・トマム]]が絡んでいる迫り、周り建物も多く幾寅にカメラを向けられる方向限定されるが<ref name="撮影監督">{{Cite book|和書|author=小野民樹|year=2005|title=撮影監督|chapter=木村大作『ぽっぽ屋と活動屋』|publisher=[[国民宿舎キネマ旬報社]]などはあるが|isbn=9784873762579|pages=72–78}}</ref>高倉を長期泊めさせられないと、高倉をアルファリゾート・トマムに宿泊させて製作に入覆われたら、タダ墓地の情感などがよく当地してもらえないかと交渉し決めら、半額にします言われたいう<ref name="990815影監督"/>。
 
話に[[星野リゾート トマム|アルファリゾート・トマム]]が絡んでいるのは、幾寅には[[国民宿舎]]などはあるが、高倉を長期に泊めさせられないと、高倉をアルファリゾート・トマムに宿泊させて製作に入れたら、「タダにしてもらえないか」と交渉したら、「半額にします」と言われたため<ref name="映撮990815"/>。
 
==== 撮影 ====
撮影に使用された[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形700番台|キハ40形]]は、[[北海道旅客鉄道苗穂工場|北海道苗穂工場]]で、画面でのイメージに合わせ塗装を施した<ref name="すばらしき男の世界101">{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=緊張と歓喜、これぞ現場の命と。美術 福澤勝広|publisher=集英社|isbn=4-8342-4011-8|page=101}}</ref>。乙松が駅長を務める「幌舞駅」は、根室本線幾寅駅を改造して撮影された<ref name="シネフロント9904"/>。駅前の床屋とだるま食堂などを建設し<ref name="映撮990815"/>、駅の周りのコンクリートの[[電柱]]を全部木製に変え<ref name="すばらしき男の世界101"/>、模擬の[[鉄道信号機|腕木式信号機]]や[[車止め]]を設置するなどの細工が施されていた<ref name="すばらしき男の世界101"/>。オープンセットの製作費は1億円<ref name="映画の人びと">{{Cite book |和書 |author = 渋谷典子 |year = 2013 |title = 映画の人びと 女性カメラマンの映画撮影現場体験記 |chapter = 鉄道員/最後の仕事 |publisher = [[バジリコ (出版社)|バジリコ]] |isbn = 9784862382054 |pages = 213–246 }}</ref>。1999年1月11日、当地で[[撮影#動画映像撮影について|クランクイン]]<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904"/><ref name="シナリオ9909"/>。文献により[[滝川駅]]で1月15日にクランクイン、幾寅駅の撮影はその後と書かれた文献もある<ref name="映画の人びと"/>。当日はマイナス20度<ref name="シネフロント9904"/>。日中は10分から20分おきに車が入るため<ref name="映撮990815"/>、お昼12時から2時までの最も運転間隔の長い2時間に全てをかける撮影で、他の時間は[[リハーサル]]<ref name="映撮990815"/>。また当駅は[[終着駅]]ではなく、根室本線の途中駅であるため、車が駅を出たら線路わきにスタンバイする20人以上のスタッフが一気に線路に雪を積み上げ、撮影用の車止めを設置し、終着駅のように見せた<ref name="映撮990815"/>。模擬の[[鉄道信号機|腕木式信号機]]や[[車止め]]を設置するなど、いくらかの細工幾寅ロケ施さ行わてい。本線と幌舞線が分岐する[[ターミナル駅]]として登場する'''美寄駅'''は[[滝川駅]]で撮影された。北海道で撮影3週間だが、この間雪が降ったのは31999年1月30間だけまで<ref name="シナリオ9909映画の人びと"/>。
 
本線と幌舞線が分岐する[[ターミナル駅]]として登場する'''美寄駅'''は[[滝川駅]]で撮影された。滝川駅での撮影は1999年1月15日から<ref name="映画の人びと"/>。15日夜に佐藤乙松(高倉)が生まれた子供のために[[人形]]を買うシーンの撮影があり、滝川市の[[繁華街]]にある[[茶|お茶]]屋を[[玩具|おもちゃ]]屋に改装して撮影が行われた<ref name="映画の人びと"/>。周囲は高倉を一目見ようともの凄い数の人が集まった<ref name="映画の人びと"/>。この撮影で[[泊懋]][[東映アニメーション]]社長が現場に訪れ、「43年前の初仕事が高倉さんの映画で[[カチンコ]]を打った、また打たせて欲しい」と[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]からカチンコを受け取り、緊張した面持ちでカチンコを打った<ref name="映画の人びと"/>。また晴れ舞台の如く地元の[[不良行為少年|ツッパリ]]がどんどん現場に参集し<ref name="映画の人びと"/>、スタッフが前面道路の[[通行止め]]をしていたが、ツッパリグループの兄貴分と称する[[特攻服]]を着た仲間が車で駆け付け、止まらずスタッフを轢いて[[救急車]]で運ばれた<ref name="映画の人びと"/>。この不手際で撮影終了後、助監督の一人が店の前で木村大作に凄い剣幕で「オマエ、明日、東京に帰れ!」などと怒鳴り散らされ、残っていたギャラリーもビックリしていたが、翌日も現場に現れ、後に人気監督になった<ref name="映画の人びと"/>。
SLなど実景撮影を一週間少し撮り<ref name="シナリオ9909"/>、1999年1月24日、[[南富良野町]]のロケ現場にマスメディア約100人が参集<ref name="avj9908"/>。2月10日より東映東京でスタジオ撮影<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904"/>。待合室や事務室、居間や寝室などを含んだ幌舞駅の駅舎セットを同所に建設<ref name="シネフロント9904"/>。東映東京で撮影を続け<ref name="シネフロント9904"/>、3月上旬[[静岡県]][[大井川鐵道]]ロケ<ref name="時報9903"/>、1999年3月20日、[[撮影#動画撮影について|クランクアップ]]<ref name="シネフロント9904"/>。[[コンピュータグラフィックス|CG]]処理等時間がかかるため、1999年4月いっぱいで完成予定<ref name="時報9903"/>。
 
[[佐々部清]]は東映の社員ではないが、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の『[[北の国から]]』の現場に長く就いていたという理由で本作に[[助監督 (映画スタッフ)#序列と職務|チーフ助監督]]として参加したが、雪の中に体を半分埋められる撮影の[[吹き替え]]をさせられた<ref name="映画の人びと"/>。体の下に[[段ボール]]を敷いたり、寒さ対策を行った上での撮影だったが、ロングや寄りの撮影等で1時間以上かかり、足跡も付けられないので途中様子を見に行くことも出来ない。時々「大丈夫か?」と大声で声をかけるだけで、次第に返事の声が小さくなり、しまいに応答しなくなった<ref name="映画の人びと"/>。急いで救出に向かうが[[呼吸困難]]を起こし、震えが止まらず死亡する寸前だった<ref name="映画の人びと"/>。
 
1日のみ[[赤平市]]でもロケがあった<ref name="映画の人びと"/>。北海道での撮影は3週間だが、この間雪が降ったのは3日間だけ<ref name="シナリオ9909"/>。
 
* [[幾寅駅]]:幌舞線の終点駅「幌舞駅」として使われた駅。実際は[[根室本線]]の途中駅のため、撮影時のみ線路上に模擬の車止めなどを設置した。
* [[滝川駅]]:道内のとあるターミナル駅「美寄駅」として駅構内などでの撮影に使われた駅。劇中では幌舞線が分岐する起点駅という設定。実際は[[函館本線]]から根室本線が分岐する駅。
* [[静岡県]][[大井川鐵道]]:実景撮影を含み、1999年3月上旬に一週間少し<ref name="シナリオ9909"/>、[[家山駅]]と[[国鉄C11形蒸気機関車|C11 227]]が撮影に使用された<ref name="時報9903"/><ref name="映画の人びと"/><ref>{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=緊張と歓喜、これぞ現場の命と。照明 渡辺三雄|publisher=集英社|isbn=4-8342-4011-8|page=100}}</ref>。[[トンネル]]から出る[[機関車]]を撮影しようとスタッフ10数人で斜面で待機していたら、雨の日で斜面が滑り、トンネルから出た機関車の風圧で体が煽られ、斜面から滑り落ち危険な目に遭ったこともあった<ref name="映画の人びと"/>。東映の高岩社長は「[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[松田昌士]]社長以下の全面的なご協力があり、映画用の列車を持って来て、在来線を動かしながら撮影しました。[[国鉄]]時代なら考えられません(笑)」と述べている<ref name="経済界991109"/>。
* [[大井川鐵道]]:撮影に使用された鉄道会社。[[家山駅]]と[[国鉄C11形蒸気機関車|C11 227]]が撮影に使用された。
* [[磐越西線]]:冒頭のシーンにて登場。[[国鉄D51形蒸気機関車498号機|D51 498]]による臨時列車「SL磐梯・会津路号」が走行する様子が撮影された。撮影時のみ、ヘッドマークを外した状態で運行された。
 
1999年2月10日より東映東京でスタジオ撮影<ref name="avj9908"/><ref name="シネフロント9904"/>。待合室や事務室、居間や寝室などを含んだ幌舞駅の駅舎セットを同所に建設<ref name="シネフロント9904"/>。東映東京で撮影を続け<ref name="シネフロント9904"/>、1999年3月20日、[[撮影#映像撮影|クランクアップ]]<ref name="シネフロント9904"/>。
 
高倉健の久しぶりの東映出演と、この時点では最後の東映映画出演になるかも知れなかったことから<ref name="映画の人びと"/>、撮影中にロケ現場や撮影所に奈村協京都撮影所所長、[[沢木耕太郎]]、[[真田広之]]、[[檀ふみ]]、[[澤井信一郎]]、[[佐藤純彌]]ら、高倉や東映に縁のある人たちが大勢[[お見舞い|陣中見舞い]]に訪れた<ref name="映画の人びと"/>。
 
[[コンピュータグラフィックス|CG]]処理等時間がかかるため、1999年4月いっぱいで完成予定<ref name="時報9903"/>。
 
==== 演出 ====
高倉は劇中で「3月で廃線にする」と聞かされた後、土足でバアッと走り回るとか、帽子を叩きつけるとかにしたいと頼んだが、監督に却下されたと話している<ref name="すばらしき男の世界36"/>。「それまでやった200本のうちの100本以上は、最後は本性を出して、刺青出して、刀を振り回す役で、それが自分には慣れているから、今回の感情を表に出せない役は何か気持ち悪かった」とも述べている<ref name="すばらしき男の世界36"/>。
 
大竹しのぶは高倉について「高・倉・健!っていう感じ。それしか言いようがない(笑)。男の人が憧れる気持ちも分かります。ふだん現場では、冗談ばかり言っているんですよ。お茶目で、かわいらしい人。でも画面に映るとピリッと変わって、存在の大きさをとても感じます」などと述べた<ref>{{cite book|和書 |editor=『鉄道員』メイキング編集部|year=1999|title=高倉健とすばらしき男の世界 映画『鉄道員(ぽっぽや)』|chapter=大竹しのぶインタビュー おちゃめで、かわいらしい人|publisher=集英社|isbn=4-8342-4011-8|pages=122–124}}</ref>。
 
広末の出演シーンは東映東京でのラスト4日間のみで、北海道での撮影はなかったが<ref name="映画の人びと"/>、自分が赤ちゃんだった時のシーンを見るため、幾寅駅を訪れて撮影を見学した<ref name="映画の人びと"/>。
 
広末が北海道に来た1999年1月24日に[[南富良野町]]のロケ現場で[[記者会見]]が行われ、全国から100人以上の取材陣が集まった<ref name="avj9908"/><ref name="映画の人びと"/>。小林稔侍は「38年前に第10期[[東映ニューフェイス]]で東映に入社して、高倉さんにずっと面倒を見てもらった。([[ポスター]]で大トリを務める)こんな日が来るとは思わなかった」などと話した<ref name="映画の人びと"/>。
 
[[志村けん]]は「映画は[[ザ・ドリフターズ]]時代には出たことはあるけど、一人で活動するようになってから、シリアスな映画に出るのは初めて。お笑いしかやらないと決めていたけど、大好きな高倉さんの指名と聞いて出演を引き受けた」と話した<ref name="映画の人びと"/>。
 
志村演じる炭鉱夫・吉田の[[炭鉱#炭鉱事故|炭鉱事故]]のエピソードは原作にはなく、予算的にロケに行くのは無理だったため、木村のアイデアで東映東京の裏の駐車場に[[炭鉱]]のセットを作った<ref name="撮影監督"/>。[[坑道|縦坑]]のみ[[赤平市|赤平]]で実景を撮り組み合わせた<ref name="撮影監督"/>。
高岩東映社長は「[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[松田昌士]]社長以下の全面的なご協力があり、映画用の列車を持って来て、在来線を動かしながら撮影しました。[[国鉄]]時代なら考えられません(笑)」と述べている<ref name="経済界991109"/>。
 
==== デジタル処理 ====
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[[ゴシップ]]誌『[[噂の眞相]]』での映画会社社員による覆面座談会形式の取材を基にするとした記事<ref>『[[噂の眞相]]』1999年12月号「断末魔の松竹と“怪文書の日活”日本映画界に立ち込める暗雲の元凶」</ref> では、本作のヒットにより、1997年の東映作品『[[北京原人 Who are you?]]』の損失をカバーできたという記述がある。
 
当時は[[テレビ局]]や[[出版社]]主導の映画製作が日本映画の中心になっていたため<ref name="キネ旬000202"/>、映画会社主導の作品が大ヒットしたのは久しぶりだった<ref name="キネ旬000202"/>。『映画時報』はヒットの勝因は、高倉健を古巣東映に呼び戻し、広末涼子の本格的映画初出演など、いろいろな要素が一つに結集した、これからの日本映画をどう作り、どう興行すべきかという一つの指標を示した、また東映がまだちゃんと映画を作る能力を持っていることを証明した等と評した<ref name="時報9908"/>。大ヒットが確実になったのを見て<ref name="経済界990817">{{Cite journal|和書 |author = |title = Topics 『鉄道員(ぽっぽや)』は日本映画界を蘇らせるか、岡田茂・東映会長が吼える! |journal = 経済界 |issue = 1999年8月17日号 |publisher = 経済界 |page = 42 }}</ref>、長い低迷で苦虫をみ潰していた岡田茂東映会長も「天の利や!」と溜飲を下げ<ref name="経済界991109"/><ref name="財界人0008"/><ref name="経済界990817"/>、経済誌のインタビューで、「うちにとって歴史的な一作になりましたこれで中心点ができました。正月の『[[GTO (1998年のテレビドラマ)#映画|GTO]]』も『[[踊る大捜査線 THE MOVIE|踊る大捜査線]]』並みにいくにではないかと期待しています。なかなか難しいかもしれないが、狙いは年間配収100億円です。配収50億円の作品が一発出れば可能性はあります。いつかはそういう時代が来ますよ。今、うちは直営館の数をドンドン増やしています。もう7、8年もすれば配収が安定してくると思います。今、東宝さんが強いのは、直営館が完全に整備できているからです。うちは作った映画をテレビに売ったり、星([[衛星放送]])に売ったり、東宝さんとは別の生き方をしてきたわけですが、[[不動産]]も儲かりませんので、これを切って、興行網を整備しようという本来の映画の路線にします。今後『鉄道員(ぽっぽや)』のようなテレビや[[新聞社]]、出版社との[[メディアミックス]]の映画はますます増えます。テレビ局もやりたがっているし、実際にスタッフや俳優を集める力も持っています。映画会社に映画を作る力が弱まっていることは事実です。自分のところで作って自分のところで配給して興行してもたかが知れています。たまに当たっても5億円か6億円でしょう。でも映画は映像の世界の横綱ですからこれは大事にしないといけません」等と話し<ref name="経済界990817"/>、この後、東映としても1999年は、本作や『金融腐蝕列島–呪縛』など、久しぶりにヒット作が続き<ref name="財界人0008"/>、2000年3月期の[[連結決算]]で、前期28億6,700万円の[[黒字と赤字|赤字]]から最終損益が7億3,100万円の黒字に転換した<ref name="財界人0008"/>。
 
=== 受賞歴 ===
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=== 作品の評価 ===
[[麻生千晶]]は『[[産経新聞]]』1999年6月7日付で「高倉健は立ち姿も美しく孤高の人を演じているが、物語自体のどうしようもなく古めかしさに昭和30年代の映画かとみまがうほどだ。テレビドラマの方がまだまだましと言いたいほどの退屈作」などと貶した<ref name="逆転のシナリオ"/>。
[[麻生千晶]]が『[[産経新聞]]』1999年6月7日付で「高倉健は立ち姿も美しく孤高の人を演じているが、物語自体のどうしようもなく古めかしさに昭和30年代の映画かとみまがうほどだ。テレビドラマの方がまだまだましと言いたいほどの退屈作」などと貶したが<ref name="逆転のシナリオ"/>、大高宏雄は「表面的にはある種の正鵠を射てはいるとは思うが、私はそう簡単には断定できないと思う。『鉄道員』を観て私が思い出したのは[[1975年]]の『[[新幹線大爆破]]』である。それは当時の[[パニック映画|パニックもの]]の影響下で東映が作った渾身の期待作だった。私は封切時に[[第二東亜会館|歌舞伎町東映]]で観て、あまりの面白さに血沸き肉躍ったものだ。高倉健の代表作と鉄道との不思議な符牒イメージとその相関関係は確かに興味深いが、それ以上に私の気持ちを捉えるのは両作品の間に横たわる20数年の歳月である。つまり『新幹線大爆破』と『鉄道員』への映画の移り変わりこそが、日本映画の変貌の形を如実に表しているのだろう。確信犯的犯罪者から、定年を間近に控えた実直な[[サラリーマン]]という高倉健の役柄の変化。反体制的視点に裏打ちされた緊密なサスペンスから、家族愛を背景にした人間ドラマという内容面での変化。当時の[[国鉄]]に、撮影協力を拒まれた『新幹線大爆破』からJR全面協力のもと、みどりの窓口で映画チケット販売まで行われた『鉄道員』という外的な変化もこれに加えれば、この歳月の意味が否応でも明らかになってくる。東映は70年代中期まで続いた[[ヤクザ映画]]隆盛のおかげで、[[日本映画製作者連盟|邦画4社]]の中では業績トップを維持した背景もあり、新たな映画ジャンルの発掘に取り組むことが出来た。日本映画のエンターテインメント大作を考える上で、70年代に3本の重要な作品があった。『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』『新幹線大爆破』『[[太陽を盗んだ男]]』の3本で、その興行成否はそれぞれ東宝、東映、独立系の製作会社にとって、以降の製作姿勢、及びパワーバランスを決定付けるほど大きな意味を持った(中略)。おそらく『鉄道員』の登場が意味してるのは、日本映画が進むべき方向性の一つのエンターテインメント大作ではなくて、文芸大作への道。その芽に至るまでに、いったいどれほどの苦闘の日本映画の歴史があったことか。これを私たちは、作る側も観る側も、日本映画が辿ってきた生々しい現在形としてまず認めなくてはならないと思う。そうした諸々を反映しながら『鉄道員』は、日本映画界がギリギリの踏ん張りを見せて世に放った作品ということが出来る。『鉄道員』を観て私がハッとしたのは、高倉健のセリフの多さであった。今回の高倉は異常なほど喋っているのではないか。往年の任侠映画に於ける高倉の役どころは常に耐える男、沈黙の男である、その定型を彼自身が今回大きく変えようとしているところにこそ、人を強く惹きつける要素があったように思われる。友人である小林稔侍とのちょっと度外れた密着ぶりや、生きていればりっぱに成長したであろう娘への執着ぶりは、高倉の長い俳優人生の中で初めて見せた演技であるし、不治の病で死んだ妻への愛惜の曲が『[[テネシーワルツ#日本での歌唱|テネシーワルツ]]』とくれば、年配の観客たちは誰だって実生活上の夫人のことを想起する。私は『鉄道員』が、表面上の古めかしさを超えて心を打ってくる理由は、高倉健という俳優が今回はじめて素直に自分をさらけ出したことを措いてないと思う。物語と密接に絡んだ高倉健の捨て身の演技が多くの観客の支持を受けたに違いない。『新幹線大爆破』から24年。この歳月の中に日本映画の流転の道程を超えて、高倉健という日本を代表する俳優のまごうことなき変質があった。これが日本映画である。年配の観客たちは、無意識にせよ自身の過ぎ去った歳月をそこに重ね合わせながら映画に見入っていたに違いない」などと論じている<ref name="キネ旬990708"/><ref name="逆転のシナリオ"/>。
 
=== ビデオ・DVD・Blu-ray ===
公開半年後の1999年12月10日、[[東映ビデオ]]より[[レンタルビデオ|レンタル]]開始<ref name="avj9910"/>。112分2秒<ref name="avj9910"/>。価格不明。
 
2014年10月10日、[[DVD]]が東映ビデオより発売<ref>{{Cite web |title=鉄道員(ぽっぽや)DVD<“東映 ザ・定番”シリーズ> {{!}} 東映ビデオ オンラインショップ {{!}} 商品一覧 |url=https://shop.toei-video.co.jp/Form/Product/ProductDetail.aspx?shop=0&&pid=DUTD02001 |website=東映ビデオ オンラインショップ |access-date=2024-04-03 |language=ja}}</ref>。114分。価格3080円。
 
2017年10月25日、[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]が東映ビデオより発売<ref>{{Cite web |title=鉄道員(ぽっぽや)Blu-ray {{!}} 東映ビデオ オンラインショップ {{!}} 商品一覧 |url=https://shop.toei-video.co.jp/Form/Product/ProductDetail.aspx?shop=0&pid=BUTD02001&swrd=%E9%89%84%E9%81%93%E5%93%A1 |website=東映ビデオ オンラインショップ |access-date=2024-04-03 |language=ja}}</ref>。112分。価格3850円。
 
=== ロケ地となった路線の現状 ===
映画版は、現在の根室本線で撮影されてり、ける幌舞駅の舞台となった幾寅駅は現在も聖地として有名である。しかし、[[2016年]]の台風被災により幾寅駅を含む根室本線[[東鹿越駅|東鹿越]] - [[新得駅|新得]]間が不通となった。その後も復旧されることなく、[[20222024年]]には撮影区間[[3月31日]]含むもって根室本線[[富良野駅|富良野]](~東鹿越~ - 新得駅間は廃止され、幾寅)〜駅も廃駅となった<ref>{{cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASR3Z555SR3ZIIPE00L.html |title=根室線新得―富良野、24年3月廃止及びバス転換への容認が決定した。皮肉にも、舞台で合意 JRなった実際の駅や区間もまた映画版と同じ運命を辿る事になってしまった地元 | newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2023-03-30 |accessdate=2023-10-03}}</ref>
 
{{降旗康男監督作品}}
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{{毎日映画コンクール日本映画大賞}}
{{日刊スポーツ映画大賞作品賞}}
{{金孔雀賞}}
 
{{広末涼子}}
{{志村けん}}
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:* 脚本:[[松原敏春]]
:* 監督:[[出目昌伸]]
:* プロデューサー:一杉丈夫、[[松本基弘]]、中曽根千冶、[[丸山真哉]]
 
== 漫画 ==
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* {{Kinejun title|31599|鉄道員}}
* {{IMDb title|0206216|鉄道員}}
* [https://www.uta-net.com/song/15867/ 鉄道員 坂本美雨] - [[歌ネット]]
 
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