「ヨーゼフ・ゲッベルス」の版間の差分
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'''パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス'''([[ドイツ語]] : {{lang|de|Paul Joseph Goebbels}} {{Audio|De-Paul Joseph Goebbels.oga|発音}}、[[1897年]][[10月29日]] - [[1945年]][[5月1日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。
[[ナチス・ドイツ|ナチ党政権下]]では[[国民啓蒙・宣伝省|国民啓蒙・宣伝大臣]]を務め、[[強制的同一化]]を推進した。
[[第一次世界大戦]]後に[[政治活動家|政治活動]]を開始し、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)における[[ナチス左派|左派]]の中心人物の一人となったが、その後は[[アドルフ・ヒトラー]]に接近し、第3代[[国家社会主義ドイツ労働者党#組織|宣伝全国指導者]]を勤めて[[ナチスのプロパガンダ]]を積極的に広め、ナチ党の勢力拡大に貢献した。[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|第二次世界大戦の敗戦]]の直前、{{仮リンク|アドルフ・ヒトラーの遺書|en|Last will and testament of Adolf Hitler|label=ヒトラーの遺書}}によって[[ドイツ国首相]]に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って、家族
なお、「ゲッ'''ペ'''ルス」の表記は誤
== 生涯 ==
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==== 大学時代 ====
[[File:Goebbels 1919.jpg|180px|thumb|大学生時代のゲッベルス(1919年)]]
ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながら[[ボン大学]]に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体[[アルベルトゥス・マグヌス]]協会に[[奨学金]]の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている{{sfn|マンヴェル|フレンケル|1962|p=16}}。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している{{sfn|マンヴェル|フレンケル|1962|p=16-17}}。
ボン大学では歴史と文学を中心に学び、特に[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の劇作を熱心に研究した。当時のドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが通例だったが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏には[[フライブルク大学]]へ移り、授業料を免除されて古代ギリシャやローマの影響を研究する考古学者・古典芸術研究家[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン|ヴィンケルマン]]の研究にあたった。さらに冬には[[ヴュルツブルク大学]]へ移って古代史と近代史を学んだ{{sfn|マンヴェル|フレンケル|1962|p=17}}。
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[[赤軍|ソ連軍]]によるベルリン包囲網が狭まるにつれて政府指導者やナチ党幹部の多くはベルリンから脱出したものの、ゲッベルスはヒトラーの側に残る道を選んだ。2月には兄ハンスに過去の手紙や著作を焼却するよう依頼した一方で、公開することを意識した日記は[[マイクロフィルム]]で撮影し、複数のコピーを作成した{{sfn|平井正|1991|pp=241}}。[[ベルリンの戦い]]のさなか、妻と6人の子と共にヒトラーの[[総統地下壕]]に移り住む。マクダは当初子供達を救いたいと主張していたが、やがてゲッベルスの意見に同意した{{sfn|平井正|1991|pp=244-245}}。地下壕入りしたゲッベルスは宣伝省の仕事に見向きもせず、自らの日記を整理することのみに集中していた{{sfn|平井正|1991|pp=244}}。4月29日、ゲッベルスは党官房長[[マルティン・ボルマン]]とともに、ヒトラーと[[エヴァ・ブラウン]]の[[結婚]]の立会人となり、その後の二人の死を見届ける。4月30日、{{仮リンク|ヒトラーの遺書|en|Last will and testament of Adolf Hitler|label=ヒトラーの政治的遺書}}の指名により[[ドイツ国首相|首相]]に就任した。しかしゲッベルスはヒトラーの政治的遺書を受け、「総統は私にベルリンを去って、新しい政府に首班として参加するよう命じた。私は初めて、総統に従うことを断乎として拒否する」として、「無条件に死に至るまで彼(ヒトラー)の味方になる」ため、「無用な生を、総統の傍らで終える」ことを表明している{{sfn|平井正|1991|pp=247}}。その資格においてソ連軍と条件付降伏交渉を行うが、ソ連軍からは[[無条件降伏]]を求められ、決裂した。
1945年5月1日、[[ゲッベルス家の子どもたち|6人の子供達]]とともに、ゲッベルス夫妻は[[無理心中]]によってゲッベルスの血筋は途絶えた。死の経緯については様々な説が伝えられているが、首相官邸の中庭で死亡したことは確実である。その後二人の遺体はガソリンを用いて焼却されたが、火が消えても黒こげのままで放置された{{sfn|平井正|1991|pp=248}}{{efn2|これは映像としても記録されており、「[[映像の世紀]]」第5回「世界は地獄を見た」でも放送された。なお、このときのナレーションではゲッベルス夫妻の死因について「焼身自殺」としている。}}。それ以降のゲッベルス一家の遺体の行方は長らく分からなかったが、[[冷戦]]終結による[[グラスノスチ]]によって、1970年にヒトラー夫妻の遺体と共に掘り起こされて完全に火葬された上、[[エルベ川]]に散骨されたことが明らかとなった。
== 家庭生活 ==
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=== 映画愛好家 ===
ゲッベルスは1920年代から映画館に通っていた映画愛好家だった。映画批評家としての彼は必ずしも国家社会主義イデオロギーの色眼鏡で映画批評を行わなかった。特にナチ党が政権を掌握する前の頃には党の敵が作った作品でも良い物は良いと評価することが多かった。例えば彼は『[[ニーベルンゲン (1924年の
さらにドイツ映画より、イギリスとフランスの映画を好み、英仏と開戦した後にすらこっそりと自分専用の映写室で英仏の映画を見ていた。一方アメリカ映画への評価は低く、ハリウッド映画は「教育上宜しくない」と結論している{{sfn|リース|1971|p=152}}。ゲッベルスはハリウッドの極端に戯画化する傾向を嫌った。ハリウッドの反ナチ映画『私はナチのスパイだった』を見た時、ゲッベルスは日ごろから自分が高尚な趣味になるよう気を使っている宣伝省や執務室の飾りつけが、映画の中ではナチ党の[[ハーケンクロイツ]]だらけの趣味の悪い建物に戯画化されていたことについてアメリカの通信員に苦言を呈した{{sfn|マンヴェル|フレンケル|1962|p=128}}。
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**その他、『[[ベルリン陥落]]』(ミハイル・チアウレリ監督、1949年、ソ連)、『[[アドルフ・ヒトラー/最後の10日間]]』(エンニオ・デ・コンチーニ監督、1973年、イギリス・イタリア)、『[[美しき虜]]』([[フェルナンド・トルエバ]]監督、1998年、スペイン)、『[[オペレーション・ワルキューレ (テレビ映画)|オペレーション・ワルキューレ]]』(ヨ・バイアー監督、2004年、ドイツ)、『[[ワルキューレ (映画)|ワルキューレ]]』(ブライアン・シンガー監督、2008年、アメリカ)、『[[イングロリアス・バスターズ]]』([[クエンティン・タランティーノ]]監督、2009年、アメリカ)、『[[栄光のランナー/1936ベルリン]]』([[スティーヴン・ホプキンス]]監督、2016年、アメリカ・ドイツ・カナダ)などの作品にゲッベルスの姿が登場する。
*日本語ではしばしば「ゲッ'''ペ'''ルス」と表記されるが<ref>[[SAPIO]]2017年7月号p63 [[小学館]] </ref><ref>上野陽子 [https://news.livedoor.com/article/detail/7637615/ 要点を絞り込み「知性」よりも「感情」に訴えかけよ] プレジデントオンライン</ref>、これは正しくない。現在、少数であるが「ゲベルス」という表記も見受けられる。{{要出典|date=2024年1月|範囲=第二次世界大戦前の日本では「ゴェッベルス」と表記されたこともあった。}}
*ゲッベルスの晩年に秘書・速記者として仕えたブリュンヒルデ(ブルンヒルデ<ref name="シュピッツナーゲル典子">[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f88fd1f212d350846679f861f7c38d5a051dc3f6 ナチス政権宣伝相ゲッペルスの秘書だった106歳独女性死亡 最後の生き証人として伝えたかったこと] - シュピッツナーゲル典子 2017/3/25(土) 17:30 [[Yahoo!ニュース]]</ref>)・ポムゼル([[:de:Brunhilde Pomsel]])(1911年 - 2017年<ref>[https://synodos.jp/opinion/culture/27525/ 「ユダヤ人の私」と辿るオーストリアの歴史/木戸衛一 - SYNODOS]</ref>)は、ドキュメンタリー映画『[[ゲッベルスと私]]』(原題"A German Life")の取材に「(ホロコーストについて)私たちは何も知らなかった」「私はあまりに臆病だったから、ナチスに抵抗することはできなかった」と答えている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3115983 ナチス宣伝相ゲッペルスの秘書、106歳で死去 2017年1月30日 22:41] - [[フランス通信社]]</ref>。ゲッベルスについては「とても近寄りがたい張り詰めた空気を持った方」「礼儀正しく几帳面な上司でしたが、本当は孤独だったに違いありません」「秘書だったことは、恥とは思いません。でも誇りに思っていないことも事実です」 と述べた<ref name="シュピッツナーゲル典子">[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f88fd1f212d350846679f861f7c38d5a051dc3f6 ナチス政権宣伝相ゲッペルスの秘書だった106歳独女性死亡 最後の生き証人として伝えたかったこと] - シュピッツナーゲル典子 2017/3/25(土) 17:30 [[Yahoo!ニュース]]</ref>。
== 栄典 ==
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