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|conflict=[[アメリカ独立戦争]]
|image=[[ファイル:Surrender of General Burgoyne.jpg|300px]]
|caption=[[バーゴイン将軍の降伏|サラトガにおけるバーゴイン将軍の降伏]]<br />[[ジョン・トランブル]]画
|date=[[1777年]]6月14日 - 10月17日
|place=[[ニューヨーク]] 北部地方
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|territory=
|result=英国軍の降伏、フランスの参戦
|combatant1={{flagicon|USA|1777USA1777}} [[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]<br />オイダ族インディアン
|combatant2={{flagiconFlagicon|United Kingdom|1606GBR1606}} [[イギリス軍]]<br />[[ファイル:Coat of arms of Brunswick-Lüneburg Arms.svg|15px]]ブラウンシュヴァイク=リューネブルク<br />[[ファイル:Wappen Hanau.pngsvg|15px]][[ハーナウ|ヘッセン=ハーナウ]]<br />イロコイ連邦(オイダ族を除く)
|commander1=[[ホレイショ・ゲイツ]]<br />[[フィリップ・スカイラー]]<br />[[アーサー・セントクレア]]<br />[[ベネディクト・アーノルド]]<br />[[ベンジャミン・リンカーン]]<br />[[イズラエル・パットナム]]<br />[[ジョージ・クリントン]]<br />[[ジェイムズ・クリントン]]
|commander2=[[ジョン・バーゴイン]]<br />サイモン・フレーザー†<br />ウィリアム・フィリップス<br />リーデゼル男爵<br />バリー・セントリージャー<br />[[ジョセフ・ブラント]]<br />[[ヘンリー・クリントン]]
|strength1=25,000<ref name="AmericanStrength">この数字は方面作戦全体に関わった大陸軍戦闘員の総推計値である。ニッカーソンは方面作戦中の軍隊の意味ある勢力を列挙しているが(pp. 435-451)、パンケイクは徴兵した兵士数のより使える史料を提供している。北部方面軍(スカイラー、後にゲイツが指揮)は約5,500名で出発した(パンケイク、pp. 151-152)。パットナム指揮下のハイランド方面軍は配置に付かせた部隊に基づき約3,000名を持っていた(pp. 153,180)。タイコンデロガ砦陥落とジェーン・マクリアの殺人後の民兵徴集は現実性がある。知られている徴兵数にはスタークとワーナーの2,000(p. 153)、リンカーンの1,500(p. 178)、ハーキマーの800があった。ゲイツは、バーゴイン降伏のときに15,000から18,000の範囲で軍勢を持っていたと報告されており(p. 189)、これにはパットナムの部隊とスタークの部隊の約半分、モホーク川前進基地の部隊、ハーキマーの部隊、さらには戦闘、病気および脱走によるこれ以前の損失を含んでいない。ワシントンの主力軍から派遣されたモーガンの300名以上のライフル隊は含んでいる。クリントン砦とモンゴメリー砦の戦い後に、パットナムの部隊も民兵で膨れ上がったことを考慮すると(あるイギリスの報告では10月16日に6,000名が従っていた、パンケイク、p. 188)、10月半ばに戦場にいたアメリカ兵は恐らく20,000名を優に超していた。</ref>
|strength2=8,500(バーゴイン)<ref name="BritishStrength">Nickerson (1967), p. 437, および他の史料では、バーゴインは7,800名の勢力で出発したとしている(p. 105)。ニッカーソンはこの数字には士官や非戦闘員の補佐要員および従軍者を含んでおらず、彼らにも物資は必要だった。この数字はタイコンデロガ砦奪取後に到着したインディアンの戦士やロイヤリストの数も含んでいない(約700名、Nickerson p. 439)</ref><br />1,600 (セントリージャー)<ref name="StLegerStrength">詳細はスタンウィックス砦包囲戦による。</ref><br />3,000 (クリントン)<ref name="ClintonStrength">詳細はクリントン砦とモンゴメリー砦の戦いによる。この数字にはクリントンがニューヨークから北に派遣した全ての部隊を含んでいるが、その全てが戦闘に参加したのではない。</ref>
|notes=「サラトガ、1777年6月14日-10月17日と刺繍した軍旗の吹流しがこの作戦に参加した大陸軍部隊の部隊旗に付けられている。
|casualties1=
|casualties2=
|notes=
|}}
'''サラトガ方面作戦'''(サラトガほうめんさくせん、{{lang-en-short|Saratoga Campaign}})は、[[アメリカ独立戦争]]中の[[1777年]]に起こった[[ハドソン川]]の支配権を巡る一連の戦いである。[[イギリス軍]]は戦略的に重要なハドソン川流域の軍事的支配権を得ようとした。この方面作戦の主要部隊は[[ジョン・バーゴイン]]将軍指揮下の8,000名であり、[[カナダ]]の[[ケベック州|ケベック]]を出発して[[シャンプレーン湖]]まで遡り、ハドソン川を下って[[サラトガ (ニューヨーク州)|サラトガ]]にまで至った。そこでは9月と10月に頂点となる[[サラトガの戦い]]後にイギリス軍大部隊が降伏を強いられた。
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=== ハウのフィラデルフィア攻撃計画 ===
1776年[[11月30日]]、ハウは本国のジョージ・ジャーメインに1777年の作戦について大望ある計画を説明する手紙を送っている。その中でハウは次のように書いている。「ジャーメインがそこそこの増援を送ってくれるならば、様々な攻撃をしかけられる。ハドソン川を遡って10,000人の部隊で[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]を手に入れる。そこから秋には反逆者の首都であるフィラデルフィアを落とす。<ref name="Nickerson78">Nickerson (1967), p. 78</ref>」 ハウは、この手紙を書いた後にすぐ気持ちを変えた。増援部隊の到着はあったとしてもおそらく遅いだろう。大陸軍が1776年から1777年の冬に掛けて後退したので、フィラデルフィアは脆弱な標的である程度が増している。だから1777年の作戦ではオールバニに軍勢を割くよりも、まずフィラデルフィアを占領したほうが良いと考えた。ハウはこの改定案をジャーメインに送り、ジャーメインは1777年[[2月23日]]に受け取った。<ref name="Black127">Black (1991), p. 127</ref>
 
=== バーゴインのオールバニ攻略作戦 ===
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スカイラーは、タイコンデロガ砦が陥落したという報せをオールバニで受け取り、直ぐに約700名の正規兵と1,400名の民兵が守備隊として駐屯するエドワード砦に馬で向かった<ref name="Nickerson173">Nickerson (1967), p. 173</ref>。スカイラーはバーゴインの行程を出来る限り困難なものにしてやろうと決断し、斧を武器として使った。敵軍の進路に大きな木を切り倒して置くことが、それを取り除くよりも簡単なことであった。そうすればバーゴイン軍の歩みが遅れ、兵士を疲れさせ、兵糧を使わせることになると考えた。[[7月11日]]にバーゴインはジャーメインに宛てて、エドワード砦に向かう道沿いで大陸軍が体系的に樹木を倒し、橋を壊し、流れを堰きとめていると不平を書き送った<ref name="K244">Ketchum (1997), p. 244</ref>。スカイラーは、イギリス軍が地元から食糧を調達できないように[[焦土作戦]]も採用した。バーゴイン軍の動きが止まっていても、その斥候の動きは活発であり、スカイラーの作業部隊の何人かは攻撃を受けた<ref name="K249">Ketchum (1997), p. 249</ref>。
 
スカイラーの戦術によってバーゴインは大砲や部隊を動かすために荒野に道を作って進むしかなかった。この作業にはおよそ2週間を要した。スキーンスボロを[[7月24日]]に出発し、[[7月29日]]にエドワード砦に到着した時は、スカイラーが既に砦を放棄させスティルウォーターに退いた後だった<ref name="Nickerson179_0">Nickerson (1967), pp. 179-180</ref>。バーゴインがスキーンボロを出発する前に、[[五大湖]]地方からセントルーック・ド・ラ・コルヌとシャルル・ミシェル・デ・ラングレイドの指揮で約500名のインディアン(大半はオタワ族だが、フォックス族、ミシソーガ族、チッペワ族、[[オジブワ|オジブウェ]]族もおり、また[[イロコイ連邦|イロコイ族]]の一員もいた)が合流していた<ref name="Nickerson178">Nickerson (1967), p. 178</ref><ref name="Ketchum265_8">Ketchum (1997), pp. 265-268</ref>。
 
=== セントリージャーの遠征隊 ===
{{Main|スタンウィックス砦包囲戦|オリスカニーの戦い}}
セントリージャー中佐の部隊は[[セントローレンス川]]を遡り、[[オンタリオ湖]]を横切り、無事に[[オスウェゴ (ニューヨーク州)|オスウェゴ]]に到着した。彼の部隊は300人の正規軍と650人のカナダ人ロイヤリスト民兵であり、さらにジョン・バトラーとイロコイ族の戦闘指導者[[ジョセフ・ブラント]]、サイェンクラータおよびコーンプランターに率いられた1,000人のインディアンが加わった。[[7月25日]]にオスウェゴを離れ、スタンウィックス砦に向けてモホーク川を下り、[[8月2日]]にはその包囲戦を始めた。約800人のトライオン郡民兵と同盟インディアンが包囲を破ろうとしたが、[[8月6日]]の血腥い[[オリスカニーの戦い]]でイギリス軍とインディアンの待ち伏せに合い蹴散らされた。アメリカ軍は戦場を死守したが、その指揮者であるニコラス・ハーキマー将軍が致命傷を負ったのを始め、蒙った甚だしい損失のために撤退した。イロコイ連邦の戦士はこの戦闘で両軍に分かれて戦い、連邦内の内戦の始まりとなった。オリスカニーの戦いの間に、包囲されていたアメリカ軍がスタンウィックス砦から出撃し、近くのがら空きだったインディアン宿営地を襲撃した。オリスカニーで大きな損失を受けたことと組み合わされて、インディアンの士気には大きな打撃になった<ref name="N195_211">Nickerson (1967), pp. 195-211</ref>。
 
[[ファイル:Burgoyne 1777.jpg|thumb|350px|オールバニに向かうバーゴイン軍の経路、1777年6月-10月]]
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遅延戦術がうまくいっている一方で、大陸会議は違う方向に行っていた。ホレイショ・ゲイツ将軍は、大陸会議がタイコンデロガ陥落の衝撃にうろたえているときにフィラデルフィアにいたが、ゲイツは躊躇する将軍たちに責めを追わせる以上のことをしようとしていた。大陸会議の代議員の中には既にジョージ・ワシントン将軍に我慢できなくなっているものもいた。彼等は大規模な直接対決によって占領軍を排除することを望んでいたが、ワシントンはそれによって戦争そのものに負けるかも知れないと恐れていた。戦争委員会の委員長である[[ジョン・アダムズ]]はゲイツを誉めて「我々が1人の将軍を射止めるまでは1つのポストに就くこともないだろう」と言った。ニューヨークの代議員の反対にも拘わらず、8月10日に大陸会議はゲイツに北部方面軍の指揮を執らせた。さらには[[ペンシルベニア州|ペンシルベニア]]からマサチューセッツまでその民兵隊を招集するよう命令を出してもいた<ref name="K335">Ketchum (1997), p. 335</ref>。[[8月19日]]、ゲイツはオールバニに到着し指揮に就いた。ゲイツのやり方は冷酷で傲岸であり、その最初の作戦会議からスカイラーをあからさまに排除した。スカイラーはその後直ぐにフィラデルフィアに向けて旅立ち、オールバニの地域について良くしっていたのにその情報をゲイツに与えなかった<ref name="K337">Ketchum (1997), p. 337</ref>。
 
8月の間、さらには9月に入っても、民兵の多くの中隊がハドソン川沿いにある大陸軍の宿営地に到着した。それらはワシントンがアーノルド将軍のスタンウィックス砦放作戦の一部としてハドソン高地より北から集めるよう命じた部隊であり、8月末に到着した。また[[ダニエル・モーガン]]が自軍の中から北に派遣したそのライフル隊の中でも狙撃の名手達が到着した<ref name="K338">Ketchum (1997), p. 338</ref><ref name="Scott267_292">Scott (1927), pp. 267, 292</ref>。大陸軍がベニントンやスタンウィックス砦で成功したという報せに、ジェーン・マクリアの死に関する怒りが組み合わされ、支援の呼びかけに集まったものであり、ゲイツの軍隊は6,000名以上の部隊に脹れ上がった<ref name="N288">Nickerson (1967), p. 288</ref>。この数字にはベニントンにあるスタークの小さな軍隊は含まれていなかった。スターク隊は病気や幾つかの中隊が離脱したためにその数を減らしていた。しかしバーゴインの供給線や通信線を攻撃する任務を与えられていた[[ベンジャミン・リンカーン]]将軍が起ち上げた数百の部隊も集まってきた<ref name="N268">Nickerson (1967), p. 268</ref>。
 
== サラトガの戦い ==
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=== ヘンリー・クリントンの陽動行動 ===
{{Main|クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い}}
ハウ将軍はニューヨークを出てフィラデルフィアに向かう時に、ヘンリー・クリントン将軍にニューヨーク守備の任務を与え、もし機会があればバーゴインを支援するよう指示していた。クリントンは9月12日にバーゴインに宛てて伝言を送り、「貴方が2,000名の兵士で効果的に支援できると考える」ならば、「約10日の内にモンゴメリー砦に圧力を掛ける」つもりだと伝えていた<ref name="N320">Nickerson (1967), p. 320</ref>。バーゴインはこの手紙を受け取ったとき、即座にクリントン隊が支援のためにオールバニに到着できるという可能性に基づいて、前進すべきか後退すべきかクリントンの指示を求める返書を出した<ref name="N344">Nickerson (1967), p. 344</ref>。バーゴインは10月12日までに返事を受け取らなければ、撤退を強いられることになると示唆していた<ref name="N345">Nickerson (1967), p. 345</ref>。
 
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1777年[[12月4日]]、[[ヴェルサイユ]]の[[ベンジャミン・フランクリン]]の元に、フィラデルフィアが陥落したことと、バーゴインが降伏したという報せが届いた。2日後、フランス国王ルイ16世は同盟の交渉に承認を与えた<ref name="N411">Nickerson (1967), p. 411</ref>。同盟条約は[[1788年]][[2月6日]]に調印され、フランスは1ヶ月後にイギリスに対する宣戦布告を行い、7月の[[ウェサン島の海戦]]で戦争が始まった<ref name="N412">Nickerson (1967), p. 412</ref>。[[スペイン]]は直ぐには参戦しなかったが、[[1779年]]になって、秘密のアランヘス条約に従ってフランスの同盟国として参戦した<ref name="N413">Nickerson (1967), p. 413</ref>。フランスの参戦に続くヴェルジェンヌ伯の外交努力によって後に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の参戦が実現し、[[ロシア帝国|ロシア]]のような他の重要な地政学的担い手が[[武装中立同盟|中立宣言]]を発することにも影響した。
 
バーゴイン降伏の報せがロンドンに届いたときに、ノース卿のイギリス政府は厳しい批判に曝された。ジャーメイン卿については、「大臣は戦争を遂行できない」とまで言われ、[[ホレス・ウォルポール]]は「我々はアメリカでの戦争を終える時に近付いている」と語った(後に間違いと分かった)<ref name="K442">Ketchum (1997), p. 442</ref>。ノース卿は独立の条項を含まない和平条件を議会に提出した。これはカーライル和平委員会によって大陸会議に届けられたが、拒絶された<ref>{{cite book| url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=dhCWEA_aUsMC&pg=PA72&lpg=PA72&dq=Carlisle+Commission&source=bl&ots=QE2U1BX0F3&sig=TX4eTKs4O0qV8jYIIO4abKc19K4&hl=en&ei=IOnrSYrNNcXJtgeAn43PBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnumredir_esc=5y#PPA72,M1| title=Documents of the emerging nation | author=Mary A. Giunta, J. Dane Hartgrove| page=72| publisher=Rowman & Littlefield| date=1998| isbn=9780842026642 }}</ref>。
 
== 記念 ==
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* {{cite book|title=1777: The Year of the Hangman|first=John S|last=Pancake|publisher=University of Alabama Press|location=Tuscaloosa, Alabama|year=1977|ref=Pancake|isbn=9780817351120|oclc=2680804}}
* {{cite book|title=Fort Stanwix and Oriskany: The Romantic Story of the Repulse of St.Legers British Invasion of 1777|first=John Albert|last=Scott|location=Rome, NY|publisher=Rome Sentinel Company|year=1927|ref=Scott|oclc=563963}}
* {{cite book|title=The St. Clair Papers: The Life and Public Services of Arthur St. Clair|first=William Henry|last=Smith|year=1882|ref=Smith|publisher=Robert Clark|location=Cincinnati|oclc=817707|url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=sIUvN0eyjsIC&redir_esc=y&hl=ja}}
* {{cite book|title=Battles of Saratoga, 1777: the Saratoga Monument Association, 1856-1891|first=Ellen Hardin|last=Walworth|ref=Walworth|publisher=J. Munsell's Sons|location=Albany|year=1891|oclc=2183838|url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=nq2dQYOEP-sC&redir_esc=y&hl=ja}}
* {{cite web|url=http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=2004|publisher=Dictionary of Canadian Biography Online|year=2000|first=Pierre|last=Tousignant|ref=Tousignant|coauthors=Dionne-Tousignant, Madeleine|title=Biography of La Corne St. Loc|accessdate=09-12-15}}
* {{cite book|last=Bird|first=Harrison|title=March to Saratoga: General Burgoyne and the American Campaign, 1777|location=New York|publisher=Oxford University Press|year=1963|oclc=299497}}
* {{cite book|title=Orderly book of Lieut. Gen. John Burgoyne: from his entry into the state of New York until his surrender at Saratoga, 16th Oct. 1777 ; from the original manuscript deposited at Washington's head quarters, Newburgh, N. Y.|first=John|last=Burgoyne|coauthors=O'Callaghan, Edmund Bailey|publisher=J. Munsell|year=1860|url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=zU52AAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja|oclc=2130372|location=Albany, NY}}
* {{cite book|last=Chidsey|first=Donald Barr|title=The War in the North: An Informal History of the American Revolution in and near Canada|location=New York|publisher=Crown|year=1967|oclc=394996}}
* {{cite book|last=Elting|first=John R|title=The Battles of Saratoga|publisher=Phillip Freneau Press|year=1977|isbn=0-912480-13-0}}
223行目:
* {{cite book|last=Mintz|first=Max M|title=The Generals of Saratoga: John Burgoyne & Horatio Gates|location=New Haven|publisher=Yale University Press|year=1990|isbn=0-300-04778-9}} ISBN 0-300-05261-8 (1992 paperback)
* {{cite book|last=Murray|first=Stuart|title=The Honor of Command: General Burgoyne's Saratoga Campaign|publisher=Images from the Past|year=1998|isbn=1-884592-03-1}}
* {{cite book|last=Stone|first=William Leete|url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=IfsSAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja|title=Ballads and poems relating to the Burgoyne campaign|location=Albany|publisher=J. Munsell's Sons|year=1893|oclc=1392761}}
* {{cite book|last=Taylor|first=Alan|authorlink=||title=The Divided Ground: Indians, Settlers, and the Northern Borderland of the American Revolution|publisher=Knopf|year=2006|isbn=0-679-45471-3}}
* {{cite book|last=Watt|first=Gavin|title=Rebellion in the Mohawk Valley: The St. Leger Expedition of 1777|publisher=Dundurn|year=2002|isbn=1-55002-376-4}}
237行目:
* [http://nysparks.state.ny.us/sites/info.asp?siteID=36 Fort Montgomery State Historic Site]
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さらとかほうめんさくせん}}
[[Category:アメリカ独立戦争の戦闘]]
[[Category:ニューヨーク州の軍事史]]
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)]]
[[Category:1777年の戦闘]]
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[[Category:1777年のアメリカ合衆国]]
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[[Category:ジョセフ・ブラント]]
 
[[Category:ジョン・トランブルの作品]]
[[ar:حملة ساراتوجا]]
[[da:Saratogafelttoget]]
[[de:Saratoga-Feldzug]]
[[en:Saratoga campaign]]
[[es:Campaña de Saratoga]]
[[fr:Campagne de Saratoga]]
[[no:Saratogafelttoget]]