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{{暴力的}}
{{Otheruses||映画|切腹 (映画)}}[[Image:Hara-kiri_by_Crepon_1867.png|right|thumb|300px|[[1867年]]に[[フランス]]で出版された、[[江戸時代]]末期の切腹の様子を描いたイラスト。中央の[[裃]]を着用した人が切腹人<ref>[https://www.maisondelagravure.com/gravures-japon/1867-harakiri-d-un-noble-japonais.html 1867 - Harakiri d'un noble japonais]L. Crépon著 1867年出版</ref> <ref>[http://www.gutenberg.org/files/13051/13051-h/13051-h.htm#page24 CHAPTER VI.The 'HARA KIRU.']J. M. W. Silver著『日本の礼儀と習慣のスケッチ』、1867年出版</ref>。]]
{{Otheruses||映画|切腹 (映画)}}
[[Image:Hara-kiri_by_Crepon_1867.png|right|thumb|300px|[[1867年]]に[[フランス]]で出版された、[[江戸時代]]末期の切腹の様子を描いたイラスト。中央の[[裃]]を着用した人が切腹人<ref>[https://www.maisondelagravure.com/gravures-japon/1867-harakiri-d-un-noble-japonais.html 1867 - Harakiri d'un noble japonais]L. Crépon著 1867年出版</ref> <ref>[http://www.gutenberg.org/files/13051/13051-h/13051-h.htm#page24 CHAPTER VI.The 'HARA KIRU.']J. M. W. Silver著『日本の礼儀と習慣のスケッチ』、1867年出版</ref>。]]
'''切腹'''(せっぷく、Seppuku)は、[[刃物]]などで自らの[[腹|腹部]]を切り裂いて死ぬ[[自殺]]の一方法。'''腹切り'''(はらきり)・'''割腹'''(かっぷく)・'''屠腹'''(とふく)・'''伐腹'''(ばっぷく)・'''斬腹'''(ざんぷく)ともいう。[[日本]]では、主に[[武士]]などが行った独特の習俗。
 
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=== 鎌倉・南北朝時代 ===
{{節スタブ}}
『[[太平記]]』によればおいて、[[鎌倉時代]]末期、[[護良親王]]の家臣[[村上義日|村上義光]]が主君の身代わりとなって切腹した後、自身の内臓を引きちぎって敵に投げつけ、太刀を口に咥えてうつ伏せに倒れて絶命するした、という壮絶な逸話が残されている。
 
 
=== 室町・戦国時代 ===
{{出典の明記|date=2016年8月|section=1}}
[[室町時代]]の[[明徳]]3年([[1392年]])に[[管領]][[細川頼之]]に[[殉死]]した三島外記入道(『[[明徳記]]』)以来、平時に病死した主君に対して殉死を行う風習が始まった。
 
{{要出典範囲|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から徐々に切腹の概念が変わってきた。[[豊臣秀吉]]が[[高松城_(備中国)|備中高松城]]を攻め、講和条件として城主・[[清水宗治]]の命を要求した際に、宗治は潔く切腹して果てた。その時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まった|date=2014年5月}}。その秀吉は、[[豊臣秀次]]<ref group="注釈">形としては切腹だが、晒し首にされている</ref>、[[千利休]]らに対し、刑罰として切腹を命じている。また、[[関ヶ原の戦い]]、[[大坂の陣]]での敗軍武将への死刑執行は全て[[斬首刑]]であるが、[[古田重然|古田織部]]・[[細川興秋]]など豊臣方与力と見なされた者は切腹させられている。
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切腹は即ち庶民に科せられた[[死罪]](斬首刑)に相当し、当然武士に科せられた刑罰としても最も重いものであった。しかし、武士と言えど必ず切腹を命じられるわけではなく、不名誉な罪科とみなされた場合には死罪が適用された。例として[[島原藩]]主[[松倉勝家]]は、[[島原の乱]]の責任を問われ、諸大名への戒めとして死罪に処せられた。ただし、年代を経るごとに切腹は形式的なものとなり、実質的には斬首刑とも言えるものであった(後述)。
 
初期には[[松平忠吉]]や[[結城秀康]]に殉死した家臣の評判が高まり、殉死が流行した。この流行は[[1663年]]([[寛文]]3年)5月に「天下殉死御禁断の旨」<ref group="注釈">江戸城大広間で[[林鵞]]が「[[武家諸法度]]」を読み上げたのち老中[[酒井忠清|酒井雅樂頭忠清]]によって宣言された。</ref>により殉死が厳禁されるまで続いた。当初は同法は有名無実化されたが、寛文8年、[[奥平昌能]]が先代逝去時に家中での殉死があったという理由で2万石を削られる処断を受け実効を持つことになった。[[1684年]]([[貞享]]元年)に成立したとされる明良洪範では殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」、殉死する同輩と並ぶために行う「論腹」、子孫の加増や栄達を求めて行う「商腹」(あきないばら)の三つに分類している。しかし、殉死者の家族が栄達したり加増を受けたケースは皆無であり、商腹は歴史的事実ではないとされる<ref>{{Cite book|和書|author=山本博文|title=殉死の構造|publisher=弘文堂|year=1994}}</ref>。
 
[[天保]]11年([[1840年]])に[[上州沼田藩]]士の工藤行広が『自刃録』を著す。徳川瓦解の30年前で、武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアルであった。[[1943年]]に[[森銑三]]が「切腹の書自刃録」<ref>{{Cite book|和書|title=森銑三著作集|volume=第11巻|publisher=[[中央公論社]]|year=1971}}</ref>というエッセイでこれを紹介している。
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江戸時代に刑罰として命じられたものを指す場合は「切腹」という言葉が一般的に用いられていることが特徴的といえる{{sfn|語彙と概念}}。
 
また、江戸時代を通じて、切腹した者は追腹(主君の死に続き、主君の家来が後を追って切腹すること。)などの自主的な切腹も含めて、確認されただけで417人いる<ref name="切腹 日本人の責任の取り方">{{Cite|author=山本 博文|authorlink=山本博文|title=切腹 日本人の責任の取り方|publisher=[[光文社]]|date=2003-05-20|pages=34,236-239|isbn=9784334786441}}</ref>。その内、江戸の[[伝馬町牢屋敷]]で切腹を行ったのは、[[元禄]]16年~[[慶応]]3年の約160年の間で20人であり、半数が[[安政の大獄]]及び[[桜田門外の変]]によるものである<ref>{{Cite|author=八切 止夫|authorlink=八切止夫|title=切腹論考|publisher=[[作品社]]|series=八切意外史|volume=11|date=2003-03-01|pages=18-19|isbn=9784878935480}}</ref>。因みに、江戸時代最初に切腹されたのは、[[1604年]]に口論による仕返しに斬殺した[[植正勝]]である<ref name="切腹 日本人の責任の取り方" />。
 
[[幕末]]期には、[[土佐勤王党]]の盟主であった[[武市瑞山]](武市半平太)が、切腹を命じられた際、3回三文字渡り腹をかっさば切り裂いた後、両脇から2名の介錯人に心臓を突かせて絶命したという記録がある。
 
責任を取る以外にも切腹は様々な用途で行われ、復讐に用いる「指し腹(さしばら)」は、恨みを抱いた者が切腹に使用した刀を、遺族が復讐の相手に届け、相手はその刀を使用して切腹しなければならない習俗であった。また、主君に対して不満の意思表示をする切腹は「無念腹」と呼ばれ、傷口から臓物を意図的に溢れ出す手法が用いられた<ref>清水克行『室町は今日もハードボイルド―中世日本のアナーキーな世界―』(新潮社、2021年6月)P165、166</ref>。
 
=== 近現代 ===
[[明治]]に代わって数年は切腹が刑罰として引き継がれていき、[[1870年]](明治3年)に[[庚午事変]]の首謀者数名が[[徳島県]][[徳島市]][[住吉 (徳島市)|住吉]]の[[蓮花寺 (徳島市)|蓮花寺]](1丁目)にて切腹させられている。そして、死刑執行方法としての切腹廃止の前年に当たる[[1872年]](明治5年)においては、[[鞠山騒動]]により[[敦賀県]]の裁判で自裁が下され[[4月3日]]に4人が自裁し<ref>{{Cite journal|author=福井県敦賀郡|authorlink=敦賀郡|title=敦賀郡誌 第五編 人物|pages=1126-1127|date=1915|language=日本語|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950917/597|doi=10.11501/950917|accessdate=2021-04-22}}</ref>、[[京都市]][[伏見区]]淀納所にある[[水茶屋]]で口論となり、一旦収まったものの、相手が[[挨拶]]せずに立ち去ったため激高し[[松原貞芳]]([[京都府]][[士族]])を斬殺し自首した[[服部盛能]](京都府士族)が、[[8101327日]]に自裁(切腹)を申渡され、同年中に執行された(本来であれば[[斬首刑|斬罪]]であるが、加害者が士族であり[[自首]]したため、自裁となった。)<ref>{{Cite report|author=京都府|authorlink=京都府|date=|title=京都府史料 一三 政治部 刑賞類2(明治元‐7年)(164-168コマ)|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M2007041211444951486&IS_LGC_S16=AND&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005022412244001427%2BF2005031812272303110%2BF2007041211443951473&IS_ORG_ID=M2007041211444951486&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc|format=JPEG,PDF|accessdate=2021-07-17}}</ref><ref name="明治前期の監獄">{{Cite journal|和書|author=児玉圭司 |title=明治前期の監獄における規律の導入と展開 |journal=法制史研究 |issn=0441-2508 |publisher=法制史学会 |year=2015 |volume=64 |pages=1-57,en3 |naid=130008000861 |doi=10.5955/jalha.64.1 |url=https://doi.org/10.5955/jalha.64.1 |accessdate=2021-08-20}}</ref><ref name="M6 seihunenpyo" >{{Cite web|和書|publisher=[[正院]][[統計局|第五科]]|title=明治六年政表>司法処刑ノ部>明治六年司法省及ヒ各府県処刑人員(コマ番号12)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937948/12|date=1876|accessdate=2021-07-17}}</ref>。'''[[11月4日]]には[[本多氏|加賀本多家]]旧臣の敵討ち(最後の仇討ち<!--明治の忠臣蔵--><!--「明治忠臣蔵」は平成の1995年に作家の[[中村彰彦]]が書いた小説のタイトルであり、明治当時の史料に(巷間で言う者があったにせよ)載っている用語ではない。-->と言われている)により[[石川県]]刑獄寮の裁判で自裁の判決が下され旧臣12人が自裁しており、日本法制史上最後の切腹刑となった'''<ref name="本多政均">{{Cite web|和書|author=石川県立図書館|authorlink=石川県立図書館|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184677|title=「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。|date=2015-12-01|website=レファレンス協同データベース|publisher=国立国会図書館|accessdate=2021-04-21}}</ref><ref name="弁護士の誕生">{{Cite journal|和書|author=谷正之 |title=弁護士の誕生とその背景(3) : 明治時代前期の刑事法制と刑事裁判 |journal=松山大学論集 |issn=09163298 |publisher=松山大学総合研究所 |year=2009 |month=apr |volume=21 |issue=1 |pages=279-361 |naid=110007579200 |url=http://id.nii.ac.jp/1249/00001460/ |accessdate=2021-08-20}}</ref>。
 
死刑執行方法としての切腹は、[[1873年]]([[明治]]6年)年[[6月13日]]に制定された[[改定律例]]により、切腹を含めた閏刑(生刑に代えて課せられる寛大な刑であり、[[士族]]は[[新律綱領]]発布時点で軽い順に、[[謹慎]]・[[閉門]]・禁錮・辺戍[辺境の守備]・自裁だった。)が[[禁錮刑]]に統一する形で廃止された<ref name="弁護士の誕生" />。以後[[日本における死刑]]では、旧刑法が施行するまで一般刑法犯に対する死刑執行方法が[[獄門|梟首]]・[[斬首]]・絞首刑(梟首は[[1879年]]〈明治12年〉に廃止)の3つが並存する形となったが、[[1882年]](明治15年)に[[旧刑法]]が施行された後は[[絞首刑]]が用いられている。(但し、[[旧刑法]]施行後の[[1886年]]〈明治19年〉12月に[[日本における死刑囚の一覧_(-1969)#1880年代|「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助]]の公開斬首刑が[[青森県]][[弘前市]]の[[青森刑務所|青森監獄]]前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平[[巡査]]が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯([[東奥義塾高等学校|東奥義塾]]教師)がそれぞれの任を果したと言わている。しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法〈当時の旧刑法では、非公開の絞首刑のみ。〉の死刑執行かつ[[公開処刑|公開斬首刑]]であると言わざる得なくなる<ref>{{Cite|author=手塚 豊|authorlink=手塚豊|title=刑罰と国家権力 国家的刑罰権と非国家的刑罰権――明治前期の場合に関する一未定稿|publisher=[[法制史学会]]|date=1960-04|pages=182-185|doi=10.11501/2527269|ncid=BN0366777X|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2527269}}</ref>。)
 
しかしながら、切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人等の間に見られ、切腹を名誉ある自決とする思想は残った。<!--[[明治維新]]によって武士がいなくなっても、[[戦陣訓]]の本訓其ノ二 第八「名ヲ惜シム」にある「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思ヒ、愈々奮励シテ其ノ期待ニ答フベシ。生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコト勿レ」などの思想が、捕虜よりも切腹など自害を選ぶように決められた。-->
 
[[日本軍|旧日本軍]]においては、一部の将校の自決で行われ、[[明治天皇]]に殉じた[[乃木希典]]陸軍大将、[[牛島満]]大将、[[長勇]]中将、[[大西瀧治郎]]海軍中将、[[鈴木貫太郎]]内閣の陸軍大臣であった[[阿南惟幾]]陸軍大将などがある。現代の事象としては、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月25日]]に、東京都内の[[ワシントンハイツ_(在日米軍施設)#代々木練兵場|旧代々木練兵場(現代々木公園)]]で、「[[大東塾]]十四士」が古式に則り集団割腹自殺をした事件や、[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]に、作家としても知られる[[三島由紀夫]]が[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]内で演説を行ったのち、割腹自殺した事件([[三島事件]])や最近では[[2019年]]([[令和元年]])5月に[[靖国神社]]近くの路上で保守系団体幹部の男性が割腹自殺した例<ref>https://www.sankei.com/article/20190511-JOCGO6FPEBKNREPXEBKCZAU4QU/</ref>などがある。
<!--[[File:Masahiko Kimura (1917-1993).jpg|thumb|200px|right|木村政彦は常に切腹の練習をして試合に臨んだ]]
ノンフィクション作品『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』では、柔道家[[木村政彦]]が武道家として戦前は負ければ切腹するつもりでいたが、戦後、[[力道山]]の裏切りで恥をかかされ、しかし切腹をしなかったことを通して、切腹の意味を武道・武士道という概念から切り取り、問いかけている。(この項目に関しては、『切腹』の項目に記述する必要性を感じません。-->
 
== 外国への認知 ==
[[1669年]]に[[アムステルダム]]で刊行された『[[アルノルドゥス・モンタヌス|モンタヌス]]日本誌』では、挿絵<ref>{{Cite web|和書|title=国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1879653/1/106 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-08-16}}</ref>入りで切腹の風習が紹介され、同書はドイツ語、英語、フランス語版が出版され、広く読まれることとなった。
 
日本が開国され、様々な情報が欧米に流れる中でもっともエキセントリックな文化として紹介され、日本の最も著名な文化・風習として知られている。
欧米では自殺がタブーであることと死を恐れない武士という部分で海外の注目を受けたことが一因である<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/49dfa9a52107858c803beeaefece56688beb610e |title=死をも恐れぬ武士の精神は憧れか?尊敬か?お土産にもなった「ハラキリ写真」 |publisher = |accessdate=2023-07-07}}</ref>
 
2017年にイギリス人男性が割腹自殺を遂げた事例があり、国内外に衝撃を与えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20171217_454334/?p=2 |title=日本刀専門家のイギリス人男性、実家の寝室で切腹 |publisher = |accessdate=2023-07-07}}</ref>。
 
== 作法 ==
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[[File:Oishi Yoshio Gishi Seppuku No Zu Painting.png|thumb|260px|大石内蔵助義雄切腹之図]]
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]や江戸時代初期においては[[介錯|介錯人]]がつかず、腹を十文字に割いたり<ref group="注釈">軍記物の記述として、『[[北条五代記]]』(『北条盛衰記』本巻二)の[[三浦義同]]があり、『[[土佐物語]]』巻三にも、「腹十文字にかき切りければ」と記述がある。</ref>、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたと言われ、軍記物にもそのような描写が散見する。状況によっては、ただちに[[循環血液量減少性ショック|失血性ショック]]や[[腹膜刺激症状]]を起こし、失神ないし運動失調を来すため、実行は困難を極めるが、成功した例も報告されている<ref>{{Cite book|和書|author=A.B.ミットフォード|translator=長岡祥三|title=英国外交官の見た幕末維新|series=講談社学術文庫|year=1998|pages=153-154}}(原書は1915年刊)</ref>。
 
近世に入り、士分の刑罰としての切腹が確立すると、切腹にも作法が登場する。切腹する人を切腹人(せっぷくにん)という。切腹人に付き添いその首を切り落としたり、[[検視]]役に首を見せるなど、切腹の補助を行う者を介錯人(かいしゃくにん)という。腹部を切り裂いただけでは死亡までに時間がかかり、死ぬ者に非常な苦痛を強いるため、通常は介錯人が切腹直後に[[介錯]]を実行する。<!-- よって、名誉ある死に臨むに際し、-->江戸時代には、切腹は複雑で洗練された儀式となり、介錯がつく切腹の作法が確立した。切腹の作法が制定された時期については諸説あるも、18世紀の初め([[享保]]年間の前後)という説が有力である。
 
切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちからへその下まで切り下げる「十文字腹」がよいとされた。もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することも多かったとされる。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす[[介錯]]の作法が確立した。介錯は通常、正副の2人、あるいは3人で務めた。それぞれ3人の場合、首を打つ「介錯(大介錯とも)」、[[短刀]]をのせた四方(4つ穴のある[[三方 (神道)|三方]])を持ち出す「添介錯(助介錯とも)」、首を実検に入れる「小介錯」の三役である。介錯人については、首を一振りで斬り落とすのは剣術に長けた者でないと勤まらず、下手な者の介錯では何度も切腹人を斬りつけ、余計な苦痛を与える事態になりかねない。介錯人は預かり人の家中の者が務める建前になっていたため、介錯の失敗は武術不心得として家の恥と見なされた。そこで、家中に腕の立つ者がいない場合は、他家に依頼して人を呼んでくることもあった。
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江戸時代中期以降の切腹は形式的なものとなり、四方に短刀の代わりに[[扇子]]を置き、それで腹を切る仕草をした、もしくは手をかけた瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。赤穂事件の処罰で<!--関与して--><!--関与どころか当事者である-->切腹を命じられた[[赤穂浪士]]も、比較的身分が高かった[[大石良雄]]ら数人以外は扇子や<!--木刀--><!--義士預かりの[[毛利綱元]]は幕閣御目付から「其れでは打ち首と大差なし」と注意され脇差に替えさせられた。-->白布で包み刃先のみ出した脇差を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた[[奥田重盛]]のような者もいたという逸話も残っている。(ただし、これは義士対応役の[[熊本藩|細川]]家臣・堀内伝右衛門(重勝)が無神経な成り上がり者だったので、赤穂義士が馬鹿にしてからかったのだという解釈もある。)
 
[[三田村鳶魚]]は「大石の切腹は非常に見苦しかった」と記す<ref>三田村鳶魚「元禄快挙別録』「赤穂義士遺聞」「横から見た赤穂義士」</ref>。熊本藩の記録では「ずっと大石は震えていた」(寒がりだったからという説も有り)「切腹に時間がかかった」などと書かれている<ref>『赤木義臣対話』(安永7年写し)</ref>。[[大濱徹也]]は「赤穂浪士切腹図」は皆苦痛で顔をゆがめており、「士道を体現し見事などといえるものではない」と述べている<ref>大濱徹也『「続・「忠臣蔵」という物語 その誕生と展開について』(2008年1月)</ref>。実際、大石良雄の介錯は複数回行なわれ<ref>「江赤見聞記」巻六</ref>、安場家(介錯した久幸の後嗣)に伝わる当事の介錯刀には刃こぼれがあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ako-minpo.jp/news/14213.html|title=内蔵助介錯の刀も「元禄赤穂事件」展|website=赤穂民報|date=2019-12-13|accessdate=2022-12-16}}</ref>、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた[[安場保雅]]は「大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である」と語っている。
 
[[幕末]]になると、一部で本来の切腹が復活したことも記録されている。赤穂義士を尊敬し同じデザインの衣装に因む<ref group="注釈">本当は白の山形模様のついた火事装束は『[[仮名手本忠臣蔵]]』などの創作によるもので、史実では「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」であとは思い思いの服装だった。</ref>[[新選組]]は、[[尊王攘夷|勤皇]]の[[志士]]を多く斬殺したが、内部の隊員に対しては「武士道に悖る」などの理由で多数を切腹させた。[[野口健司]]、[[山南敬助]]<ref>永倉新八『激白新撰組 七たび斬られた男の実録』毎日ワンズ 2017年 137-138頁</ref>、[[河合耆三郎]]らが切腹している。
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== 手順 ==
{{出典の明記|date=2022年4月|section=1}}
{{Wikisource|凶禮式|凶礼式}}
[[Image:Seppuku.jpg|thumb|200px|left|切腹の様子([[明治時代]]の芝居より)]]
[[Image:Ako_Gishisai_De09_07.jpg|thumb|200px|浅野内匠頭の切腹。2009年[[赤穂義士祭]]にて撮影された[[赤穂事件]]の[[コスプレ]]で、浅葱ではなく白い裃を使用している。]]
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前述した通りではあるが、新渡戸稲造は、1900年に刊行した著書''Bushido: The Soul of Japan''(『[[武士道 (新渡戸稲造)|武士道]]』)のなかで、切腹について、腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の[[解剖学]]的信仰に由来する、と考察している。
 
{{要出典範囲|date=2022年4月|戦での首切りの習慣や周辺諸民族の風習と併せて考えると、切腹は台湾以南の南方諸民族(マレーシア、インドネシア周辺の民族)の共有していた生命観に行き着くとされる。すなわち、命は腹や頭に宿っており、勇敢な戦士の魂を自分のものとするために斬頭したり、自己の魂を見せつけるために切腹したりするのだと考えられるのである}}。
 
== 影響 ==
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[[大相撲]]の[[行司]]の最高位である[[立行司]]は、短刀を差しており、これは軍配を差し違えてしまった場合には切腹するという覚悟を示したものとする説があるが、現代はもとより歴史上でも行司が実際に切腹した例はない。実際に差し違えた場合には[[日本相撲協会]]に進退伺いを出すことが慣例となっているが、これも実際に受理されて退職した例はない。
 
== 比喩的表現 ==
現在では、強制的に辞職させられることを指す比喩的表現としても用いられる<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/4617/meaning/m0u/ 切腹(せっぷく)の類語・言い換え - 類語辞書 - goo辞書]</ref>。
 
== 日本以外 ==