「後冷泉天皇」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2023年2月}}
{{基礎情報 天皇
| 名 = 後冷泉天皇
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| 母親= [[藤原嬉子]]
}}
'''後冷泉天皇'''(ごれいぜいてんのう、[[1025年]][[8月28日]]〈[[万寿]]2年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]〉- [[1068年]][[5月22日]]〈[[治暦]]4年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]〉)は、[[日本]]の第70代
[[後朱雀天皇]]の第
== 略歴 ==
* 万寿2年(1025年)8月3日、誕生。2日後に生母の東宮妃嬉子
* [[長元]]9年([[1036年]])2月22日、[[親王宣下]]。
* [[長暦]]元年(1037年)
** 7月2日、元服、三品に叙される。
** 8月17日、[[皇太子]]となる。後朱雀天皇即位から経った時間は丸一年(その間に敦康親王王女嫄子女王が敦康の継母上東門院の承認のもと、先代から続く関白藤原頼通の養女として立后)。
* [[寛徳]]2年(1045年)1月16日、
** 4月8日、[[即位]]。
* 治暦4年(1068年)4月19日、
治世下では、[[荘園 (日本)|荘園]]の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が[[藤原頼通]]ら権門であった。天皇は即位早々の[[寛徳]]2年、及び[[天喜]]3年([[1055年]])に[[荘園整理令]]に着手するが、結果的には[[権門]]擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もあり、性質上はさきの延喜、のちの延久、何れの荘園整理令と比べてもさして変わらないとみなす)。
[[藤原頼通]]の娘[[藤原寛子 (藤原頼通女)|寛子]]を[[皇后]]とした。頼通は一人娘の寛子に皇子誕生の望みをかけたが、ついに皇子は生まれなかった。天皇の死後、[[藤原氏]]を直接の[[外戚]]としない([[後朱雀天皇]]と[[禎子内親王]]の息子)ため頼通から冷遇を受けていた皇太子尊仁が即位した([[後三条天皇]])▼
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ただ[[康平]]2年([[1059年]])に皇子は誕生したものの母親が内裏女房で菅原氏の僧の娘だった影響か養子に出され、後冷泉天皇の乳母子で後に[[白河天皇]]の近臣となる[[高階為家]]<ref group="注釈">為家の母は歌人の[[大弐三位]]。後冷泉天皇の乳母。</ref>の養子となって[[高階為行]]と名乗り一生を終えている。
== 系譜 ==
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== 后妃・皇子女 ==
* [[
* [[皇后]]:[[藤原寛子 (藤原頼通女)|藤原寛子]](1036年 - 1127年) - [[関白]][[藤原頼通]]長女
* 皇后:[[藤原歓子]](1021年 - 1102年) - 関白[[藤原教通]]三女
** 皇子(1049年
* 安楽寺別当の増守<ref group="注釈">『公卿補任』では増秀。</ref>の娘 - [[菅原氏]]。
** [[高階為行]](1059年 - 1107年
後冷泉天皇は'''三后並立'''の唯一の例である。後の[[鳥羽天皇]]や[[二条天皇]]、[[後堀河天皇]]にも中宮・皇后となった后妃が3人いたが、同時期に3人の后が並立したのは後冷泉天皇が唯一である。
== 在位中の元号 ==
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