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{{Infobox Buddhist
[[File:TakuanSoho.jpg|thumb|沢庵宗彭]]
|名前= {{big|{{ruby-ja|沢庵|たくあん}}}} {{big|{{ruby-ja|宗彭|そうほう}}}} <br><small>{{kyujitai|'''澤庵 宗彭'''}}</small>
'''沢庵 宗彭'''(たくあん そうほう、'''澤庵 宗彭'''、[[天正]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1573年]][[12月24日]]) - [[正保]]2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]([[1646年]][[1月27日]])は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[臨済宗]]の[[僧]]。[[大徳寺]]住持。諡は普光[[国師]](300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。
|生没年=[[天正]]元年([[1573年]]) - [[正保]]2年([[1646年]]]
|幼名=
|名=
|法名=沢庵
|号=東海・暮翁
|法号=
|院号=
|諱=春翁・秀喜・宗彭
|諡号=普光国師([[1944年]]宣下)
|尊称=
|生地=[[但馬国]][[出石]](現[[兵庫県]][[豊岡市]])
|没地=[[江戸]]
|画像=[[ファイル:TakuanSoho.jpg|250px]]
|説明文=沢庵宗彭
|宗旨=[[臨済宗]]
|宗派=
|寺院=[[大徳寺]]、[[芳徳寺]]、[[東海寺 (品川区)|萬松山東海寺]]
|師=希先西堂・薫甫宗忠・文西洞仁・一凍紹滴
|弟子=
|著作=『[[不動智神妙録]]』、『[[太阿記]]』、『[[沢庵和尚鎌倉巡礼記|鎌倉巡礼記]]』ほか
|廟=円覚山宗鏡寺、萬松山東海寺
}}
'''沢庵 宗彭'''(たくあん そうほう、{{旧字体|'''澤庵 宗彭'''}}、[[天正]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1573年]][[12月24日]]) - [[正保]]2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]([[1646年]][[1月27日]])は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[臨済宗]]の[[僧]]。[[大徳寺]]住持。諡は普光[[国師]](300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。
 
[[但馬国]][[出石]](現[[兵庫県]][[豊岡市]])の生まれ。[[紫衣事件]]で[[出羽国]]に[[流罪]]となり、その後赦されて[[江戸]]に[[東海寺 (品川区)|萬松山東海寺]]を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯([[茶道]])にも親しみ、また多くの[[禅林墨跡|墨跡]]を残している。一般的に[[沢庵漬け]]の考案者と言われているが、これについては諸説ある(同項目を参照のこと)。
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[[寛永]]4年([[1627年]])、幕府は、[[後水尾天皇]]が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、[[京都所司代]]に紫衣の取り上げを命じた。これに反発した沢庵は京に上り、[[玉室宗珀]]、[[江月宗玩]]と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の[[単伝士印]]、[[東源慧等]]らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出した。
 
この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年([[1629年]])、江戸へ召喚されることとなった。江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を[[出羽国]][[上山市|上山]]に、また玉室を[[陸奥国]]赤館([[棚倉藩|棚倉]])、単伝は陸奥出羽国由利([[本荘藩|本荘]])、東源は陸奥国津軽([[弘前藩|弘前]])へ各々[[流罪]]とした。時に沢庵57歳のことである。
 
配流先である[[上山藩]]主の[[土岐頼行]]は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。沢庵はその草庵を[[春雨庵]]と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという<ref group="注釈">後の[[正保]]元年([[1644年]])、土岐頼行は東海寺に上山の春雨庵を模した[[春雨寺|塔中]]を沢庵のために建立している。</ref>。
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== 人物 ==
* 当時の代表的[[禅]]として知られる。また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けている。しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないと述べている。国師号辞退の際は[[一糸文守]]が賞賛の詩を書いている。
* 名利を求めぬ反面、宗門の為に権門に交わることも厭わなかった。大徳寺・妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍し、また乞われれば政治的助言も与えている。この態度を以って、沢庵は大名好きだという批判を受けることもあったが、寛永18年(1641年)に寺法旧復が成った際に、批判したことを恥じる者が多かったという{{refnest|group=注釈|「両寺の衆侶、積年の愁眉一時にひらけ、喜ぶことかぎりなし。和尚富貴に親して栄幸あるを謗るもの有りしかど、ここに至って前言を恥じるもの少なからずとか」<ref name="bansho">『万松祖録』</ref>}}。
* 柳生宗矩の求めに応じ、剣禅一味(剣禅一如)の境地を説いた。この境地を記した『[[不動智神妙録]]』は、禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、武術から武道への流れを開く端緒のひとつになった{{refnest|今村嘉雄『大和柳生一族』<ref group="注釈">なお、『[[不動智神妙録]]』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。</ref>}}。なお、宗矩とは若い頃から交流があり{{refnest|寛永13年2月25日 小河九右衛門宛書簡<ref group="注釈">「上方よりの知音にて候。紫野(大徳寺)の昔から参徒にて、内縁ふかき人」</ref>}}、時には諫言し、時には頼るなど、その親交は深いものがあった。また宗矩の息子である[[柳生三厳]](十兵衛)からも慕われ、こちらにも様々に教授したという。
* 詩歌を好み、[[細川幽斎]]や[[烏丸光広]]と交わり、自らの歌の添削などを依頼している。
* 自身の禅を自分一代で断絶させている。嗣法を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っている。また、自らの事蹟を残さないようにも命じているが、後に門人・[[武野宗瓦|武野宗朝]]が『東海和尚紀年録』を記している。
 
== 逸話 ==
=== 史実での逸話 ===
* 隠棲時、豊臣家{{refnest|group=注釈|[[慶長]]16年([[1611年]])の[[豊臣秀頼]]からの招きを断っている<ref name="tokai">『東海和尚紀年録』</ref>。}}や様々な大名家([[細川忠興]]{{refnest|group=注釈|慶長16年、細川忠興から自らが立てた寺の住職になることを依頼されたが、これを拒否している<ref name="tokai"/>。}}、[[浅野幸長]]{{refnest|group=注釈|慶長17年、浅野幸長が面会しに来た時は裏口から逃げて対面しなかったという<ref name="tokai"/>。}}、[[黒田長政]]{{refnest|group=注釈|[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])に黒田長政から父[[黒田孝高|黒田如水]]の供養のために博多に移した崇福寺の開眼供養に招かれた時も拒否している<ref name="tokai"/>。}}など)から招かれたが、これらの招きを全て拒否した<ref name="tokai"/>{{refnest|group=注釈|これを以って、佐和山城での縁により、沢庵が[[石田三成]]に好意を持っており、三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶したからではないかとする説もある<ref>白川亨「石田三成とその一族」、三池純正「敗者から見た関ヶ原合戦」</ref>。}}。その他、[[高松宮好仁親王]]が弟子入りのために自ら投淵軒を訪れた際も決して会おうとしなかったという<ref name="tokai"/>。
* 大悟後、かつての師である春屋と問答をした際、その受け答えが当意即妙だったため、「伶牙利舌(れいがりぜつ)の漢」と称賛された。またこれを聞いた師の一凍は「真の跨竈児(こそうじ)」と賞賛したという(沢庵大和尚行状)。
* [[細川忠興]]に茶に招かれた際、かけられていた大燈国師([[宗峰妙超]])の[[禅林墨跡|墨蹟]]を一目で贋作だと見破った。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の[[松岳紹長]]が破門されている<ref name="tokai"/>。
* 元和6年(1620年)頃、[[鬱病]]になったことがあるという(東海百首末尾)。
* 紫衣事件の時、幕府に提出した抗弁書は自分一人が書いたものであり、処罰は自分一人にして欲しいと述べた。この態度に感銘を受けた天海は、沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張している(細川家記)。
* 柳生三厳(十兵衛)が最初に書いた伝書を父・宗矩に「焼き捨てよ」と命じられた際、十兵衛にその真意を教え諭し、伝書に一筆加えて宗矩へ取り成したことで、十兵衛は[[柳生新陰流]]の印可を得ることができたという(「昔、飛衛といふ者あり」(柳生十兵衛伝書))
* 寛永19年(1642年)、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったため、引き下げた教えに食い違いが生じそれ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したという<ref name="bansho"/>。
* 家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けたという(沢庵和尚書簡集)。
* 家光が東海寺を訪れた際、「海近うして東海寺と言えどはいかに」(が「いのに「とお」かいじとはどういうことか)と問われた時、即座に「なを[[日本国大君と言えど将軍|大君]]にしてしやうぐんと称し奉るがごとし」(あなたも「大」君なのに「しょう」ぐんと称しておられるのと同じ)と返したという([[徳川実紀]]』<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|991117/571|国史大系. 第10巻}}</ref>
 
=== 真偽が明らかではない逸話 ===
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[[ダイコン]]の[[漬物]]であるいわゆる[[沢庵漬け]]は一伝に沢庵が考えたといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを<!-- 東海寺住持として -->沢庵が江戸に広めたともいう。
 
後者の説によれば、[[徳川家光]]が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンの[[沢庵漬け|たくわえ漬]]を供したところ、家光が気に入り、「たくわえタクワエにあらずニアラス沢庵漬なりナリ」と命名したと伝えられるが伝承の域を出ない。
 
== 宮本武蔵との関係 ==
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=== 伝記・訳 ===
*『沢庵 不動智神妙録・太阿記・玲瓏集』 [[市川白弦]]、[[講談社]]〈禅入門8〉、1994年
**初版(上記は抄録)『沢庵 日本の禅語録. 第13巻』 同、1978年
**選書版(抄録)『禅の古典. 7 沢庵』 同、1982年
**文庫版『不動智神妙録 太阿記 玲瓏集』[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2023年
 
== 文学作品 ==
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==関連項目==
{{Wikisource author|wslanguage=ja|wslink=沢庵宗彭|title=沢庵宗彭}}
{{Wikiquote|沢庵宗彭}}
*[[宗鏡寺]] - 墓所