「松平頼重」の版間の差分
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{{表記揺れ案内|表記1=松平 頼重|表記2=松平 賴重}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松平 頼重
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| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 松平頼重像([[法然寺]]蔵)
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[元和 (日本)|元和]]8年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]([[1622年]][[8月7日]])
| 死没 = [[元禄]]8年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]([[1695年]][[5月24日]])
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| 氏族 = [[水戸徳川家]]→[[高松松平家]]
| 父母 = 父:[[徳川頼房]]、母:[[久昌院|谷久子]](高瀬局)
| 兄弟 = '''頼重'''、通子、亀丸、万、棄、[[清泰院 (前田光高正室)|清泰院]]、[[徳川光圀]]、菊、[[英勝寺#水戸徳川家からの歴代住持|小良]]、[[松平頼元|頼元]]、[[松平頼隆|頼隆]]、[[松平頼利|頼利]]、[[松平頼雄 (宍戸藩主)|頼雄]]、[[松平頼泰 (水戸藩)|頼泰]]、[[松平頼以|頼以]]、利津、[[松平房時|房時]]、布里、[[
| 妻 = 正室:'''万姫'''<br/>側室:
| 子 = [[徳川綱方]]、糸姫、[[徳川綱條]]、勝姫、[[松平頼
| 特記事項 =
}}
'''松平 頼重'''(まつだいら よりしげ)は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]の初代藩主。[[高松松平家]]の祖。[[水戸藩]]2代藩主[[徳川光圀]]([[水戸黄門]])の同母兄。3代藩主[[徳川綱條]]の実父。▼
▲'''松平 頼重'''(まつだいら よりしげ、{{旧字体|'''松󠄁平󠄁 賴重'''}})は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[讃岐国
== 生涯 ==
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])7月1日、水戸藩主[[徳川頼房]]の
寛永16年([[1639年]])、[[常陸国]][[下館藩|下館]]5万石を与えられた。同19年([[1642年]])、讃岐国高松12万石に加増転封となる。高松就封にあたり、幕府より、西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。
将軍名代として[[後水尾天皇|後水尾上皇]]に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、嫡男に相応しい待遇を得ている。後に正室所生の二子([[徳川綱方]]・[[徳川綱條]])が光圀の養子となり、水戸藩の家督は次男綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の子[[松平頼常]]を養子に迎え、[[延宝]]元年([[1673年]])に家督を譲って隠居した。[[元禄]]8年([[1695年]])4月12日に没した。▼
▲将軍名代として[[後水尾天皇|後水尾上皇]]に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、嫡男に相応しい待遇を得ている。後に正室所生の二子([[徳川綱方]]・[[徳川綱條]])が光圀の養子となり、水戸藩の家督は次男綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の子・[[松平頼常]]を養子に迎え、[[延宝]]元年([[1673年]])に家督を譲って隠居した。[[元禄]]8年([[1695年]])4月12日
== 年表 ==
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== 逸話 ==
* 家光とは共に風呂に入る程に親密な関係であり、そのため高松藩は幕府の顧問として代々幕府内でも最高の
* [[玉川上水]]より9年早い時期の[[寛永]]21年([[1644年]])、[[矢延平六]]に命じて、現代まで水不足で知られる高松城下に、配水枡・配水管を地中埋設した、日本で初めてといわれる本格的な[[上水道]]を敷設している。水源は亀井戸などで、跡地に今も[[亀井戸水神社|水神社]]が残る。
* [[武者小路千家]]の祖、一翁宗守を藩の茶道指南役に据えるなど、文化面でも大きく寄与した。神仏への崇敬厚く、藩内の寺社を再興・修復し、寄進も行った。頼重は和歌も嗜んだことから、その折に[[三十六歌仙]]扁額を[[金刀比羅宮]]([[狩野探幽]]・[[狩野尚信|尚信]]・[[狩野安信|安信]]兄弟筆)、[[白峯寺]](同じく狩野三兄弟筆)、[[白鳥神社 (東かがわ市)|白鳥神社]](狩野安信筆)、[[石清尾八幡宮]](狩野安信筆、昭和61年([[1986年]])の火災で焼失)、[[善通寺]]、[[法然寺]]に奉納している<ref>田中敏雄 「讃岐の三十六歌仙扁額について─松平頼重奉納を中心に」『日本美術工芸』第615号、日本美術工芸社、1989年12月、pp.7-19。後に『近世日本絵画の研究』 作品社、2013年3月、pp.269-279に再録、ISBN 978-4-86182-412-8</ref>。▼
* 高松藩士が記した『盛衰記』によれば、「英公節公御代迄は諸大名衆江戸屋敷にて公儀の死罪之者を壱人宛御申請生袈裟被成候其時代之風儀に御座候」とあり、英公(頼重)と節公(2代藩主[[松平頼常]])の時代までは、諸大名が公儀の死罪人を一人ずつ申し受け、江戸の藩邸で生袈裟(生きたまま斬り殺す)にしていた。これは当時の慣わしだった。頼重も頼常も幕府から貰い受けた罪人を生きたまま試し斬りにしたが、3代藩主[[松平頼豊]]以降は幕府がそのような慣習を廃止したため、高松藩に限らずどの藩でも行われなくなったという<ref>{{Cite book|和書|author=氏家幹人|title=江戸時代の罪と罰|publisher=草思社|year=2015|page=91-94}}</ref>。▼
▲*[[武者小路千家]]の祖、一翁宗守を藩の茶道指南役に据えるなど、文化面でも大きく寄与した。神仏への崇敬厚く、藩内の寺社を再興・修復し、寄進も行った。頼重は和歌も嗜んだことから、その折に[[三十六歌仙]]扁額を[[金刀比羅宮]]([[狩野探幽]]・[[狩野尚信|尚信]]・[[狩野安信|安信]]兄弟筆)、[[白峯寺]](同じく狩野三兄弟筆)、[[白鳥神社 (東かがわ市)|白鳥神社]](狩野安信筆)、[[石清尾八幡宮]](狩野安信筆、昭和61年([[1986年]])の火災で焼失)、[[善通寺]]、[[法然寺]]に奉納している<ref>田中敏雄 「讃岐の三十六歌仙扁額について─松平頼重奉納を中心に」『日本美術工芸』第615号、日本美術工芸社、1989年12月、pp.7-19。後に『近世日本絵画の研究』 作品社、2013年3月、pp.269-279に再録、ISBN 978-4-86182-412-8</ref>。
* 延宝元年(1673年)に[[致仕]]した際、時の将軍[[徳川家綱]]に、[[参勤交代]]の簡素化を上申した{{Sfn|工藤|2009|p=314}}。▼
▲*高松藩士が記した『盛衰記』によれば、「英公節公御代迄は諸大名衆江戸屋敷にて公儀の死罪之者を壱人宛御申請生袈裟被成候其時代之風儀に御座候」とあり、英公(頼重)と節公(2代藩主[[松平頼常]])の時代までは、諸大名が公儀の死罪人を一人ずつ申し受け、江戸の藩邸で生袈裟(生きたまま斬り殺す)にしていた。これは当時の慣わしだった。頼重も頼常も幕府から貰い受けた罪人を生きたまま試し斬りにしたが、3代藩主[[松平頼豊]]以降は幕府がそのような慣習を廃止したため、高松藩に限らずどの藩でも行われなくなったという<ref>{{Cite book|和書|author=氏家幹人|title=江戸時代の罪と罰|publisher=草思社|year=2015|page=91-94}}</ref>。
▲*延宝元年(1673年)に[[致仕]]した際、時の将軍[[徳川家綱]]に、[[参勤交代]]の簡素化を上申した{{Sfn|工藤|2009|p=314}}。
== 系譜 ==
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**長女:糸姫 - 青涼院、[[有馬頼利]]正室
**次男:[[徳川綱條]](1656年 - 1718年) - 徳川光圀養子
*側室:
**次女:勝姫
**三男:[[松平頼考|頼考]]{{Efn2|初名は頼兼。正室は[[清閑寺熙房]]の娘俊了院(将軍[[徳川綱吉]]の側室[[寿光院|大典侍]]の姉妹)。子に男子(生母は俊了院)。}}
*側室:松野
**四男:[[松平頼侯|頼章]](1661年 - 1687年) - 松平図書家
**六男:竹松
*側室:関野(
**五男:[[松平頼直|頼直]]{{Efn2|正室は愛宕通福の娘養法院([[霊元天皇]]の掌侍[[愛宕福子|源内侍局]]の姉妹)。子に頼長(生母は養法院)、養子に[[松平頼治|頼治]]([[松平頼豊]]の三男)。}}
**五女:万姫 - [[興正寺]]20世円超良尊養女、21世由常寂岷室
**六女:市姫
*側室:式部
**三女:長姫 - [[鷹司兼熙
*側室:宮内(
**四女:彦姫 - 松平頼常養女、[[大久保公卓]]正室
*側室:左京(
**七男:[[松平頼芳|頼芳]](1667年 - 1706年) - [[松平大膳家]]
*養子
**男子:[[松平頼常|頼常]](1652年 - 1704年) - 徳川光圀長男
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist}}▼
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
▲{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
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* 高松藩祖松平頼重伝
* 溝渕利博 「[http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no58_59/58-59_2_001-077_mizobuchi.pdf 藩政成立期における藩主の「鵜鷹逍遥」的行為の政治文化史的意義-初代高松藩主松平頼重の藩政における「遊猟」「舟遊」等の位置づけ-](PDF)」『研究紀要』58・59号合併号、[[高松大学]]・[[高松短期大学]]共同刊行、2013年2月、pp.1-77
* {{Citation|和書|author=鈴木暎一|editor=[[日本歴史学会]]|title=徳川
* {{Citation|和書|title=徳川・松平一族の事典|publisher=東京堂出版|last=工藤|first=寛正編|date=2009/08/11|isbn=9784490107647}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nhk.or.jp/takamatsu/report/burari/20220516/ ぶらり発見 偉人の足跡「松平頼重」] - [[NHK]]
* [http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kurashi/shisetsu/park/tamamo/joshu.html 高松城(玉藻公園)|歴代城主] - 高松市
* {{Kotobank}}
{{水戸徳川家|[[水戸徳川家]]連枝[[高松松平家]]|初代:1642年 - 1673年}}
{{下館藩主|松平家||1639年 - 1642年}}
{{高松藩主|松平家|初代|1642年 - 1673年}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まつたいら よりしけ}}
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