2016.09.02
# 国家・民族

ある在日3世の独白「私はなぜ、遠藤姓を名乗るのか」

関東大震災。こんな日本人がいた

「いつか話さなければならないと思っていた」

京都市伏見区に住む遠藤道雄さん(68)。本名は朴龍基。在日朝鮮人3世だが、ふだんは通名の「遠藤」を名乗って生活している。在日コリアンの歴史を少しでも知る読者なら、遠藤という通名が他にはない珍しい名であることに気づくはずだ。
 
なぜ「遠藤」なのか。遠藤さんがその名の由来を知ったのは高校生の時、親戚が集まる法事の席だった。何とはなしに「なんでうちの通名は遠藤なのか?」という話題になったという。

すると叔父(遠藤さんの父親の弟)が、やおら神妙な面持ちになった。

「いつかお前たちにも話さなければならないと思っていた。今から話す内容は、お前たちの子どもの代にも伝えてくれ。その次の代にも伝わるように……」

叔父は、その約40年前に関東地方で大地震が起きたこと、地震後の混乱のなか、自分たちの父親、朴栄業がいかにして生きのびたのか、とつとつと話しはじめた――。

1923年9月1日の午前11時58分、関東一帯に激震が走った。関東大震災だ。約190万人が被災し、10万5000人あまりが死亡もしくは行方不明となる。

そして、今に語り継がれる局面が出現した。

「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった流言飛語がとびかい、それをうけ、各地で治安維持という大義の下、自警団が結成されはじめたのだ。道行く朝鮮人を捕まえては暴行し、虐殺した。

【PHOTO】gettyimages

朝鮮人コミュニティでも「同胞が殺されている」という情報が行き交う。戦慄が走った朝鮮人のなかに、朴栄業がいた。日本の植民地下にあった朝鮮では仕事が得られず、生きる糧を求めて日本に渡って来ていたのだ。

朴栄業は、災禍のなか弟とともに命からがら逃げまどったという。どこまで逃げたのか、どこに行き着いたのか、それすら記憶にないほど無我夢中になって走った。記憶にあるのは、あたりが農村風景だったということだけだ。

精も根も尽き果て、弟とふたりで草の茂みに隠れていた時だった。一人の男が近づいてきた。ふたりを見つけ、言った。

「お前ら、朝鮮人か」

「その名前では危ない」

栄業は「もうダメだ、殺される」と観念したという。ところがその男は危害を加えるどころか、食べ物を与えてくれ、地震後の混乱が鎮まるまでのあいだ家の中にいるよう言ってくれた。その男が「遠藤さん」だった。

数ヵ月が経過し、まちの殺気だった空気がゆるみはじめる。兄弟が辞去しようとすると、遠藤さんはこう言った。

「その名前では危ない。もし誰かに名前を聞かれたら、遠藤と答えればいい」

朴栄業はその後、「遠藤」として生きのびた。しばらくたった後、ふたりは命の恩人である「遠藤さん」の家をずいぶんと探し回ったそうだ。しかし見つからなかった。錯乱状態の中でたどりついた農村の正確な位置だけに、まったく思い出せなかったのだ。

それでも恩義を忘れたくはなかったのだろう、日本社会で生きてゆくために在日朝鮮人が用いる通名として、朴栄業は「遠藤」と名乗ることを決める――。

法事の席で叔父が披瀝した話を、高校生だった遠藤道雄さんは食い入るように聞いた。あるいはそれは「そんな人もおったんや」と自分を言いなだめるためだったかもしれない。

「いつか殺してやる」

遠藤道雄さんは1948年、京都の遊郭街「島原」のどまんなかにある小さな木造家屋で生を受けた。今は観光地として栄える京都駅周辺の道から一本裏通りに入ったところにある島原の入り口には、かつての遊郭街の面影をのこす門が現在も残っている。

京都の在日コミュニティといえば、2005年にヒットした映画『パッチギ』を思い浮かべる人もいるかもしれない。地元の朝鮮高校に通うリ・アンソン(高岡蒼佑)や妹のリ・キョンジャ(沢尻エリカ)、アンソンの親友モトキ・バンホー(波岡一喜)、アンソンの弟分チェドキ (尾上寛之)らが日本の高校生らとの激しいケンカや、国籍を超えた恋愛、深い友情を織りなす青春映画だった。

映画では、アンソンたちが在日コミュニティのなかで貧しくも暖かみのある、相互扶助の精神が息づく世界で育っていることが読み取れる。時に結束し、団結し、みんなでパッチギ(乗り越える)することができている。

しかし、遠藤さんの境遇はちょっと違った。

「周りに朝鮮人がたくさんおれば助け合えたかもしれん。結束して立ち向かうこともできたかもしれん。でもここに朝鮮人はほとんどおらんかった。だから小学校ではさんざんいじめられた。“チョーセンチョーセン”とよってたかって言われ、担任の先生までわけもなく“チョーセン! お前は立っとけ!”と言うてくる始末やった。ほんま悔しかった。あれは忘れられん」

在日コリアンが一つの場所に集まり、集落を形成するケースが多かったのは、ひとえに生き抜くためだったと言える。

遠藤さんを人間不審に陥らせたのは学校だけではなかった。

「オヤジはまったく稼ぐことをせずケンカ、バクチ、女に明け暮れる極道モンやった。島原の暴れん坊と言われとってな、しょっちゅうヤクザとケンカしては血だらけになって帰ってきよった。

いつも近所の遊郭にいりびたっていて、呼びに行くのがおれの役目。店の外に出て来た綺麗なお姉さんに『お母さんが呼んでいます。父はいますか?』と告げると、格子の奥から『やかましい!』と怒鳴り声がかえってきた」

家の中でも“暴れん坊”だったのか?

「そうや。酷いものやった。おれの母親、自分の妻を、血だらけになるまで殴り続けるんや。おれが止めようとすると、七輪の上で沸々とわいてる熱湯を、やかんごと投げてきよった……。この男はいつか殺す、いつか殺してやると、何度思ったかわからん」

遠藤さんが見てきた世界は、「パッチギ」というより、在日の作家・梁石日が書いた小説『血と骨』のそれだろう。舞台は1930年代、朝鮮半島から日本にわたった主人公・金俊平は、極端に自己中心的で、妻子をよく殴り、次々に新しい女をつくり、その女をもよく殴った。

なにごとも暴力にものを言わせる凶暴さからヤクザにも畏れられた。梁石日が実父をモデルにした人物だが、筆者は遠藤さん父親の話を聞きながら、金俊平を思わずにはいられなかった。

遠藤さんは言う。

「在日の世界にああいう光景は珍しくなかった。自分たちの恥部だと、どこかで自覚してるから人前では、とくに日本人の前では、ようは言わんけどな」

社会の裏側で生きざるをえなかった人々の、偽らざる実相かもしれない。

「遠藤」という名を誇りに思っとる

遠藤さんは、「遠藤という名を誇りに思っとる」という。

「こういう日本人がおったんや、ということを知らしめてやりたい」

混乱状態の中で朝鮮人を虐殺した日本人もいれば、助けてくれた日本人もいる。恩人のお陰でつながった命を、「ケンカ、バクチ、女」遊びに費やした極道モンもいる。

「人間は多面的な存在や。だから面白い。そういう多面性が見えていれば、ヘイトスピーチなんか恥ずかしくてできんはずや」

筆者には「遠藤という名前を大事にする、こんな在日朝鮮人もおるんやで」ということを知らしめたい、そう言っているように聞こえた。

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