「日本vs.諸外国」の「全面戦争」の危機が訪れていた…幕末の日本で起きた「外国人惨殺事件」のその後

殺人行為の結果…

日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。

世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。

日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『一外交官の見た明治維新』(講談社学術文庫)という本です。

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著者は、イギリスの外交官であるアーネスト・メイスン・サトウ。1843年にイギリスに生まれたサトウは、1862年、幕末の日本を訪れ、在日イギリス公使館の通訳官や、駐日公使を務めました。

本書は、サトウが日本に滞在した期間に見聞きしたことをまとめたもの。そこからは、当時の日本が世界のなかでどのような立ち位置にあったのか、イギリスという「文明国」から日本がどう見えていたのか、そのころの国際情勢、そして当時の日本社会のあり方がよく伝わってきます。

たとえば、1862年9月、イギリス人商人が薩摩藩士によって殺傷される「生麦事件」が起こります。当然、外国人コミュニティは大きく混乱しましたが、これが日本と諸外国の全面的な戦争につながることはありませんでした。

サトウは、事件後の外国人コミュニティの緊迫した様子を、以下のようにレポートしています。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。

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島津三郎(編集部注:島津久光のこと。生麦事件は彼の家臣が起こした)がその夜、横浜から二マイル弱のところにある保土ヶ谷という宿場町に滞在していることは知られていた。居留地の外国人たちは、港にあるすべての軍艦が有する海兵の力を結集して、彼を取り囲み捕らえることは容易だと考え、またそうすべきだと考えた。

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