神武天皇の墓所は三ヵ所あった!? 幕末の混乱期、荒れ果てた「暴汚」「霊威」の地に決定した「ある事情」。

初代天皇とされる神武天皇の墓所、「神武天皇陵」は、現在の奈良県橿原市にある。大和三山のひとつ、畝傍山の北麓にある「畝傍山東北陵」だ。しかし、神武天皇陵はもとからこの地だったわけではないという。おもな候補地だけで三ヵ所があったが、奇妙な経緯で、現在の地に落ち着いたのだ。『神武天皇の歴史学』(外池昇著、講談社選書メチエ)からその成り行きを見ていこう。

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幕府公認の「塚山」か、霊威の地「神武田」か

「初代天皇の墓所」ともなれば、太古の昔から丁重に祀られ、人々の尊崇を集めてきた場所と思うだろう。しかし、実は現在の「神武天皇陵」は、幕末期に定められた場所なのである。

そもそも神武天皇陵は、江戸時代になるまでその所在も定かではなかった。江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)に幕府が行った天皇陵の修築事業「元禄の修陵」では、現在の神武陵から300mほど北に離れた「塚山」が「神武天皇陵」と定められていた。

しかし、その時からすでに異論がくすぶっていたのである。

塚山とは別に、「神武田」という地も神武天皇陵と目されていた。京都の医師で国学者の松下見林が著した『前王廟陵記』(元禄11年刊)には、こんなことが書かれている。

〈神武天皇陵は百年ほど前から壊されて「糞田」となり、「民」はその田を「神武田」と呼ぶ。「暴汚」(ひどく汚されていること)の仕業であり、「痛哭」(激しく泣くこと)するべきである。数畝の他は高く盛られているが、「農夫」はこれに登っても平然としている。これを見るとぞっとする。〉(『神武天皇の歴史学』p.33)

「糞田」とはおそらく、排泄物を肥料に用いている田のことだが、それにしてもひどいありさまだったようだ。この「神武田」こそが、のちに新たに整備され、現在の神武天皇陵となるのである。

「神武田」という地名は、検地帳に載っているような公的なものではなく、民間でそう呼ばれていたらしい。その読み方も、「じぶの田」「じんむた」「シンム田」「ジムタ」など一定しない。別名では「ミサンサイ」とも呼ばれていた。

また、ここでは人々を恐れさせる出来事もあった。幕末の安政年間に記録された村役人の聞き取りによると、この地は「霊威の地」と恐れられて農作する者もなく、荒れ地となっていた。松や桜を焚き木にしようと伐採した村人が「家中死に果て」、芝地の草を刈り取って牛馬に与えても食べようとせず、田地にして耕作した近隣の村人3人が死んだ、という。

こうした「霊威の地」だからこそ、「神武天皇陵にふさわしい」と考えられたのかもしれない。

塚山は現在、綏靖天皇陵となっている

しかし、この神武田でも、幕府が定めた塚山でもなく、もう一つの「神武天皇陵」を唱えた大物学者がいた。

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