細川元勝 単語

ホソカワモトカツ

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細川元勝 / 細川頼範15811628)とは、戦国時代の武将である。

概要

細川昭元 / 細川信良息子で、細川の当大坂の陣豊臣秀頼方におり、戦後子孫は三に仕えた。

生没年について

『続群書類従』の「細川系図」で享年48とあることから、生年は多分正9年(1581年)としか言えず、永4年(1561年)生まれはWikipedia勝手に言ってるだけ

さらに言えば、後世彼の子孫である細川も、『系図 細川上屋形姓系』、『譜 細川姓系』の2通りのごちゃごちゃになった記憶をまとめており、前者では細川昭元が死んだときに2歳で慶長18年(1613年)に48歳で(その場合1591年生まれですさまじく矛盾している)、後者では「細川系図」と同様、とある。そもそも前者は大坂の陣にいたと矛盾してしまうため、48歳の享年把握しつつも、実は記録がちゃんと残っていなかった疑惑がある。

細川元勝の生涯

細川昭元織田信長の間に生まれた。諱は「細川系図」が元勝と記すが、勝手に変な諱をつける軍記でおなじみの『難波戦記』では頼範となっている。幼名は六郎。なお、『柳原記録卿符案』にある、慶長11年(1606年)従五位下従に叙任された細川がおそらく彼であるので、細川元勝も細川頼範も実際に名乗ってたかは怪しい。さらに時期は不明だが、従四位下讃岐守に叙任しているらしい。

細川昭元はそもそも豊臣秀吉に仕えたことは一度もなく、細川元勝も経緯は不明だが、はじめは徳川家康に仕えていた。ところが、「細川系図」によると命豊臣秀頼に仕えたということらしいのだが、事実かは不明。

以後、大阪七手組の青木一重組に所属し、『慶長日件録』等には豊臣秀頼の使者として上する姿も見られる。慶長16年(1611年)の上に際しては、二条に彼も付き従い、片桐且元から徳川家康に披露された筆頭臣として記録に残るのだが、若干前述の経緯と齬がなくはない。

『慶長十六年禁裏御普請帳』等にも豊臣秀頼臣として名前を残す存在であり、30005000石のそこそこ大身の臣だった細川元勝。とはいえ、大坂冬の陣で小姓頭として2000人ほどの手勢を率いていたこと、大坂夏の陣真木嶋昭光長岡掛永元・江原石見守・本郷左近・早川・福富三郎等と5月7日に備えを立てていたことくらいしかわからない。

結局落後に京都安寺霊院に退去し、本多利長を頼って高取に移住。そのまま寛永5年(1628年)10月7日に亡くなった。妻は楢原飛騨守のとされ、本多利長はこの閨閥に属する。一方円光院が秋田実季の妻で、秋田俊季を生んでいたから、長男細川義元の系は秋田氏の臣となっていった。他の子供に、二男の細川元、三男の細川、四男の良堪らがいる。

その後の細川京兆家

その後の細川であるが、名門との自他の認識はあり、秋田氏から何度も離反しつつも、当初はあくまでも名門という血脈に依拠しており、細川氏というアイデンティティーは失っていた模様である。

細川義元は、『譜 細川姓系』によると5歳で慶長19年(1614年)の大坂時(何かおかしいママ5歳と脱出し、大隅兵衛らの陪臣と11歳の時に秋田実季に招かれる。かくして、14歳の時に津田民部を名乗った彼が江戸から宍戸に移ったとある。この辺は、三の『世臣譜』にも記載があるため、おおよそ合ってはいるのだろう。その後、正保2年(1645年)に三への転封で三春の桜に移り、この後細川内蔵助を名乗った。そして、寛文9年(1669年)に59歳で亡くなった。

また、細川は、当初は高取の本多政武の護下にあったが、の死と本多の断絶に伴い、加賀中川助を訪ね、続いて柏原織田信勝臣・佐治一成を訪ねた。なお、中川助も佐治一成の息子・佐治為成で、中川秀休に養子入りした存在のため、この閨閥である。その後、織田信勝嗣断絶に伴い三に仕えて細川権太夫を名乗ったが、息子細川元貞とともに浪人になり、断絶したらしい。

ともあれ、細川義元には、秋田知時のとの間に生まれた細川宣元、細川元明の2人の息子がいた。細川宣元は細川民部と名乗るが、延宝7年(1679年)に暇乞いをして江戸に下り、前述の織田信勝が建てた霊院の後身である寺に葬られた。ところが結局本間十郎のと設けた細川忠元が享保10年ごろ(1725年)に三に戻り、荒木とともに大老や代を務める御両となった。また、細川元明はがいなくなったあとの延宝8年(1680年)に津田権左衛門名乗り、一時的に本家を継ぎ、を守る一門となったが、結局息子細川頼忠の代に名字細川に戻った。

い話、細川宣元はおそらく秋田季と何らかの個人的な対立をし、半世紀近くを抜けていたのだが、結局元に戻り、本家細川と本来の本家の屋敷に住む細川の二が、幕末まで存続していったのである。

ここまでさらっとスルーしてきたのは、細川氏がたびたび織田氏と交流を持っていることと、織田氏の分筋である名字津田を名乗っていることである。さらに言えば、秋田氏は佐治氏や小出氏などとも閨閥を形成したが、この辺も初代にいだ円光院やもともと佐治氏にいでいた浅井三姉妹の江などのもあると考えられる。

この辺は、当初は織田と縁が深かったことやビッグネームとして織田にある程度あやかっていたと思われるのだが、秋田頼季以降疎遠となっていき、細川氏も津田を名乗らなくなるため、次第に忘れられていったのだろう。なお、細川には江戸高家畠山などとの交流が見受けられるが、特に高家にならなかったのは、いろいろ理由があるのだろう。

関連項目

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掲示板

  • 1 ななしのよっしん

    2024/09/30(月) 02:16:35 ID: nDC3xGgsnT

    Wikipediaよりも詳しい記述で勉強になります。
    秋田氏に迎えられたのは元勝ではなく、子供の義元からってのはWikipediaにも反映してもいい気がするわ。

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