地下官人とは、公家のうち昇殿が許されていない下級官人である。
地下家ともいう。
律令体制が成立して、二官八省一台五衛府と称される官職体系が形成されると、現在の官僚機構とは比べるまでもないが、それでも相当数の役人が雇用されることとなった。しかし10世紀から11世紀以降、特定の氏族が特定の官職・官庁を世襲で務め、運営していく、官司請負体制が成立すると、その様相は変化していく。やがて中世後期になると、律令体制で形成された様々な官職・官庁の多くは廃絶してしまうか、とある家門が世襲で担っていくか、という風になっていったのである。これこそが公家のうち下級の地下官人であった。
中世についてはまだあまりよくわかってはいないが、近世の地下官人は、外記方・官方・蔵人方・その他(検非違使、楽人、滝口、随身、北面など多種多様)の大きく4つに分かれ、階層的にも催官人・並官人・下官人の3つに分かれる。この他にもさらに、摂家・宮家などの諸大夫や侍、門跡寺院の侍なども地下官人と呼ばれる。
地下官人については毎年正月に提出された『地下次第』のうち、元文2年(1737年)のものが残っている最古の記録である。この『地下次第』を見ていくと延享5年(1748年)には429人だったのが、元治2年(1865年)には1090人にまで増加しており、この理由として朝廷儀式の再興に伴った増員や官職の再興がなされた、地下官人自体がさらに下級の官人の再興を粉飾のために行った、の二つが挙げられている。
地下官人の収入も知行地からの年貢、朝廷儀式出仕による下行が主であったが、知行は最大でも随身土山家の125石程度であり、別の収入源を当てにしている家も見られた。
地下官人のうち並官人までは、堂上公家が持つ、禁裏小番、家職、朝廷儀式の運営と参仕、という三つの職分、および役負担のうち、二つ目以降を持つ存在である。しかし下官人は「壱人弐名」と定義されているように、百姓・町人などの身分が一時的に地下官人化を遂げる臨時職員的な存在であった。
地下官人のうち、外記方を統括する大外記押小路家(別名局務)、官方を統括する官務壬生家、蔵人方を統括する出納平田家、の3家のことである。これらをまとめて「三催」、「地下官人之棟梁」とも呼ばれるが、押小路家、壬生家は中世以来「両局」と呼ばれる由緒正しい家である。一方平田家は江戸時代に武家伝奏や京都所司代らによって、両局の地下官人独占体制を切り崩す役割を期待され、壬生家の反発の末に18世紀にようやく両局に比肩した存在であった(このためか、押小路家、壬生家が近代に華族になったのに対し、平田家は士族であった)。
しかし、近世を通して、他の地下官人は堂上公家との関係を深めていき、また催官人自体も早世が相次いだことによって若年齢化や資質の問題が進行していき、次第に形骸化していった。
催官人を除いた世襲で地下官人を務める家で、地下家という場合大体この辺りまでを指すことが多い。催官人に統括され、位階は六位から五位に昇進し、まれに四位や三位まで達するものもいた。
堂上公家とは別に有職故実を保持していることも多く、催官人とは別に堂上公家との関係を持ったものも多かった。
通常は別の生業を持っており、朝廷儀式に際して装束を着用し、出仕する人々である。位階は無位や七位のものが多いが、六位に進む者もいた。一定の金銭を払えば誰でも任じられ、帯刀と紋付提灯の二つの特権のために、この役職になるものもいた。
宝暦―天明期にかけて、並官人同士で他の家への対抗意識から下官人が次々と設置され、この動きは堂上公家からは警戒され、催官人への警告等も発せられた。
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最終更新:2025/02/26(水) 04:00
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