上杉治憲 / 鷹山(1751~1822)とは、江戸時代後期に活躍した大名である。
上杉謙信・上杉景勝の衣鉢を継ぐ、出羽国米沢藩主。明和・安永・寛政改革を遂行した明君として名高い。
日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれるが、宝暦10年(1760年)に母の弟である米沢藩主・上杉重定の養子となって、明和4年(1767年)に藩主を継いだ。しかしもともと石高に比べて家臣団が多かった米沢藩。寛文4年(1664年)の上杉綱勝の急死と吉良義央の子・上杉綱憲の家督相続によってさらに石高が落ち、上杉治憲の養父・上杉重定に至っては財政悪化を受けて明和元年(1764年)に上杉家廃絶も考え、尾張藩主・徳川宗勝に説得されるほどであったのだ。
かくして藩主となった上杉治憲は改革を開始。家老・竹俣当綱や莅戸善政といった「賢宰」を信任して、「地利」、「国産」、「教化」、「教導」といった理念を打ち出していった。細井平洲の招聘や興譲館の施率などに励んでいく。しかし、こうした改革は最初は理解されず、安永2年(1773年)には7人の重臣の直談判と処分にまで至る。
やっと軌道に乗り始めた改革であったが、天明2年(1782年)には竹俣当綱が失脚。結局、天明5年(1785年)には上杉治憲も隠居してしまった。しかし天明7年(1787年)にはその善政を徳川家斉から賞賛。ついには寛政3年(1791年)から藩主後見とて再度官制改革を主導。こちらは化政年間に一応の成功を見たとされる。
現代でもビジネス書などで改革者・上杉鷹山としてもてはやされる。しかし実際のところ、これは彼自身の在世中から明君録によって広く知られ、幕末期には政治論の基準として確立し、検定・国定教科書によって近代にも大きく影響を与えたことも大きいようだ。
掲示板
3 ななしのよっしん
2021/12/28(火) 15:15:48 ID: Nhe/6P0Qbf
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり 辻野あかりちゃんの掲示板で上杉鷹山が出てたもんだから言いたくなった
4 ななしのよっしん
2022/03/02(水) 18:02:00 ID: 0ua2XyxmVV
この人の子孫はひてんとかはやぶさとか探査衛星の開発に携わってるらしい
>>1 ケネディ駐日大使がなんか言ってた気がする
5 ななしのよっしん
2023/02/17(金) 01:02:58 ID: uGTAPW0l1c
本当だとすれば大統領になった時のインタビューで日本人記者が聞いたとされている。ただ上杉鷹山が海外で知られていたとしても別に不思議はないんだよね。
日本人の道徳観はこういうものだというのを英語で紹介した新渡戸稲造の武士道の中で、君主たるものかくあるべしの例として鷹山の名前が出てくるので、大統領クラスの教養の持ち主であればリップサービスで「武士道に出てくる鷹山はいいね」ぐらいのことを言うかもしれないし、話として辻褄はあっている。
あくまで「日本人で」と限定しての話で別に世界一尊敬してるとかではないから、意外とケネディの気の利いた返しだったんじゃないかという感じはするし、作り話だとしたらかなり上手いと思う。
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最終更新:2025/01/06(月) 03:00
最終更新:2025/01/06(月) 03:00
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