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日本と社会に関するzyesutaのブックマーク (3)

  • 鎌倉幕府の滅亡 - extra innings

    このところずっと鎌倉の武家政権について考えているが、分からないことがある。幕府の終焉が余りにも唐突で、急であることだ。足利高氏が大覚寺統に寝返ってからひと月もしないうちに、六波羅の滅亡、千早城攻めの幕府軍の崩壊、新田義貞の挙兵と矢継ぎ早に事が置き、ついには鎌倉での北条家滅亡を迎えた。この間、わずか二十三日に過ぎない。 これが数年間栄華を極めた程度の平氏の滅亡ならばともかく、幕府は百五十年に及んで東国はもちろん西国をも軍政下においていたわけで、起きてしまったことだからそういうものかと受け入れられているが、これがいかに異常なことなのか、改めて考えればほとんどあり得ないことと思われる。 朝廷を向こうに回して、つまり権威を向こうに回して敵対した経験が北条家にないならばともかく、承久の乱は言うに及ばず、鎌倉内部でも将軍との相克を制して何度も死線をくぐってきたわけで、ホームグラウンドの東国でさえ、ああ

    鎌倉幕府の滅亡 - extra innings
  • 故郷なき人 - extra innings

    [孤衆の時代] 大衆の消失は80年代から言われてきたが、大衆としてくくられるある種の塊、それは個々人が帰属する社団の集合体であるのだが、それらが消失した世界は既にデフォルトである。例えば、80年代にはまだ、30歳を過ぎて結婚しない者はごく少数だったが、今はむしろ多数派である。 これは単にあるべきロールモデルが消失したというにとどまらず、そのロールモデルによって支えられた無数の社団が消失したということを意味し、人々は帰属先を持たない個人となった。 このことがもたらしている影響は多岐に及んでいる。 マスメディアの退潮がそのひとつであり、政治にあっては自民党の長期低落傾向もこれに起因する。 [社団vs個人] 社団は国家と個人の間に位置し、国家に対しては個人を、個人に対しては国家を代表する。一人の人間がひとつの社団に属しているのではなく、別個に絡み合った複数の社団に所属している。 企業、宗教団体、

    故郷なき人 - extra innings
  • ちょっと構造機能的に考えてみると - finalventの日記

    以前にも書いたが、民族意識というのは、子孫のなかに自己の永世を見るという、いわば輪廻思想の変形みたいなものだが、それが民族として国家に集約されれば、永世を見たいと願う死者たちは民族の国に招魂されてしまうというのは、そう考えてみると、ごく普通の論理ではあるな(ちなみに私自身はこうした宗教観は持っていない、というか、一種のモデルとしてそう述べているだけ)。 こうしてみると、マックス・ウェーバーが方法論的に宗教社会学において来世意識のモデルを置いたというのは、やはり賢いモデルの立て方というのはある。ただ、ウェーバーにとって民族というのはそれほど相対化されていなかったようには見えるが。 このモデルと一神教については、ユダヤ教のようにもっと直接的に子孫の繁栄と約束された土地(国家)という幻想における、時間的な証人のような意味が強いのだろう。その意味で、日の「万世一系」とやらの天皇もその点からは似た

    ちょっと構造機能的に考えてみると - finalventの日記
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