民主制はギリシャの都市国家で始まった。ギリシャでは全ての市民が対等に議論して政治的な決定をした。そこには上下関係はなく、言葉で説得することで全体の方向が決まった。 しかし、ここで言う「市民」とは家長のことである。言論の場に出て論戦に参加することができたのは、一家のオヤジだけだ。外に出れば、オヤジは「市民」になって、「市民」であるうちは、「言論による説得」以外の方法では他人に何かを強制したりしない。しかし、家に帰ると、全く違うことをする。家の中では、家長は、絶対権力者として、有無も言わせず奴隷や女たちに一方的な指示をする人間になる。そこでは一切の議論が許されない。 この二面性をどうとらえるか。 ひとつには、これは技術的な限界である。生産性の限界である。家長は、生産活動をしないで一日中議論ばかりしている。家長の食いぶちは、奴隷や女たちの働きで生産される。一家あげて頑張ると、かろうじて、一人分の