潮田文『写真を見るということ』に、「(赤穂浪士の)大石親子が切腹した場所」のエピソードがある。四十七士の墓所として知られる泉岳寺近辺にあり、人間ほどの大きさの石が四つほど点々としているという。潮田氏は、自然石にしては不自然な並びをしているその石の謂れを聞かされ、あたかも切腹の現場写真を見ているような異様な気分を覚えたそうだ。 潮田氏はこの体験を、写真のノエマを「<それは=かつて=あった>あるいは<手に負えないもの>」とする『明るい部屋』におけるロラン・バルトの写真論と結び付ける。 写真は「かつて=あった」ものをそっくりそのまま再生させることができると自ら喧伝することで、外が内にとって「手に負えないもの」であることを象徴的に暴露するのであり、その象徴性が写真を第三者に向けて開くのである。 写真が外部を暴く、あるいは暴かれたかのような体験をわたしたちに与えるのは、「見たままに映る」からではない