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思想・哲学に関するyomimonoyaのブックマーク (4)

  • 『明かしえぬ共同体』 - Arisanのノート

    このの原書がフランスで出版されたのは83年だそうだが、ちなみにこの年日では吉隆明の『「反核」異論』が出版されている。 明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) 作者: モーリスブランショ,Maurice Blanchot,西谷修出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1997/06/01メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 52回この商品を含むブログ (46件) を見る 文は二部構成になっていて、共に著者のブランショと深いつながりのあった、バタイユとマルグリット・デュラスをめぐって「共同体」というテーマが語られていく。 ブランショは、ジャン=リュック・ナンシーにおける「共同体」の概念(「無為の共同体」)を、次のように要約しているが、これはブランショ自身の「共同体」論と重なるものだ。 社会的な小単位と違って、共同体は何らかの営みをなすことをおのれに禁じており、いかなる生産的価値をも目的

    『明かしえぬ共同体』 - Arisanのノート
    yomimonoya
    yomimonoya 2011/06/18
    「「共同体」が現実のなかに固定化され、「持続」していくことへの、激しい頑なな拒絶の意思」「知による支配の断念だけが、対等な関係の可能性を開くという考え」
  • 正しい暴力なんてない、ということに意味は無い - hokusyu’s blog

    http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091008/p1 「正しい暴力」なんて無い。すばらしい主張だ。 ところで今、日で一番の暴力組織はどこだろう。 自衛隊だ。二番目は警察だ。 左翼や在特会やヤクザや・・・そんなの目じゃないぐらい暴力的な組織だ。 国家が所有する軍隊と警察力は、左翼の革命なんかよりもずっと、多くの人を殺してきた。 自衛隊と警察を日から廃絶しよう。 それはそれとして、あらゆる暴力に反対、といいながら、自衛隊と警察は守りたい人にロジックを提供しよう。 1:正しい暴力などないが、「やむをえない」暴力はある 2:暴力ではない、何か別の力の行使にしてしまう。 「いっさいの暴力は悪だ。しかし、イラクへの攻撃は暴力を行使した国家にたいする警察力行使にすぎない/やむをえない暴力である」 「いっさいの暴力は悪だ。しかし、体罰は暴力じゃなくて教育だ/

    正しい暴力なんてない、ということに意味は無い - hokusyu’s blog
    yomimonoya
    yomimonoya 2009/10/09
    『われわれは個々の暴力について、「不断の思考と実践」をおいていくしかないのだ』←それは、剣の刃の上に裸足で立つような慎重さを必要とする「思考と実践」だろうと思う。
  • まるごと死んでゆく - kom’s log

    長期脳死、人の意思表示@参議院での発言(森岡正博さん) http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090708/1247014793 ここから、私の個人的な見解、といいましょうか、思想、哲学になるのですが、 こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、 外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、 まるごと成長し、そしてまるごと死んで行く、 自然の権利というものがあるのではないでしょうか。 そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、 人がその権利を放棄する事を意思表示したときだけではないでしょうか。 日の国政の場でこのようなスピーチがあったことに拍手したい。「日文化では、臓器移植はいやがられる」的な形で文化論にもっていって「しかしながら欧米では」といった”脳死は人の死”擁護論があるけれども、上のリンク先を読めば、文化バイアスではなく脳死状態はひとつ

    まるごと死んでゆく - kom’s log
    yomimonoya
    yomimonoya 2009/07/08
    「脳死」もひとつの生き方――眼からウロコが落ちた思いがする。
  • ヴェーユと「イスラエル」 - Arisanのノート

    神を待ちのぞむ 作者: シモーヌヴェーユ,Simone Weil,渡辺秀出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/02/01メディア: 単行 クリック: 3回この商品を含むブログ (11件) を見る この全体のなかでいうと、とくに大きな論点というわけではないが、前から気になってることなのでメモしておく。 『重力と恩寵』を読んだときから気になっていたのは、ヴェーユが「イスラエル」と呼ぶものに対する、彼女の敵意の激しさである。 それが何のことなのかは、後で書くと思うが、あのを読んだときには、それはキリスト教の神父であるあのの編集者ティボンが、ユダヤ人であるヴェーユの非ユダヤ教的な面を強調するために、そういう箇所を抜き出したのだろうぐらいに思ってたが、そういうことではないようだ。 この件について、『神を待ちのぞむ』の「序文」のなかで、やはりカトリックの神父であるぺランという人は、次の

    ヴェーユと「イスラエル」 - Arisanのノート
    yomimonoya
    yomimonoya 2009/05/21
    “「集団的な感情」への警戒と批判”
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