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天国とはなぜ「天の国」とされていて、また雲の上にあるというイメージが普及しているのでしょうか? 別に地底でもよかったと思うのです。 キリスト教もまた太陽崇拝の流れから来ている部分があって、天を神聖な神の国と定めることもまた自然な流れとすれば、理由としてつじつまは合いそうです。 しかし私にはキリスト教と太陽信仰に関わりがあるかどうかの見識すらないので、 このことについては現時点で思慮しかねることです。 また、あの「天の国」のイメージは、実在する天国の情景の念写ではなくて、あくまで各々の勝手な想像上の心象風景といったところなのでしょうか? 私としては「地国」「天獄」ではなぜなかったかに疑問が残ります。 どうか私に知恵をお与えください。
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年12月) 異言(いげん)は、グロソラリア(英: glossolalia < 希: γλωσσολαλιά = γλῶσσα(glõssa 「舌、言語」)+ λαλιά(laliá 「声;言語、言葉、発話、説明、意見」)=「舌から発せられる声」)あるいはゼノグロッシア/ゼノグロッシー(英: xenoglossia/xenoglossy < ギリシア語で「異国の言語(聞き慣れない言葉)を話すこと」)の訳語で、いずれも、学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象を指す。 英語では、 glossolalia は主に宗教の分野で、 xenoglossi
1980年にナショナル・パブリック・ラジオ局長の Frank Mankiewicz が造語し、コラムニストのウィリアム・サファイアが、ニューヨーク・タイムズの中で使用したことで広まった[4][5]。 なお、日本語の「再命名」という用語は、1976年に鈴木孝夫が『日本語の語彙と表現』の中で用いている[6]。これは「レトロニム」に先立つ用語である。 人類の歴史で、もともと樹皮から分泌される粘着性の液体が固化した物質のみを樹脂(レジン、英: resin)と呼んでいた。あくまで樹木から採れたものだけが「樹脂」と呼ばれていた時代は非常に長いが、19世紀以降に化石燃料資源を原料として樹脂に似た物質が人工的に製造されるようになり、それを「合成樹脂」(英: synthetic resin)と呼ぶようになった。従来「樹脂」と呼ばれていたものをそれと区別して呼ぶ必要が生じ、「天然樹脂」(英: natural
超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。さらに篠原は、さまざまな応用も試みている。もっとも手の込んだものは、小倉百人一首の各短歌を複数の超絶短詩に分解した『百人一滝』(2003年)であろう。この試みにもとづく展覧会やカルタ製作も行われた。なお、篠原によれば、超絶短詩もまた、方法詩の一環をなす。方法詩とは、新たな型を自ら提案し、その型に即して詩作するというものである。 『心にひびく短詩の世界』1996年、講談社現代新書 『言霊ほぐし』2001年、五柳書院 超絶短詩集『物騒ぎ』1996年、七月堂 超絶短詩集『水もの』1996年、七月堂 超絶短詩集『桃数寄』1998年、七月堂 超絶短詩集『摘み分
酒が入ると短歌とか文章がポコポコ浮かぶあのマインド、まあ出来の良い悪いは別にして「とりあえずこれで良し!」と提出できるマインド、どういうことだよ。そう思いませんか。思ってるの俺だけか。 言葉ってのはバラバラで、何ひとつつながってない。これは信じられないことかもしれないけど本当のことで、たとえば「俺は思う」と文章を思い浮かべたとき「俺は」「思う」の間には真っ暗な深い谷底が広がっていて、文章を組み立てていくということはその暗闇を蛮勇をもって、あるいは眼をつぶってその狭間を飛び越えるということだ。毎回がそうだ。 酒が入るとポコポコ文章が出てきて饒舌にすらなれてしまう(話すときだって文章を組み立ててるわけだけど、この意識がすでに多くの人と違うのかもしれない)のは、意識が酩酊しているおかげで暗闇に気づかないままその暗い溝をひょいと飛び越えてしまうからなのかもしれない。 小さい頃、大縄跳びが苦手だった
鎮目恭夫 入稿時から責了にいたるまで、本書『ヒトの言語の特性と科学の限界』の著者の仕事は、末期癌で入院中の病院のベッドで行なわれた。 初校段階では、校正するのは疲れてほとんどできないが、本書のために不足していること、追加したいことを「第四部または最後の追補」にまとめたので、と本書で十数頁になった新原稿を書かれ、渡された。(6月25日) 再校時では、ちょっと元気が出てきたので、すべて校正をした、ちょこちょこ追記も書いた、と言われた。その通り、校正刷りにはかなりの朱が入っていた。また、索引もつくりたいので、適当に拾い出してみた、あとはこの感じでやってほしい、とも言われた。(7月7日) それから数日して、郵便で「まえがき」の追加原稿が送られてきた。そこには、病院やご家族や編集者など、この間お世話になった方々への謝辞があった。 そういうわけで数回病院通いをして、著者から色んな話を聞いた。湯川・朝永
面白い。 『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(青土社)のp.100に「有職読み」という語が出てくるが、このような言葉は存在しない。これは2006年何者かによってWikipediaに立項され、その内容がいかにもありそうだったため、以後増補が続けられてきたもので、2010年9月9日読売新聞西部版夕刊に、こんなコラムがある。 ⇒特記訂正 - 猫を償うに猫をもってせよ そもそも俺は「有職読み」という言葉を知らなかっただけでなく、「故実読み」という言葉さえ知らなかったんだけれど。 ちょっと調べてみた。 小谷野先生は「有職読み」という言葉は存在しないというけれど、三省堂の『大辞林』に載っている。 ⇒ゆうそくよみ【有職読み】 の意味とは - Yahoo!辞書 ただし、意味は、 「故実(こじつ)読み」に同じ。 であるから、ウィキペディアの説明とは違う。 ウィキペディアの記事の初出は20
『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(青土社)のp.100に「有職読み」という語が出てくるが、このような言葉は存在しない。これは2006年何者かによってWikipediaに立項され、その内容がいかにもありそうだったため、以後増補が続けられてきたもので、2010年9月9日読売新聞西部版夕刊に、こんなコラムがある。 きょうは52回目の誕生日である。馬齢を重ねるたびに思うのは「民也」という自分の名前のことだ。 命名の理由を父親に何度も聞いたが、説明があやふやで、結局はっきりしない。これが少年期からのコンプレックスになっている。さらに残念なのは、有職(ゆうそく)読みがさまにならないこと。 偉人の名を敬意を払って音読みすることだが、例えば藤原定家から二宮尊徳、伊藤博文、現代の吉本隆明まで、テーカ、ソントク、ハクブン、リューメーと呼べばちょっと偉そうで、ずっとうらやましかった。記事に
ダ スラ ユター (現時点でキハヌジ語で書かれた一番長い文章) ポックリ ポックリ ポックリ ミヨン マーボ ビン ペドゥン スラ ダ ビン サジムル ; ポックリ グリグリ アイチュ ユター ダ . ローグ , ポグングン メドル ノワジ ダ ; ポックリ グンヌ ダ ユター ビン サラハゲンナ . ポックリ バブン , 'グングン ミル ナリク' ユター . ポックリ バブン ラーガ スラ 'ルル ポックリン' ダ . ローグ ビン ワッシャム , ポックリ ホタ グンヌ ユター ; バブン 'グングン ミルミルミル ナリク' . ポックリ ビヨン オサム ダ ; ハイ バブン ラーガ 'ルル ポックリン' . ローグ ビン ワッシャム ホタ, ポックリ グンヌ ユター ; バブン 'グングン ミルミルミルミルミル ナリク , ナリク!' バブン 'ツケ グングン ミルミルミル ナリク
序 メルロ=ポンティの言語論はパロールの現象学(phenomenologie)である。すなわち言葉(parole)の起源(Origine)に立ち返って行われるその性起(Ereignis, evenement)の考察である。しかるに、この考察は言葉を意味作用(signification)としての身体的所作(geste)と同一レベルに措定することをほとんどアプリオリに要請している。このアプリオリな要請ないし理論的前提は、デカルトに始まる近代哲学の認識論の主客対立図式を止揚するという、メルロ=ポンティが彼の現象学に課した課題から発している。この課題は、パロールを思惟(pensee)のそれと延長(etendue)のそれとに続く第三の原本的領域として認知することによって果たされると彼はしたのである。 改めて言うまでもなく、思惟を原理として行われる哲学という第一の研究部門ならびに延長を原理として行
心の哲学についてちょっと勉強してみて思ったことは、 心については、もう自然科学の領域に任せてしまえばいい、ということ。 哲学者ないし人文系の人間が何か携わることが出来るとすれば、個々の研究を繋ぐようなロードマップを作ったりインタープリターになったり、いわば整理整頓係だろう。 ところが、なお科学では心について解明することができないという意見もある。 だがそれは、心の哲学の問題というよりは、科学哲学ないし言語哲学の問題のような気がしている*1。 科学では説明のつかないことがあるとか、全てが科学で説明できてしまったら面白くないといって言われる話よりも、 科学で説明される話の方が、よっぽど面白いと僕は思う。 これは科学では説明できない、などと言われると、そんなのつまらないなあと思ってしまう。 カール・セーガンは、あるタクシー運転手にオカルト話だか陰謀論だかされたときに、科学の世界にはさらに面白い話
先日、いつものようにPCの前に座ってUK国内ニュースをチェックしていると、「卑語には痛みを和らげる効果がある」という科学関連ニュースの見出しが上がって来た。 ニュースの内容を読んでみれば、FUCKおよびFUCKINGなどの卑語には、それらの言葉を口にすると身体的痛みを緩和することができる。という効果があることが、研究の結果明らかになったという。 確かに、出産のために関連病棟に入院した折にも、階上の分娩室から「FUCKING SHIT」だの「FUCKING BOLLOCKS」だの、勇ましい言葉を吐きながら赤子をひり出す妊婦の声が聞こえたものだが、あれも、女という生き物は卑語の陣痛緩和効果を本能的に知っているからなのだ。と納得しつつ、同時に、 なんというロマンのある記事であろうか。 と思った。 FUCKといえば、わが青春のセックスピストルズだが、身体的痛みを精神的痛みにも拡大するならば、あのジ
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