
1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後[1]、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した[2][3]。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義・台南・高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった[4]。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに、八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった[4]。1919年に浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立している。浜野像は戦時中の金属供出令で資材に流用されたが
日本の自動車技術者で、最も有名な一人が人見光夫だ。エンジン一筋38年。マツダ躍進の中核を担う、「スカイアクティブ(SKYACTIV)」エンジンの開発を率いてきた。世界シェアが2%に満たない“小兵”のマツダが、世界のエンジン開発競争で先頭を走る――。10年前、誰が想像しただろう。 人見がマツダに入社したのが1979年。スカイアクティブの実用化が2011年だ。57歳になっていた。会社人生の最終コーナーで、華々しい成果を生み出した。天才技術者とも称される。だが入社して長い間、ふてくされていた。 モチベーションなんて、なかったですよ。ずっとむなしいだけ。金くれるんだからまあいいわ、くらいに思って働いてました。 ひとみ・みつお。1954年生まれ。岡山県出身。1979年東大院修了後、東洋工業(現マツダ)に入社。一貫してエンジン開発に携わり、2000年パワートレイン先行開発部長。2011年執行役員、20
チェスター・フロイド・カールソン(Chester Floyd Carlson、1906年2月8日 - 1968年9月19日)は、アメリカ合衆国の物理学者、発明家、弁理士で、ワシントン州シアトルで生まれた。 謄写版を使った湿式ではなく、乾式複写で使われる電子写真法を発明したことで知られる。カールソンの発明した製法は後にゼログラフィと命名され、「乾式複写」の代名詞となった。 カールソンが幼い頃、両親ともに結核を患い、父は背骨の関節炎に悩まされていた。それらの病気のため、カールソンは幼い頃から働いて家計を助けていた。17歳のとき母が亡くなり、27歳のときに父が亡くなっている。 「幼い頃から必要に迫られて学校に行っている間以外は働き、そういう時間の中で自分自身で工夫し、物を作り、実験し、未来の計画を立てた。トーマス・エジソンや他の成功した発明家の話を見聞きし、経済的成功をもたらし、個人的な技術的興
一式戦「隼」 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一〇〇式重爆「呑龍」・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。 九一戦 四式戦「疾風」 第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸
ルドルフ・クリスティアン・カール・ディーゼル(ドイツ語: Rudolf Christian Karl Diesel、1858年3月18日 - 1913年9月29日)は、ドイツ人の機械技術者で発明家。ディーゼルエンジンの発明で知られている。 1858年、3人兄弟の2人目としてフランスのパリで生まれる[1]。両親はバイエルンからの移民としてパリに住んでいた[2][3]。父テオドールはアウクスブルクで製本業を営んでいたが、1848年にフランスに移住。1855年、ニュルンベルクの商人の娘とパリで出会い、結婚。革製品の製造を生業とするようになった。 幼少期はフランスで過ごしたが、1870年に普仏戦争が勃発し、一家も含めドイツ人はフランスから退去させられた。ディーゼル一家はロンドンに移住。しかし12歳のルドルフは、ドイツ語を母語として教育されるようアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ送られ、叔父が数
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日[1] - 1999年2月21日)は、日本の工学者。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。 1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる[2]。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者(首席)の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された[3]。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。 第一東京市立中、旧制東京高校(現在の東京大学教育学部附属中等教育学校)理科甲類を経て、1935年、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。中学は首席で卒業、高校では3年間学級総代をした[注釈 1]。中学ではバスケットボール部に所属し、高校では音楽部
任天堂の代表取締役、岩田聡さんが亡くなられたというニュースを見て、非常にショックを受けています。あまりにも偉い方になられていたので、もう長年お会いしたことはありませんでしたが、引退されたら久しぶりに昔話でもしに遊びに行こうと思っていたからです。 岩田さんに初めてお会いしたのは、1982年の8月だから33年も前のこと。岩田さんが23歳の新入社員だった時代です。 高校2年生とプログラムを共同開発 高校2年生だった私は、夏休みを使って当時のパソコン、NECのPC-8001用にサウンドボードを開発し、それを駆動するためのプログラムを作ったのです。自画自賛ですが、とてもよくできたので、雑誌で見かけた会社に連絡をし、買い取ってもらえないか交渉をしていました。 5社ほど面談に行った会社の中で、第一希望だった会社がHAL研究所。5~6人の小さな会社で、そこで対応してくれたのが岩田さんでした。 結果的に、H
ロバート・ハベル (Robert Havell) による1814年の版画、「炭鉱夫」(The Collier)、ミドルトン鉄道で走るマシュー・マレーの蒸気機関車「サラマンカ号」が描かれている マシュー・マレー(Matthew Murray、1765年 - 1826年2月20日)は、初めての実用可能な蒸気機関車である2気筒式の「サラマンカ号」 (The Salamanca) を1812年に設計・製造した、イギリスの蒸気機関や工作機械などに関する技術者である。マレーは蒸気機関や工作機械、紡績機械など多くの分野で活躍した革新的な技術者であった。 マレーの初期の人生に関してはわずかなことしか知られていない。マレーは1765年にニューカッスル・アポン・タインで生まれた。14歳で学校を卒業して、鍛冶屋あるいはブリキ職人になるために弟子入りをした。1785年に実習期間を終え、ダラムのウィッカム (Whi
マンリー(左)とラングレー チャールズ・マンリー(Charles Matthews Manly 、1876年 - 1927年)は、アメリカ合衆国の技術者である。1903年に飛行できなかったサミュエル・ラングレーのエアロドローム号のエンジンの開発を行い、飛行試験のパイロットを務めて、2度ともポトマック川に突っ込んだ。 ファーマン大学を卒業して、サミュエル・ラングレーの助手となった。ラングレーの航空機の実験の、エンジンの開発に貢献した。 航空機用のエンジンは初め、ニューヨークのスティーブン・バルザー(Stephen Marius Balzer )と開発の契約が結ばれたが、バルザーのエンジンは充分な出力が得られず、改良中にバルザーの会社は倒産した。マンリーはバルザーのエンジンをロータリー式から通常の星型エンジンに改造し、水冷とし52馬力の出力を得ることに成功した。これは後に動力飛行に成功したライ
野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)[1]。 東京に生まれる。父野口坤之の長男であり、会津会会員である。一高[2]を経て東京帝大に進み、1912年(明治45年)に機械工学科を卒業した[3]。鉄道院技手を経て母校に戻り1917年(大正6年)助教授に就任。1937年(昭和12年)に教授、1949年(昭和24年)に名誉教授となる。この間特許局技師を兼ねる[4]。同年工学院教授となり[5]、同校の新制大学移行に伴い初代学長となる[6]。1971年(昭和46年)まで在任し、この間に学科の拡充や大学院設置を進めた。学外では第24代日本機械学会会長[7]、日本クレーン協会会長を務
下嶋 浩(しもじま ひろし、1944年(昭和19年)10月6日 - 1999年(平成11年)8月15日[9])は、機械工学、ロボット工学を専門とする日本の研究者、登山家。東京工業大学工学博士[5]。ロボット国際標準規格に関するISO国際会議日本代表として活躍。ランニング登山[注釈 1]の国際的第一人者としても有名[1]で、「下嶋渓」の名で著書もある[2]。東京工業大学教授在職中の1999年、マッターホルンの登山中に滑落事故で死去[1]。 1944年生まれ、神奈川県出身。高校生の頃から登山を始め[2]、カメラいじりも得意であった[10]。東京工業大学工学部機械工学科を卒業。同期生に林巌、吉澤善男がいた[10]。 東京工業大学大学院修士課程、博士課程を通じて、小川潔教授の元で研究を行う。6節リンク機構などのリンク機構の経路創成機構の研究に取り組み、1972年に博士号を取得[5]。その後も助手と
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