2024/12/27 ベイスターズのドキュメンタリー映画「勝ち切る覚悟」を見た! シーズン終盤~日本シリーズ優勝までの舞台裏を抑えたドキュメンタリーで、ベンチ裏での映像がメインとなっている。ナレーションは無く、説明がほとんど無いので「いつ何があったか」があらかじめわかって…
youtube には、哲学者・思想家の動画がアップされている。以下に検索リンクの表示を挙げておきます。 Martin Heidegger At His Freiburg House(ハイデガーの自宅映像) バートランド・ラッセル(1872-1970) http://www.youtube.com/results?search_query=Bertrand%20Russell&search=Search マルティン・ハイデガー(1889-1976) http://www.youtube.com/results?search_query=Heidegger&search=Search エーリッヒ・フロム(1900-1980) http://www.youtube.com/results?search_query=Erich+Fromm&search=Search ジャック・ラカン(1901-1
人から承認されたい、モテたいと思ったとしよう。しかし、そのモテの要素とは、容姿やセンス、経済力だったりするが、実は既にある世の中の価値で量られたものでしかないのではないか? 人を好きになる行為が商品化されている。それを本田さんは「恋愛資本主義」と呼ぶが、その実態はどういうものだろうか。 恋愛資本主義という概念について、著作で述べられていますが、恋愛と資本主義とはどう結びつくのでしょうか。 昔は、お金と恋愛とはむしろ対立するものだったのですが、僕が大学生になった頃、ちょうど日本はバブル経済といわれるような、ものすごく景気のいい時代にさしかかりました。わかりやすくいえば、バブリー青田さんみたいに扇子を持って踊っているような人がたくさんいたわけです。 雑誌やドラマも「大学生は自動車を持っていないと女の子と付き合えない」とか「スキー場に連れていって、ホテルも取らないとモテない」といったことを煽り、
20世紀後半の哲学といえば、構造主義とかポストモダンなどフランス系ばかり話題になるが、実は同じ時期に科学哲学でクーンやファイヤアーベントが展開した「通約不可能性」の理論も、ポストモダンと同じ相対主義だった。そこでは科学も宗教の一種で、どういう理論が選ばれるかは科学者の集団心理で決まる。事実、最近のひも理論は、intelligent designと論理的には同格だ。 すると諸学の基礎であるはずの哲学が、逆に心理学に基礎づけられるということになる。たとえば哲学者がデカルト以来、論じてきた「私」とは何か、という問題も、最近では脳科学で実験的に明らかにされている。今日の科学哲学は、こうした実証科学を参照しないで論じることはできない。極論すれば、脳についての哲学的論議は、脳科学に解消されてしまうかもしれない。これを本書では「哲学の自然化」と呼んでいる。 これは哲学だけの問題ではない。人文科学や社
私が真の哲学者に感じるのは、一種の「暴走感覚」だ。ニーチェの暴走感覚はまた格別だが、フロイトやフーコーにもそれを感じる。日本では、なんと言っても九鬼周造だろう。私は、日本の哲学者では彼にいちばん才能を感じるのだが、それは私が九鬼の暴走に惚れ込んでいるからにちがいない。 九鬼の代表作のひとつに『「いき」の構造』がある。 「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) 作者: 九鬼周造出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1979/09/17メディア: 文庫購入: 15人 クリック: 50回この商品を含むブログ (90件) を見る 九鬼は「いき(粋)」とは何かを哲学的に考察する。九鬼によれば「いき」とは、「媚態」というものが、武士道にもとづく「意気地」と、仏教にもとづく「諦め」によって、完成させられたものだ。九鬼曰く、「いき」とは「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である(29頁
日本の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日本人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。 極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/04/post_5368.html 日本仏教に核があるとしたら、それは「生活主義」と「血族主義」の二つだ。 ところが、明治時代に入って様相は一変することとなった。明治五(一八七二)年四月二十五日、太政官布告第一三三号が出された。それは「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という内容である。この太政官
ぱらぱら読んでいるだけだが ギリシャの時代には この世界がどういう原理で成り立っているのか 定まった理論はまだなかったわけで みんな一から考えなければならない そのぶんかなり好き勝手に思いをめぐらせている印象 そこがなにしろ面白い 近代や現代になって、用語や概念が おそろしく重ねられ入り組んだ哲学や科学とは まるで違ったものに感じられる 「この世に果てはあるのか」「死んだらどうなるのか」 「動かないけど滅びない岩石と、動くけれど滅びる人間とでは どっちがこの世における真の姿なのか」 みたいなことを、ふと素朴に思うのは 一般人にすれば、紀元前も21世紀も案外似たようなもの それを専門家に相談しようとしたとき、 ソクラテスやアリストテレスなら 親身になって一緒に悩んでくれる気がする でも今の科学者や哲学者や文学者なら 「もうちょっと勉強してから来てくださいよ この本とこの本とこの本は当然読んで
岩谷さんにお願いして1冊送ってもらった本書を、じっくり読む。この手のコンピュータ系の本で、読んでいて知的刺激を感じたのはすごく久しぶり。 Bjarne Stroustrupは、作家でいうとカミュ、オーウェル、哲学者でいうとキルケゴール(プラトンやヘーゲルでなく)が好みだそうで。観念先行型ではなく、経験と現実を重視する人のようだ。 たしか80年代の終わり頃、DOSで使えるC++コンパイラ(たしかZortechだったか?)をもらったのだが、当時使っていたマシンでは動作せず、その後もC++にはまる機会がないまま年月が過ぎ、なんかC++って面倒くさそうと食わず嫌いをしていたところにJavaが登場して、これに飛びついたという、かなり軽薄な言語遍歴なのであった。 Javaで最初に作ったプログラムはアプレットで、スレッドというものの扱いをそれまで経験したことがなくて、個人的にはそこらあたりが面白かった。
今年のNew Year Resolution(年初の誓い)は、「英語のブログにもっとエントリーを書くこと」。従業員とのコミュニケーションのためにも、楽して日本語ばかりで書いているわけにはいかない。 その第一段がこれ。 iPhone, raising the bar of "total user experience" 今回のMacWorldでiPhoneがアナウンスされることはとあるルートからの情報ですでに100%確実と確信していたのだが、何と言っても驚かされたのが、進化がすっかり止まっていた「電話をかける」という携帯電話ならではの機能のユーザー・エクスペリエンスを向上させたこと。 私も日本では最新の「3Gケイタイ」を使っているのだが、せっかくの高機能端末も、留守番電話のチェックをするときには、20世紀からほとんど進歩していないプッシュボタン式のサービス(「このメッセージを消去したいときは
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