説教じみた話を書いているとほんと年寄り臭くなるし、年寄り臭いというだけで嫌悪感を誘うものだし、嫌悪感があれば誤解が誘導されるものなので、ちょいとだけ、仕事を辞める云々の補足みたいなこと。 仕事というのは、世の中の少なからずの人が、自己実現とか報酬と思っている。違っているとは言わないが、こっそり言うと違っているというか大間違いだと思う。ではなにか、時間の拘束である。自分の人生の時間が自分の思い通りにならないという拘束こそが仕事の本質なのである。そりゃないっしょとか言われるか。 仕事は命ぜられてやるものではない主体的にやるものだ、よって、拘束じゃない、自らが求めたものだ、とか、言う? いや、そこがこの問題の要なのだ。 そして、この根幹の問題に、マルクスはとっても明快なことを言っている、だから、マルクスは根源的な思想家なのである。 労働とは時間なのだ、と。 本当はそうじゃない、が、時間として抽象
いわゆる論壇誌について 論壇誌について、私は定期購読ではないですが「文藝春秋」はほぼ毎月読んでいます。「中央公論」や「世界」はそのとき気になる記事があれば読みます。他の論壇誌も同じです。 個人的な印象にすぎませんが、いわゆる論壇誌は私にはあまり面白くありません。読む前から結論のわかっているテーマが多く、短い記事は冗長になりがちであり、ある程度奥行きのある話を求めるならその書き手の著書や新書(たいてい存在する)なりを読んだほうが、情報の収集という点でも便利です。 論壇誌が日本で存在している理由は、出版文化として社会問題について書ける人材を育てるということと、現在の出版界において、新書や新刊書の広告的意味を担っていることの2点ではないでしょうか。 南原繁でしたか記憶によるのですが、東大の卒業生へのはなむけの言葉で、大学を出てから文藝春秋だけ読んでいるようではだめだと諫めたのは。時代は昭和三十年
自分の場合、ダイアリーやはてブで同じ記事をよくブクマする人をお気に入りにいれるようにしたけど、似た傾向の記事をブクマする人を教えてくれる機能があるといいのかもしれない。 こういった似た傾向を教えてくれる機能ならば、このURLをブクマした人はこの記事もブクマしてます、みたいなのもあると面白そう。 これに一票! 自分の興味がシフトしていって、たとえば、今までplaggerなんて知らなかったのが突然興味を持って、それ関連の記事をブクマしまっくたとする。それがある程度たまった所で、「あなたはplaggerに興味を持たれたようですが、それならこの人が情報を集めてますよ」と教えてもらったら、その人をブクマのお気に入りに入れる。そうすると、次の日からは自分でそれを集める必要がなくて、自動的に集ってくる。 もちろん「plagger」というキーワードは提示される必要がなくて、単に、「自分がブクマしたURLで
前日のブログで、「テレヴィ」と書いて、さっそく、「なんだそりゃ?」というツッコミを受ける。 僕は小説の中でも、よくこの表記をしていて、これまでにも色々言われてきたが、やめません(笑)。 小説だと、例えば、大江健三郎氏なんかも、「テレヴィ」と書いてますね。 まったくの邪推だが、「テレヴィ」が何時までも「テレビ」なのは、「日本テレビ」とか、「フジテレビ」とかが社名ごと変えなきゃいけなくなるのがイヤで、読売も産経も「テレビ」のままなのではないかと思ってみたり。しかし、邪推です。 そんなことじゃなくて、「テレビ」はもう、日本語として定着しているじゃないか、じゃあ、「ラジオ」はどうなんだ? 「レイディオ」と書くのか? と言われると、確かに微妙。小説の中で、「レイディオを聴いた」と書くのは、さすがに抵抗がある。しかし、それならどうしてRadioheadを、みんな「ラジオヘッド」と書かないのだろう? そ
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