サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית Shlomit)は、1世紀頃の古代パレスチナに実在した女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』や、新約聖書の福音書などに伝わる。 イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。新約聖書では彼女の名を伝えておらず、学問上は単にヘロディアの娘と呼ぶことが多い。 イエス(中央)と洗礼者ヨハネ(右)/ピエロ・デラ・フランチェスカ『キリストの洗礼』、1449年 ジャン・フーケ『ヘロデ大王のエルサレム占領』、15世紀後半 ヘロデ・アンティパス(右)とイエス(左中央)/アルブレヒト・デューラー、1509年 ヘールトヘン
※バイラルとか2chまとめって本当にクズだなーと思う方だけどうぞ アナログ風神 photo by Raelene G 「風神雷神図」という紙本金地着色の屏風がある 描いたのは江戸時代の画家 俵屋宗達。 そして琳派の画家 尾形光琳は宗達の風神雷神と同じ屏風を描いた。 photo by sjrankin その輪郭線などは俵屋宗達のものを忠実にトレースしつつ、しかし周辺の雲や配置などを変え表情も異なる。 そして光琳と同じ琳派の画家 酒井抱一の描いた「風神雷神図屏風」 酒井のものは光琳を基にした模写と言われているがかなり酒井の独自な感覚が前面に出た作品にになっている。 どちらも実物を見たことがあるが、光琳の風神雷神の方が宗達より計算されている感じがして、酒井のものは少しコミカルささえある。 さてこの三隻の屏風は似ているどころか同じものを模写した作品。 今流行りの言葉で言うなら「パクリ」ということに
大塚国際美術館、名前だけは聞いたことがあった。世界中の名画を原寸大で陶板に焼き付けた作品が並ぶ美術館だという。徳島にあるという。大塚製薬の創業者が一念発起して作った美術館だという。正直、偽物がずらずら並んでるだけかー、なんか変なお金持ちの道楽か?珍スポットの一種か?と思っていたんですよ。しかし、行った人はみんな大いに満足しているらしい。そしてこんな記事である 君は「行ってよかった美術館ランキング」1位の大塚国際美術館を知っているか。 - いまトピ これは一度は行ってみなければなるまい…これまで47都道府県のうち、徳島と宮崎が未踏の身としては、徳島に行く機会にもなるし。と、阿波踊りの熱狂が通り過ぎた後の日曜日。阿波踊りのイメージが氾濫する徳島阿波踊り空港に降り立ち 路線バスで鳴門市にある大塚国際美術館に向かう。途中、大塚国際美術館がある島に渡る橋の手前に、巨大な大塚製薬の倉庫が並び、その壁面
仏様の姿形はどのように変わっていったか 仏像に興味あるという人は多いと思います。 ただ、教養がないと理解できなさそうで何か難しそう、と思ってる人も多いと思います。 確かに、何何神とか神様がいっぱいいたり、全ての物に由来や意味があったり、よく覚えられない。 仏教はヒンドゥー教の台頭やイスラム教の侵入により、13世紀ごろにはほぼインドから姿を消してしまったのですが、今回はそれまでのインドの歴史と仏像の変化について、追っていきたいと思います。 1. 仏像が生まれる前 実は釈尊(ガウタマ・シッダルータ)が亡くなってから500年以上、仏像というものは存在しませんでした。 仏像が作られ始めるのは1世紀後半からで、その頃には釈尊が半ば神格化された存在になっていき、同時に盛んに仏像が作られるようになっていきました。 では、仏像が作られる前は釈尊をどのように表現していたか。 まずは、「三宝」と言われる仏教で
Photo by Bernard Gagnon インドで廃れた仏教はアジア諸地域へ 前回の記事「仏像の姿形はどう変わっていったか」では、仏教発祥の地インドで、いかに仏教が広がり併せて仏像が発達・衰退していったかを書きました。 インドで消滅した仏教は、アジア諸地域に渡り当地で独自の仏教美術を開化させていきます。 今回は特に、南アジアと東南アジアでの仏教と仏教美術の特徴をまとめていきます。 1. 釈尊の死後の仏教 教団の分裂 釈尊が亡くなって約100年の間は、直弟子や直弟子に学んだ者たちが教団をまとめたため、釈尊の教えは変わらずに生き続けていました。この期間を初期仏教とか原始仏教とか言います。 ところが、100年ちょっと経ったころに教理や戒律の異説が生まれ、革新派のマハーサンギカと保守派のテーラヴァーダに分裂。前者は後の大乗仏教、後者は上座部仏教です。 この2派はどんどん分裂していき、前1世紀
絵画保存修復家 岩井希久子 皆さんが目にする名画は、どのようにして現代に生きているか考えた事はありますか? 絵の一生は人の一生よりもずっと長いものです。とはいえ、絵は自然に生き延びているわけではありません。 経年による酸化、劣化、褪色、剥落、ひずみ、亀裂、物理的な損傷、時には、人為的に損なわれる事もあります。そんな病める絵画を救命し、また価値を見いだし、少しでもいいかたちで未来に残していくのが、絵画修復家である私たちの仕事です。 私が修復の道に進むきっかけになったのは、父のこの言葉でした。 小さい頃から絵が好きで、画家を目指して東京で浪人生活を送っていた時でした。当時、熊本県立美館建設準備室長だった父が、西欧諸国の視察で、おびただしい量の美術品を支えているのは、アルチザン、技術者や職人であるという事を肌で感じ、女性の私に絵にかかわって生きていくもう一つの道を示してくれたのです。修復と
ミケランジェロ作の彫刻やモネの絵画を見たとき、私達は何を思うか。 実物から圧倒的なパワーは伝わってくるが、多くの人がもつ印象は、へえーとか、何かわからないけどすごいなあ程度ではないか。しかしそれは感性の不足ではなく、絵画の見方を知らないだけだ。 ではどうやって見ればよいのか?と思う人にとって本書を強くオススメする。我々日本人は、美術品は感性で好きなように鑑賞すればいいと思っている傾向がある。しかし本書は「美術は見るものではなく読むもの」と断言している。筆者はカリフォルニア大学バークレー校にて美術史学士号を修得した西洋美術史家だ。 本書によると、美術は理性的であることに重点を置いた西洋文明の産物だという。特に近代以前の西洋美術は、なんとなくの「好き」や「感動する」といった、感性レベルの鑑賞は見たことにならない。まずは西洋美術を生んだ政治/経済/宗教の歴史を理解し、作品を正しく見ようではないか
国指定の重要文化財は、現在、美術工芸品では1万件以上あります。その多くは古い時代のもので、明治以降の絵画・彫刻に限ると、51件しかありません。そのうちの13点(寄託作品も含む)が、東京国立近代美術館に所蔵されています。 最近では、2011年に上村松園《母子》(1934年)と、安田靫彦《黄瀬川陣》(1940‐41年)が新たに指定されたばかりです。これらの貴重な作品は通常、保存の観点から1年のうちに会期を分けて少しずつ展示されますが、今回は60周年を記念して、まとめて一度に公開します。60年間のコレクションの精髄に触れる、またとない機会です。
(CNN) スペインの教会の柱に描かれていた120年前のフレスコ画が、高齢の一般信者の手で「修復」されて原画とは似ても似つかない状態になっているのが見つかり、地元で騒ぎになっている。 「修復」が行われたのは、スペイン北東部ボルハの教会にある19世紀の画家エリアス・ガルシア・マルティネスの作品。いばらの冠をかぶったキリストの肖像が描かれていた。 ボルハの地域研究センター職員がこの作品を写真に収めようと教会を訪れて異変に気付き、「驚愕した」という。 「修復」を手掛けたのは教会員のセシリア・ヒメネスさん。地元メディアの取材に対し「頼まれたからやっただけ」と話している。作業は堂々とやっており、ほかの信者たちも見ていたが、誰も止めようとしなかったという。 変わり果てたその姿に、地元に住むガルシアの孫のテレサ・ガルシアさんは「作品が破壊されてしまった」とショックを受けている。 作品を元通りにできる手段
Foaling around The Junier's horse is painted in Rousseau's characteristic Naive style, its spindly legs out of proportion with its body. Who are these characters? These are Henri Rousseau's neighbours, the Junier family, who ran a grocery near where the artist lived in Paris. Rousseau is sat to the right, wearing a straw hat! A very good boy Rousseau often populated his scenes with exotic animals,
フィレンツェでの商業の発達は、読み書き算術の学問を広げていった。そしてエリートたちが生まれ学問・芸術は頂点へと向かう。リナシタ(再生)の時代。フィレンツェは新しいアテナイであったが、キリスト教徒でもあった。古代ギリシャ・ローマの古典とキリスト教を融和させていきながら、再生ではなく、近代人を生んでいった。
至極真っ当なバロック美術の入門書である。もともとバロックは「歪んだ真珠」を意味する言葉であり(パノフスキーの興味深い異説はあるが)、17・18世紀芸術への悪口とも言える言葉であった。美術史家ブルクハルトもその友人ニーチェも、バロックをルネサンスよりも低いものと見なした。バロックをルネサンスとは別の価値を持つ芸術のムーブメントだと規定したのは、ブルクハルトの後任としてバーゼル大の教授となったハインリッヒ・ウェルフリンである。ウェルフリンはルネサンスの均整の取れた芸術とバロックの過剰に美的な芸術を比較しつつも、その双方に別々の価値を与えた。以後、バロック芸術は再評価されることとなり、またモンテヴェルディ~ヘンデルに至る西洋音楽も美術のように「バロック」と呼ばれるようになった。 著者はバロック美術を、映画のような大衆への芸術的な宣伝の先駆と見なしている。宗教改革の「憂き目」に会い、自らの正当性を
→紀伊國屋書店で購入 美術館が攻撃的で暴力的だなんて感じたこと、ある? 現在、大新聞の文化欄の過半がミュージアム(美術館/博物館)の催事案内で埋まっている。落ち目と言われる人文方面でも、いわゆるミュゼオロジー、展示の方法論・社会学だけは、美術史を巻き込む形で、ひとり元気に見える。我々の文化がほとんど無自覚・無批判に「美術館」と「博物館」に分けて対峙させてしまった西欧的「ミュージアム」とは何か、コンパクトに通観した傑作を、日本人が書いた。ミュージアムの歴史の中では典型的な非西欧後進国である日本だからこそ、「コレクションの制度化」をうむ「西欧イデオロギー」をきちんと相対化できた、画期的な一冊である。 そういう本である以上、キーワードが「帝国」であることはすぐ想像できるが、何となくというのではなく、「ミュージアムの思想」そのものがいわば「文化帝国主義」と同義であるという指摘と、我々がイメージする
美術作品によく「無題」とタイトルがついているのはなぜか。 表現とタイトルの狭間-「無題」とは何であるのか -煩悩是道場を読んで思ったことをつらつらと(引用箇所は、すべて同記事から)。 「無題」は芸術の中二病から始まった? 絵画・彫刻に限らず「無題」である理由は概ね以下の通りだ。 1.作家が意図的に表現に題を付けなかった 2.作家は作品を番号で呼称し、題と呼べるものは付けていない 3.作家が「無題」という題を付けた 4.作家は何らかの題を付けたが、題が何であるのかがわからない 5.作家が作品を完成させる前に何らかの理由で制作を中止するなどしたので題が存在しない 美術作品の展示の場合、1 では作家自らが「無題」とつけている場合と区別するために、「(無題)」、あるいは「(タイトルなし)」としているのを見たことがある。美術館で一律にそうかどうかは知らない。 普通は、まず本人か、本人が故人の場合は、
形の美とは何か スポンサード リンク ・形の美とは何か 形の美しさを理論的に解明する大胆な内容。 著者は、機能美と装飾美、具象と中小、定形と非定形、自然と人工、理念と現実など、原始時代から現代までの東西の美の歴史にあらわれた美の構成要素を見直し、ひとつの大きな構成原理の体系にまとめあげた。 そして西洋の黄金比やシンメトリーの美、日本の等量分割やルート矩形の美などを分析して、人間の美的感性の本質を、美の中に数理性を見出す人間の能力だと指摘する。「私たちには、ものごとを秩序づけて見ようとする傾向が根強くあるため、自然の中にある規則性を知覚すると、いつも本能的に驚いてしまうのである」(E.H.ゴンブリッジ「装飾芸術論」)。数理性を基本とする定形は再現しやすいので、美術の伝統に繰り返し使われるようになったという。 自然の美は非定形であると 長い間考えられてきたが、現代のフラクタルやカオス、複雑系の
→紀伊國屋書店で購入 現代アニメの描画法もマニエリスムの末裔と知れた 『十六世紀文化革命』(〈1〉/〈2〉)、そして『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』と読み継いで、知識と絵、というかグラフィズムとの関係が、ルネサンス、とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチ[以下レオナルド]の知的営為にとって究極のポイントであることがよくわかった。その場合、絵というのはいわゆる美術絵画でなく、アトランティコ手稿をはじめとする手稿約8,000点の紙面上に溢れるインクやチョークによる厖大なデッサンなのだが、上ニ著とも別にそこに焦点を当てて一意専心という本ではないから、そうしたデッサンの振る舞いがモノカラーの小さい説明図では理解しきれない。そこを完璧に補ってくれるすばらしい一冊が、上ニ著と同じタイミングで邦訳刊行された『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』である。「数あるレオナルド本とは一線を画する内容の広がり」を序文に誇るが、
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