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第3回 家庭人ショスタコーヴィチの選択 ~交響曲第5番に聴く「愛の旋律」?~ 唐突だが、私は今年で31歳になる(1999年現在)。昨年結婚もした。 ところで、私の尊敬する作曲家ショスタコーヴィチは、1937年、最高傑作と見られる交響曲第5番を完成させた。まさに31歳であった。 題名すら知らなかった小学校高学年の頃より、すでに20年のつきあいとなる、この作品を鑑賞しながら、思考をめぐらすのもなかなか感慨深い今日この頃である。 さあ、例によって、また、根拠薄弱な、「曲解」が始まろうとしている。31歳のショスタコーヴィチについて、31歳を目の前にした私が何を思ったか、綴ってゆこう。 <1> 交響曲第4番撤回の謎 交響曲第5番を語る上で絶対はずせないのが、作曲の1年前の出来事、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」及びバレエ「明るい小川」のプラウダ批判(共産党機関紙上の公的批判。彼には「人民の敵」の
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■マーラーのこと グスタフ・マーラーは、1860年7月7日、ボヘミアのカリシュトという小さな村(プラハとウィーンの中間でプラハ寄り。現チェコのカリシュチェ)で、ユダヤ人商人の家に、12人兄弟(14-15人いたらしいが幼少で死亡)の2番目として生まれた。2歳の頃にはすでに数百の民謡を覚えていたなど非凡な音楽的才能を示すとともに幼少期から音楽教育を受けた。民謡を多く聴いた環境は、本日の交響曲第1番だけでなく、マーラーの全曲にわたり大きな影響を及ぼしている。 1883年ドイツのカッセル王立歌劇場指揮者となって名声を高め始めた翌年、第1番の作曲に着手、1888年に完成した直後の28歳でブダペスト王立歌劇場監督、翌年自らの指揮で初演を行う。この年には両親の死など不幸にも遭う。また、ウェーバーの孫の夫人マリオン・ウェーバーと恋仲となるが、その後人間関係、自身の健康状態にも問題を抱えていく。まさにこれか
シューマンのオーケストレーションをいかに料理するか シューマンのオーケストレーションに問題があるというのは、昔から指摘されていたことだが、まずシューマン(1810年生~1856年没。今年は没後150年)の前後で交響曲や管弦楽曲で名が挙がる大作曲家を生年順に並べてみよう。 『18世紀生れ』 ハイドン(1732) モーツァルト(1756) ベートーヴェン(1770年) ウェーバー(1786) シューベルト(1797) 『19世紀生れ』 ベルリオーズ(1803) メンデルスゾーン(1809) ★シューマン(1810) リスト(1811) ワーグナー(1813) ブルックナー(1824) ブラームス(1833) この中で、普通「オーケストレーションが上手い」とされるベルリオーズ、ワーグナー、ウェーバー、メンデルスゾーンは、いずれも時代を代表する指揮者として活躍した人達だ。一方
昔の常用漢字は、爺あって婆なし、なんて言われてた。爺さんとは書いて良いのに、婆さんは婆が常用漢字ではないので、ばあさん、と書かなければならなかったとか。フルトヴェングラーの復帰演奏も、1947年録音と言えば、こちらが最初に出た事もあってか、普通は5月27日のほう。5月25日の方は、1980年代の初めだから20年近く遅れた。 せっかく両方の録音が残っているのだから、27日あって25日なしでは寂しい。この時の演奏会は、アメリカのRIASが主催したのだけれど、この時代はまだ冷戦の初期のようで、そんなに東西対立は深くなかったみたい。 27日の演奏は、実質的にソ連の占領地区の会場で、録音担当も東ドイツだった模様。調べてみたら、マスターテープは、東ドイツの放送局が持っていた。 会場が違う事もあるし、現場の録音は違うエンジニアでないだろうか。戦前のマグネットフォンの延長線で、同じドイツ人同士ではあったけ
交響曲第6番「悲愴」の下書き(スケッチ) チャイコフスキー最後の大作であり、その独創的な終楽章をはじめ、彼が切り開いた独自の境地が示され、19世紀後半の代表的交響曲のひとつとして高く評価されている。 副題については、弟モデストが1893年の初演の翌日に自身が「悲劇的」という表題を提案したが、作曲者はこれを否定し、次に弟が口にした「悲愴」という言葉に同意したと伝えているが、これはモデストの創作で事実ではない。実際は自筆譜、楽譜の出版をしていたピョートル・ユルゲンソンがチャイコフスキーに送った手紙で「《第6悲愴交響曲》よりも《交響曲第6番 悲愴》とするべきだと思います」と書いているなど、少なくとも曲が完成した9月には作曲者自身がこの題名を命名していたことが分かっている。また初演のプログラムに副題は掲載されていないが、チャイコフスキーがユルゲンソンに初演の2日後に送った手紙で「Simphonie
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■ハンマーを巡って 『悲劇的』が演奏されるとなると、そこには必ずそのオーケストラ独自のハンマーが登場する事になる。楽員そして聴衆の感嘆・呆然・失笑が渾然一体となった束の間の賞賛を浴びては忘れ去られるこの「楽器」は、言うなれば死と再生を繰返しながら、着実に巨大化の道を歩んできた。 確かに最終楽章の大音響の中でこのハンマーの効果を引き出す事は難しい。そこで音量を補強する手段としてハンマーの質量増大が図られる。これは人類の限りない欲望の肥大と同様に、不可逆的な道筋となって久しい。前回よりサイズを小さくしましょうという声は、世界中の核兵器を廃絶しましょうというに等しく、誰もその実現を信じていない。どこのオーケストラがどんなハンマーを使い、いかなる末路を辿 たどったかも耳に入る。かくしてハンマーの大型化は更に加速され、それはひとたび振り下ろされるや、人間の運命の変転よろしく奏者のコントロールを離れて
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