創刊当時より、ほぼ日刊イトイ新聞にいろんなかたちで関わってくださった岩田聡さんが、7月11日、永眠されました。岩田さんがご登場くださったたくさんのコンテンツを、いま、読みたい方も多いかと思いますので、代表的なものをまとめました。ご冥福をおいのりいたします。
![岩田聡さんのコンテンツ。 - ほぼ日刊イトイ新聞](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/f9fd67abe7dd9618fa48596611ee545430453d0b/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Ffanyv88.com%3A443%2Fhttps%2Fwww.1101.com%2Fiwata20150711%2Fimages%2Ffb_image.png)
任天堂の代表取締役、岩田聡さんが亡くなられたというニュースを見て、非常にショックを受けています。あまりにも偉い方になられていたので、もう長年お会いしたことはありませんでしたが、引退されたら久しぶりに昔話でもしに遊びに行こうと思っていたからです。 岩田さんに初めてお会いしたのは、1982年の8月だから33年も前のこと。岩田さんが23歳の新入社員だった時代です。 高校2年生とプログラムを共同開発 高校2年生だった私は、夏休みを使って当時のパソコン、NECのPC-8001用にサウンドボードを開発し、それを駆動するためのプログラムを作ったのです。自画自賛ですが、とてもよくできたので、雑誌で見かけた会社に連絡をし、買い取ってもらえないか交渉をしていました。 5社ほど面談に行った会社の中で、第一希望だった会社がHAL研究所。5~6人の小さな会社で、そこで対応してくれたのが岩田さんでした。 結果的に、H
2010年4月に入社した任天堂を1月末をもって退職しました。 今までの振り返りとこれからについて、自分の中での整理もかねて、流行の退職ブログぽく書きます。色々書いてたらくそ長くなりました。 4年前の決断 ちょっと昔に遡りますが、4年前、僕は人生の中でも大きな決断を強いられていました。「任天堂に入社するか?渋谷にある会社に入社するか?」です。色々な人にも相談をしましたが、7対3くらいで任天堂が勝っていたような気がします。そして、最終的には任天堂に決めました。決め手となった理由は、「自分の好きなことを仕事にしよう」と考えたからです。社会人になってから知り合った人は意外と知らなかったりするのですが、僕はテレビに出てマリカー64で優勝しちゃったり、FF13を2日間徹夜でやっちゃったりするくらいのゲーマーです。大学受験のときも息抜きにゲーセンに通い、アメリカ留学してたときも現地でPSPとDSを買って
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