U2が、ラスベガスで『アクトン・ベイビー』レジデンシー発表。没入型新会場が前代未聞の最新技術。スピーカーもない?! ボノは現在NYでその逆の1人ライブ開催中で観てきた。 U2がラスベガスに建設中のThe Sphere(天体)と呼ばれる画期的な新会場で、9月29日から『アクトン・ベイビー』レジデンシーライブを行うと発表した。キャパは2万人で、当初5日間で発表。そりゃないだろうと思ったら、早速追加して現在計12日公演=約24万人となっている。チケット発売後にまだまだ増やすと思う。 『アクトン・ベイビー』は、1991年に発売されたので、30周年は厳密には2021年だが、ご存知のようにパンデミック中でツアーはできなかったので、今年になったのだと思う。また、ボノがApple Musicのインタビューの中で語っていたけど、『ヨシュア・トゥリー』の際は、世界ツアーをしたけど、『アクトン・ベイビー』は、こ
2023.08.09 NHK水戸放送局のロック・イン・ジャパン2024 ひたちなか開催の報道について、私たちは強く抗議します。 とても残念です。たくさんの方の協力をいただきながら積み重ねてたプロジェクトが、とてもぞんざいな扱いを受けて報道されたことに怒りを感じます。 僕にとって周年にひたちなかでロック・イン・ジャパンを開催することは悲願でした。 凄く時間を掛けてすすめて来たプロジェクトです。 NHKへの抗議メールにも書きましたが、いろいろな調整を経て決めた開催発表の日程でした。何度もNHKには開催発表を公式と揃えることをお願いしましたが、全く聞いてもらえませんでした。 公式と同時に発表し、開催を祝ってほしい。僕の望みはそれだけです。そんなに緊急性のあるニュースなんでしょうか?確かに話題にはなるでしょう、でも本当にフェスを盛り上げるなら同時発表の祝祭感を作って欲しかった。 何度もリークはやめ
入院にしている母の90歳の誕生プレゼントに、白と黒のうわっぱりをあげたら「意外に地味な色だね」と言って笑った。でも気に入ったようで「退院したら家で着れるよ」とベッドの脇にちょこんと座ってうわっぱりをなでていた。 僕はロックを生業としているけれど、その日常が他の一般的なお仕事の方々とさして変わらない面が多いことにたまに茫然とする。母の年齢的に言って、退院後に自宅ではなく、介護施設的なところに入ってもらう可能性もあり、その事を告げる役どころは、兄はもう死んでいるから、次男の僕になるのだ。今まで何度も大規模会場で何千人の前で「もう一回、行ってみるかぁ!!」なんて平気で話しかけてきたけれど、病院の大部屋の隅でたった一人に「あ……お母さん、実は……」と声をかけることがこんなにもためらわれる。 ※10月上旬に書籍化決定 続きは書籍でお読みください
歌詞の真の意味を探る回。取り上げたのは山崎まさよしの「One more time, One more chance」 この曲は山崎まさよし4枚目のシングル。山崎まさよしはキティのオーディションで91年、20才の時に上京。しかし、そのオーディションは最終選考の直前に俳優オーディションだと分かり、仕方ないので歌を一曲歌う。審査員の反応が良くてもう一曲。そのまま山口へ帰る。しばらくしたらキティの音楽部門の人から電話が掛かる。その人がキティの音楽ディレクターの穂苅太郎さん。穂苅さんは山崎をデビューさせようと尽力したが、キティの業績不振でデビューは出来なくなる。穂苅さんはキティを辞めて他のレコード会社へ山崎を売り込み、上京から2年後デビューが決まる。 https://twitter.com/id_hoven/status/664821538189807616:twitter:detail:left
この件については、既にご存じの方も多いと思います。 念の為、経緯を簡単に振り返ってみましょう。 2023年6月30日、スマイルカンパニーとのマネジメントの業務提携契約が中途で終了したことをTwitterで報告した[2]。 ジャニー喜多川の性加害問題に際し、松尾がメディアでジャニーズ事務所および同事務所社長の藤島ジュリー景子について触れたことが原因だとし、同じくスマイルカンパニー所属の山下達郎と妻の竹内まりやも松尾との契約解除の方針に賛成したと述べた[3][4][5]。 松尾は『日刊ゲンダイ』で連載しているコラム「メロウな木曜日」の2023年7月6日発行号掲載分で経緯を明らかにした。 それによれば、藤島の公式見解を受けて、出演したラジオ番組で見解や提言を示したところ、スマイルカンパニー社長の小杉周水[注 2]に呼び出され、松尾の意見は正論だとした上で、ジャニーズ事務所や藤島の名前をメディアで
リスナーとパーソナリティーの「共犯関係」を保ちながら、あらゆる方向への配慮も欠かさず、いかに価値観をアップデートしていくか。筆者もラジオ好きなので「世知辛くなったな」とさびしくなるが、これも情報化社会の宿命なのだろう。 「わかる人だけ、わかればいい」という時代ではない 山下さんは以前から、サブスクリプション(定額課金)の音楽配信サービスに、自身の楽曲を出さないスタンスを示している。各所での発言を重ねると、その理由がサブスク業界に現状、収益構造や権利関係の課題が残っていることにあると読み取れる。 しかし、サブスク解禁に否定的な姿勢に、コメント冒頭の「SNSやってない」発言がかけ合わさってしまうと、「ただ単に『デジタル嫌い』なだけでは」といった、ネガティブな印象を与えかねない。 経緯説明の仕方も、両者への印象をわけた。松尾さんのコラムからは「アーティスティック」と感じる一方、山下さんのコメント
常磐津の流紋(定紋)『角木瓜』 常磐津の流紋(替紋)『松皮菱』 常磐津節(ときわづぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される[1]。流派として常磐津と呼称される場合と、伝統芸能の1ジャンルとして常磐津(常磐津節)と呼称される場合があるが、一般的には同義として用いられている。また、芸能としての常磐津節は重要無形文化財に指定されている。 初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に、師匠であり養父の宮古路豊後掾と共に語った豊後節より創設した[2]語り物の浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた「オトシ」と呼ばれる独自の旋律技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれている[3]。また、その劇性の高さから江戸時代の歌舞伎芝
音楽プロデューサーの松尾潔氏(55)が10日、自身のツイッターを更新し、この日放送の日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」からシンガー・ソングライター山下達郎(70)の音楽プロダクション「スマイルカンパニー」との契約終了をめぐる問題について寄せられた質問と、それに対する答えを投稿した。 松尾氏は「ミヤネ屋で、山下達郎さんのラジオ発言に関する3つの質問にお答えしました。メディア10数社からの取材依頼に応じたのは今回が初めて。番組側が『自筆テキスト、切り取りなしの全文紹介』の条件を呑んでくれたからです」と説明したもの。 また、その後「ぼくは達郎さんを敵対視なんてしてませんから!絶大な影響力のあるカリスマミュージシャンに、子供たちが不幸にも性犯罪や性暴力の被害者になった時、『声を上げてもムダ』と諦めずにすむ社会を一緒に目指しましょうよ、とご提案しているのです」とつづっている。 松尾氏は1日、自身の
この前の関ジャムで、奄美大島特集やってました。 奄美と沖縄の違い、奄美にまつわる話もあったりして面白かったー okmusic.jp 奄美大島の一文字苗字問題は、1700年代の話で、1875年の平民苗字必称義務令により全ての国民が苗字を名乗ることを義務化され、そのまま1文字で名乗ったり、2文字3文字に戻したりだったらしい。#関ジャム#Wikipediaすごい ← — みさみさ (@red_kanako712) August 9, 2020 奄美の音楽と関係ないけど、話の中で気になったのが奄美大島には一文字苗字が多いことに関する話。 サバンナ高橋:「奄美の方、苗字がめっちゃ特徴的。1文字で独特読ませが多いですよね(笑)」 元ちとせ:「奄美は1文字苗字が多いです。」 城南海:「歴史的に1文字にする時代があった。」 安田章大:「ぼくもそうですもん、だって、もともと「安」ですもん。だけど、市役所にお
おだやかな時間をこよなく愛して生きてきた。そんな自分が、55歳にもなって週刊誌記者に初直撃されようとは。ちっともメロウじゃないなぁ。短い、でもそこそこ長い人生には、時として想像もつかぬ場面が待っていることを思い知った。 きっかけは、先週土曜(1日)のツイートだ。 「15年間在籍したスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になりました。私がメディアでジャニーズ事務所と藤島ジュリー景子社長に言及したのが理由です。私をスマイルに誘ってくださった山下達郎さんも会社方針に賛成とのこと、残念です。今までのサポートに感謝します。バイバイ!」 これがバズった。3日間で表示は何と2800万回を超えた。関心の矛先が向けられたのはまず、スマイルカンパニー(以下、SC)とジャニーズ事務所(以下、J)の関係だったようだ。次が達郎さんだろうか。 ツイートから24時間以内に、ぼくのもとには10社を超えるメデ
平井堅、CHEMISTRY、JUJUなどを手掛けた音楽プロデューサーの松尾潔氏(55)が1日、ツイッターを更新。ジャニーズ事務所の性加害問題に言及したことが遠因となり、所属していた事務所とのマネジメント契約が終了したことを報告した。 松尾氏は「15年間在籍したスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になりました。私がメディアでジャニーズ事務所と藤島ジュリー景子社長に言及したのが理由です」と報告。音楽ライターとしての顔も持つ同氏は、騒動となっているジャニーズ事務所の性加害問題に関して、事務所側やメディアの姿勢についてラジオなどのメディアで鋭い分析を行っていた。 さらにツイッター上には「私をスマイルに誘ってくださった山下達郎さんも会社方針に賛成とのこと、残念です。今までのサポートに感謝します。バイバイ!」とつづっている。 スマイルカンパニーにはミュージシャンの山下達郎や山下の妻・竹
Mummy-Dが、自身のターニングポイントや人生を変えた出会いについて語った。 Mummy-Dが登場したのは、6月10日(土)に放送されたJ-WAVEの番組『BLUE IN GREEN』(ナビゲーター:甲斐まりか)のワンコーナー「LIFE WITH GROOVE」。 Mummy-Dは初のソロシングル『同じ月を見ていた feat. ILL-BOSSTINO』を5月31日にリリースした。 Mummy-D - 同じ月を見ていた feat. ILL-BOSSTINO (THA BLUE HERB) (Official Music Video) 麺が大好物のMummy-D この日の番組テーマは「冷たい麺」ということもあり、甲斐はまずテーマに沿った質問を投げかけた。 甲斐:今日番組では「冷たい麺」をテーマにお届けしていまして。 Mummy-D:いいですね。 甲斐:お好きな冷たい麺はなんですか? Mum
studio BREAK 矢野 淳 @animation_1962 @dhBGGFoCRYyPo4u 利便性を高めるためだから手数料もやむなし の意見もあるようですが、それなら使われる側(店舗)からではなく使う側から手数料をとるべきだし店舗にはメリットないょ とPayPayの営業マンに言うと◦◦◦最近よく言われます😓 と言って 引き上げていきます^_^ 2023-06-26 22:18:57 まらりん@ヘビー級お荷物社員 @mararin_bottom @animation_1962 @dhBGGFoCRYyPo4u 「キャッシュレスにしてから、現金管理の手間や、両替・振り込みなどのコストが減った。 キャッシュレスの手数料の方がマシ。」 という小規模個人店も見かけました。 (しかもその店は現金不可) 2023-06-26 22:55:03 筒井紀雄 @smartk13 @dhBGGFoC
TRF『TRF 20th Anniversary BEST SINGLE Collection × EZ DO DANCERCIZE (ALBUM+DVD)』(avex trax) 先日、新著となる『1995年』を出版した速水健朗氏。同書では戦後史の転機となったこの年の出来事を政治・経済・社会・文化と「横に読むこと」に試みている。前回のインタビュー『速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」』では当時の東京における音楽シーンについて語ってくれた彼に、今回は地方の状況とヒットチャートの関わりについての話を中心に訊いた。 ――1995年に最も売れたシングルはDREAMS COME TRUEの『LOVE LOVE LOVE』でした。 速水健朗(以下、速水):ドリカムは出てきたときと売れてきたときで印象が異なる存在で、「うれしはずかし朝帰り」で出てきた時は
ベリー・ゴーディー・ジュニア(Berry Gordy, Jr.[1]、1929年11月28日 - )は、モータウン・レコードやその関連レーベルの創業者として知られる、アメリカ合衆国の音楽プロデューサー、実業家。 マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーなど多くの大物アーティストを発掘した。 ベリー・ゴーディー・ジュニアは、ミシガン州デトロイトで、8人兄弟の7番目の子供として黒人中流家庭に生まれた(ゴーディー・ファミリー(英語版))。父は、息子との対比でベリー・ゴーディー・シニアと呼ばれることもあるベリー・ゴーディー2世(Berry Gordy II、1888年 - 1978年)、母はバーサ・フラー・ゴーディー(Bertha Fuller Gordy)で、一家は1922年にジョージア州ミレッジビル(英語版)からデトロイトへやってきた[1]。ゴーディーは、強い絆で結ばれた躾の厳しい家庭で
少し前に、以下のツイートを目にした。 For You がリリースされた頃、山下達郎は今のようにリスペクトされる存在ではなく、一般リスナーにとっては「流行り物」で、頭でっかちの音楽好きにとっては「チャラチャラした音楽」と捉えられていたことは、ポップミュージックの受容の歴史としてきちんと記録に残しておいた方がいいと思う。— Andy@音楽観察者 (@andymusicwatch) May 14, 2023 当時のミュージックマガジンのレビューでの評価が典型的ですよね。 https://t.co/Rvj2l5r2pE— Andy@音楽観察者 (@andymusicwatch) May 14, 2023 このあたりについて参考になる山下達郎のインタビューを参照してみたいと思う。 というわけで、1989年から2004年まで読者だった rockin' on のバックナンバーを引っ張り出す「ロック問はず
1980年、伊丹哲也&Side By Sideのメンバーとして「街が泣いてた」で第19回ポプコングランプリ、第11回世界歌謡祭グランプリを受賞し、プロデビューする(第11回世界歌謡祭には杉山清貴、海外からクリストファー・クロスなども出場している)。 1987年からチャゲ&飛鳥(現:CHAGE and ASKA)のツアーに参加。1988年5月21日発売のシングル「ラプソディ」でチャゲ&飛鳥のアレンジャーとして初クレジットされる[注 1]。同年発売の飛鳥涼(現:ASKA)のソロアルバム『SCENE』も手がけ、翌1989年「LOVE SONG」を担当。1991年に編曲した「SAY YES」が280万枚を超える大ヒット[1]。そして1993年には「YAH YAH YAH」が240万枚を超えるヒットとなり[1]、その後もclass「夏の日の1993」、岡本真夜「TOMORROW」など数多くのミリオン
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