ビート・ミュージックとはエレクトロニックなダンス・ミュージックをEDMと呼び習わすのと同じで、ビートがある音楽の総称だとするとなにもいっていないにひとしい。音楽にはビートがつきものだし、ビートは時間ではなく空間の分割なのだとしたら、空間があればそこにビートは存在し、空間がなければ音楽は鳴らないのだから、音楽にはすべからくビートの影がともない、沈黙の空間にさえも音楽が、いいかえれば、不在のビートが潜んでいる、とケージなら禅問答さながらの返答をしないともかぎらない。つまりビート・ミュージックは形式ではなく、リズム自体ないしリズムの差異が形式を異化する状態を指すのであり、フライング・ロータスであろうがマーク・ジュリアナであろうがジャンルは問わない、というよりむしろ、ビートの原理でつながる音楽のネットワークと見るべきではないか。 相対性理論にとって見逃さない手はなかった。というと、あたかも彼らが機