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憲法記念日なので昨日に引き続き憲法の話をする。 憲法記念日になると「改憲派」と「護憲派」が集会を開いて、それぞれの主張を述べるというのが年中行事になっている。夜のニュースでは必ずその話題が出るんだな……。以前は「改憲派」なんてものはよほど頭の悪い右翼か何かだと思っていたけれど、最近はどうも改憲派の方が威勢がいいようで、護憲派は旗色が悪い。まあこれも時代の流れだね。 僕自身は「憲法は時代に合わせて内容を修正すべきだ」と考えているのだが、その最大のものは「現行憲法のあの言葉づかいの古めかしさと翻訳口調の表現の回りくどさは何とかならんのか!」という話で、内容云々はその後の話だと思っている。同じ憲法条文を同じように読みながら、「自衛隊は合憲だ」「いや違憲だ」と正反対の意味に取れてしまうようなら、それはもう権力を縛る憲法としての役目を果たしていないんじゃないだろうか? 僕は憲法改正論者だ。ただしその
怒らない人生が欲しい人に。 マスゴミ、経済学者、暴走老人と、世に怒りの種は尽きまじ。新聞読まないのは心の平穏のためだし、オフィスではひたすら平常心、妻の罵倒は御褒美です。それでも「イラッ」とくる瞬間が怖い。いったん怒りのスイッチが入ったら、どんどんエスカレートして逆上するから。そして、ずっと後になっても何度となく思い出してはネチネチ自分を責めるハメになるから。 なんとかせねばと読んだのが『怒らないこと』、これは素晴らしい本だった。なぜなら人生変わったから。「一冊で人生が変わる」ような軽い人生なのかと言われそうだが、違う。「怒り」の悩みは常々抱えており、ガン無視したり抑圧したり、王様の耳はロバの耳を繰り返してきた。上手くいったりいかなかったり、アンガー・マネジメントはかくも難しい。だが、そういう苦悩を重ねてきた結果、この一冊をトリガーとして一変させるだけの下準備になっていたのだろう。とにかく
私、お酒を一滴も飲めない完全な下戸なんですよ。しかし、身長183センチで横幅もあり、むさくるしい顔をしているせいなのか何なのか、よく「酒豪でしょ?」と勘違いされます。 「見た目、めちゃくちゃお酒強そうなのに」と数え切れないくらい言われました。飲み会では店員がジョッキを真っ先に私のとこに置きます。俺はジンジャーエールやっちゅうねん。 酒豪イメージと勘違いされる私ですが、ここ最近、もう1つ「根強い勘違いイメージ」が発生し始めました。そう、Ingressです。 オフ会やTwitterで「え? りくまさん、Ingressやってないんですか? うわー意外。絶対にIngressハマってるイメージあったけどなぁ」みたいな感想を数多く聞きます。ハマってるどころか、1秒もやっとらんのぢゃ。 だからIngress用語でボケを振られても、ツッコミ返せないどころか意味分からんので反応もできない。 聞いた話では、I
2014年の「新書大賞」に藻谷浩介とNHK広島取材班の『里山資本主義』が選ばれた。「日本経済は安心の原理で動く」と副題にあるが、里山の木質バイオマスを利用すると、安心な社会と経済が実現するのだろうか。藻谷は「マッチョな経済」との言葉で経済成長を否定し、里山資本主義を推しているようだが、その結果、実は安心が失われることに多くの読者は気づいていない。だから、新書大賞に選ばれたのだろう。 菅直人元首相と民主党のマニフェストを覚えておられるだろうか。「最小不幸社会の実現」だった。里山資本主義が目指しているのは、最小幸福社会とまでは言わないが、少なくとも「最大幸福社会」ではない。藻谷の『デフレの正体』と同様に、著者の主張には経済の観点からみると危うい点がいくつもある。「やくざな経済」から「かたぎの経済」へと言い、リフレ論などを「数字の裏付けや論理的分析を欠いたまま出てきている」と批判しているが、その
長崎市で2003年7月、中学1年の男子生徒が幼児を商業施設から連れ去って殺害する事件が発生し、04年6月には佐世保市でも、小学6年の女子児童が校内で同級生をカッターナイフで切りつけ、失血死させる事件が起きたためだ。 両事件を受けて、県教委と佐世保市教委は、毎年それぞれ「長崎っ子の心を見つめる教育週間」「いのちを見つめる強調月間」として、命の大切さや規範意識に関する授業を集中的に行う期間を設け、学校ごとに講話や授業参観、地域交流などを実施してきた。 それだけに、同県の教育関係者は大きなショックを受けている。 池松誠二・県教育長は「命を大切にする教育に努めてきたが、このような事件が発生し、痛恨の極み」とコメント。また、佐世保市の女児殺害事件当時、市教育長だった鶴崎耕一・県教育委員(66)も「事件から年月が経過し、『二度と同じ悲劇を起こさせない』との思いが次第に薄れ、子供らに伝わりきれていなかっ
文部科学省は「教育改革」の一環として、「六三制」の見直しを志向しているようです。発表されている資料などから浮かび上がるのは、俗に言う「小1プロブレム」や「中1プロブレム」というように、現在の学制が子どもの発達段階に合っていないという仮説に基づいて、次のような改訂を行うという方向性です。 一つは、6歳からの小学校進学を1年繰り上げて5歳から義務教育の小学校のシステムに乗せるということ、もう一つは思春期の到来の早まりに対応するために、現在の5年生以上は小学校から切り離し、場合によっては中学に進めるという考え方です。仮にそうなれば、「六三制」ではなく「五五制」になるわけです。 例えば、小学校入学の繰り上げをやらないで、中学進学だけを早めるのであれば「四五制」とかあるいは「五四制」などもあり得るということで、場合によっては地域事情によってバリエーションが出てきても良いという考えも出てきています。
今週のコラムニスト:スティーブン・ウォルシュ [5月27日号掲載] 私は4人の子供を地元の公立学校に通わせている。だから学校教育に関する議員や教育委員らの意見が気になるのは父親として当然のことだ。 私が住む県で最近、新1年生を担任する高校教師が入学式を欠席し、自分の子供の入学式に出席するという出来事があった。この選択に対する県議や教育委員会の反応に、私は違和感を覚えた。 教師が欠席した入学式に来賓として来ていた県議は、「担任の自覚」や「教師の倫理観」を問題にした。教育委員会の担当者は「教員としての優先順位を考え行動する」ように求めた。 近所に住むフランス人の友人は子持ちではないが、この反応にひどく失望していた。日本の出生率が低いのも当然だ、と彼は怒って言った。「職務は家族より大事というのが行政の公的立場なら、子供を持つ親が増えるわけがない」 日本人の倫理観の根底にあるのは、義務や役割を果た
性犯罪というのは、一度おこると処理が難しい。たとえば、強姦犯を死刑にしたとする。これが被害者の救済に繋がるかと言えば、そうとは限らん。「加害者は処刑されました。殺人と同等の凶悪犯罪を犯したからです。つまり、レイプの瞬間、あなたは人格的に死にました」というメッセージが自動的に発信されてしまう。 刑罰の軽重を被害の重大さで設定する文化では、極刑は致命的被害の証拠。イスラム圏のように「神を裏切ったから死刑」という、別の論理があればで便利やけど、近代国家の刑法体系では無理な話やろ。 同じ凶悪犯罪でも殺人・強盗・傷害・放火は、被害の程度が可視的やから、こういう問題はおきにくい。ところが、性犯罪の被害は抽象的や。仮に宇宙人が地球上の全女性をアブダクションして検査しても、そのうち何人が性被害経験者かを推定するのは無理やろ。物理的な痕跡はないんやから。事件は現場でおこっているんじゃない。被害者の心の中でお
2014年04月03日10:00 カテゴリ社会一般日本の社会 調査捕鯨裁判に思うこと 私が小学生の時、給食で鯨肉が時々出てきました。これが実は苦手で噛んでも噛んでも噛み切れず、それ以来鯨肉嫌いになりました。1951年の調査によると「小学生が学校給食で嫌いな肉として挙げたのは豚肉16%、牛肉7%、鯨肉23%で、鯨肉を嫌いと挙げている小学生が突出して多い」(ウィキペディア)ようです。 記憶をたどる限り、小学校の給食以来鯨肉を口にしたのは1度か2度。それもどこかの接待で自己の意志で注文したものではありません。多分ほとんどの現代人は鯨肉を食べることすら知らないのではないかと思います。鯨肉が日本で急速に普及したのは戦後の食糧難の際に牛肉や豚肉に変わるたんぱく質を確保する目的でありました。 では日本が昔からクジラを食料としてだけの位置づけかといえばそうではなく、むしろ「漁業神や漂着神・『寄り神信仰』と
一票の格差の裁判がよくニュースになっているので、気になって投稿いたします。 岡山の裁判で違憲の判決が出たものの、対策として区割りをし直しても参議院の選挙では1回の選挙で人口の少ない1区に最低一人、3年交替で最低二人が必要とのことで、大都市では人数が膨大になるので数が合わせられないとのこと。 素人ながら、もっと簡単に解決しないのか、とても不思議です。どなたかにご説明いただきたく存じます。 私が考えた対策は、恒久的ではないにしても、暫定的に使用してはどうかという案です。 1.一票の格差はそのままにする。 2.国会議員一人当たりの国会での投票に大きな票数を持たせる。格差が5倍であれば、国会議員が国会で投票するときは5票を持つ。 一票の格差は、国民一人当たりの票が国会議員一人に対してどれくらいの票の価値があるかで比較したときに発生する差です。 ある地区Aで1000人に選ばれた議員一人と、他のある地
「働き方」を取り巻く環境には、科学技術の発展も大きく関わります。数十年前までなかったPCとインターネットが世界を、そして仕事の様相を変えました。次に来たるはロボットや機械の進化なのでしょうか。Kotaku JAPANのこちらの記事より、「機械化が進んだ未来でも働き口はある」という考察をお届けします。 工場の働き手がロボットに職を奪われ始めたのは20年、30年前の話。今やあらゆる分野で機械化が進み、専門的な仕事につく人々でさえ、のんびりとはしていられなくなってきました。 今この記事を書いている訳者も、機械翻訳がどうかこのままキテレツな翻訳文を作り続けてくれますようにと願うばかりです。 しかし「io9」によると、機械化が進んでも働き口の心配はいらないのだそう。今回はこれからの時代にぴったりな、人間にしかできない仕事をご紹介します。 ガイド/アドバイザー/コンサルタント 呼び方はいろいろあります
2013年11月30日17:40 カテゴリ法/政治 日本型メリトクラシーの終焉 アゴラの書評にちょっと補足。国家が土台で経済が上部構造だとすると、その土台を決めるものは何だろうか。バーマンは「広い意味での宗教や慣習」だと言っている。つまりキリスト教や儒教などの思考様式の違いが「国のかたち」を決め、それが経済を支えると考えることができる。 国家は、むき出しの暴力だけでは長期にわたって維持できない。大事なのは、その正統性をどうやって担保するかである。この問題に最初に直面した中国は、官僚を全国民から選抜するメリトクラシー(能力による統治)で解決しようとした。科挙の試験は、一つの会場に16000人もの受験生を集めて公開で行なわれ、その採点は名前を隠して筆跡もわからないようにすべて筆写し、厳正に行なわれた。 字も読めない民衆は、この試験を見て「あんなむずかしい試験を通った賢い人の言うことには間違いな
「『JAP』は差別用語? 単なる略称? 海外で話題に」と題するNewSphereのブロゴス記事を読んだ。 アメリカ最大手ソーシャルニュースサイトかどうか知らないが「レディット」なる物が「JAPは差別用語なのか? それとも単なる略称なのか?」等と下らぬ事を書き、「JAP」が単なる略称だと言う印象を与えるとしたら、曲学阿世のたわ言としか言い様がない。 ここまで書いて、なにはさておき。著者のNewSphereに罵詈雑言を浴びせた非礼をお詫びします。 私がこの記事の冒頭から「はしたない」言葉を使ったのは、「JAP」の語源に遡り必ずしも「差別用語」とは限らないと言う疑念を挟む事は、「間抜け」と呼んでから、その語源を紐解き「元々テンポの合わない」事を意味するだけで罵倒する意味ではないと解説するくらい下らないと強調したかった為です。 「JAP」が米国に限らず、国際的にも「蔑称」と見られている事には疑念の
小倉秀夫 @Hideo_Ogura 第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズは、法律書をもって宣誓。つまり、靖國と違って「何でもいい」んですよ。RT @arimoto_kaori: 「なぜ、聖書に手を置いて宣誓されるのですか? 政教分離の原則に反しませんか」と質問してるんでしょうか?(笑) 2013-10-03 17:58:36 小倉秀夫 @Hideo_Ogura モルモン教徒が大統領になったらモルモン経典をもって宣誓すれば良いし、イスラム教徒が大統領になったらコーランをもって宣誓しても良いし、共産党員が大統領になったら共産党宣言をもって宣誓しても良いんですよ。 2013-10-03 18:00:00
アゴラでの「デジタル教科書」推進の議論を引っ張っているのは中村伊知哉さんを始めとして多勢いるが、懐疑論者は数学者の辻元さんにほぼ集中しているように思えるので、先ずは辻さんの論点をよく咀嚼する事から始めるべきは当然だろう。辻さんの議論はこちらで一括して読める。 結論から言うなら、私自身は、辻さんが仰っておられる事の多くは正しいと思っており、現在多くの人たちが陥っている「ネット依存症」の問題点についても、実は相当憂慮している人間なのではあるが、だからと言って「デジタル教科書の導入は急ぐべきではなく、先ずは実証実験を重ねるべき」という辻さんの提案には組みさない。 「デジタル教科書」の導入は、先ずは特定の学校で今直ぐに行い、そこでの経験を通して、早急に「望ましい運用方法」を練り上げていくべきだ。他国の様な実証実験をこれまで本気でやってこなかったのは国の責任であるが、今更過去を振り返ってあれこれ言っ
最近、いろいろなビジネスを見るようになって、アメリカン・ドリーム方式っていうのは、じつによくできてるな、と思った。 小さな会社の経営から大国の統治に至るまで、大小様々な組織を運営するひとつの方法として、とてもよくできているのだ。 僕なりのアメリカン・ドリーム方式の理解っていうのは、こういうことだ。 出自や肌の色に関係なく、努力し続け、リスクを取って上手くいったやつは誰でも成功できる。 どこまでも成功できる。 億万長者だって、大統領にだってなれる。 だからこそ、このチャンスが平等に与えられる国で、みんな腐らずがんばれ、ということだ。 たとえば、スラム街の貧乏な家庭に育った黒人の子供も、奨学金を得て、一流大学に行き、世界的な企業に就職し、CEOにだってなれる。 起業して成功すれば、大金持ちになれる、誰だって大統領になれる。 そして、実際にそれは嘘じゃない。 アメリカ社会では、底辺から這い上がり
社会・一般 アゴラ、Yahoo個人、blogos、ハフポスト、などの読者の実体って何だろう? 他にもまともな言論サイトはあるのでしょうが、日本のネットでは僕は主に、上記タイトルで示した4サイトを毎日見ています。遠いイタリアにいて、日本語の論壇を自在に読めるというのは、今さらながらホントに嬉しく、凄いことだと感じます。 で、突然ですが、果たしてそれだけなのだろうか、というのがこのエントリーの主旨です。 私事で恐縮ですが、実は僕はここアゴラのほかにyahoo個人にも下手な記事を寄稿させていただいています。またblogosにも同じ記事が転載されたりもします。ぶっちゃけた話、大して面白い記事はまだ書けていません。これから頑張るつもりですが・・ それでも、ごく稀に突然変異の如く一つのサイトで一つの記事が、ちょっと大げさに言えば、爆発的に読まれるということが起こります。 例えば僕のこの前の記事は、
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