1941年12月8日(現地時間7日)、旧日本軍が米ハワイ・オアフ島の真珠湾の米軍基地や艦隊を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。米側は約2400人が死亡し、戦艦アリゾナなどが沈没。日本側は航空機29機などを失い、約60人が死亡したとされています。あれから80年。戦争を体験した人が少なくなる中、戦禍を次世代に語り継ぐことが欠かせません。当時の記憶を伝える記事をまとめました。終戦直前、広島に投下
織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠が、京都の警察業務を担当していた組織に対して権益を認めることなどを記した「朱印状」と呼ばれる書状が3点まとまった形で確認され、調査を行った専門家は「この組織と天下人との関係が総合的に分かり、非常に貴重だ」としています。 室町時代から江戸時代の京都では、4つの家からなる「四座雑色(しざぞうしき)」と呼ばれる組織が、ろう屋の管理や要人の警護などの警察業務を担当していました。 このうち1つの家に伝わったとみられる、およそ80点の文書を東京都内の男性が古美術商から購入し、東京大学史料編纂所が調査しました。 調査を行った村井祐樹准教授によりますと、このうちの3点は、織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠の3人の天下人が出した書状の原本と判断されました。 それぞれ後世の写しが残されていますが、立場の上の人が目下の人に出す「朱印状」だったことが新たに分かったということです。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する戦国時代の大名、浅井長政が、姉川の戦いで織田信長に敗れたあと京都の寺に送った文書が見つかりました。寺への支配を示す内容で、専門家は、「長政が敗れたあとも京都に影響力を残し、信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料だ」と指摘しています。 この文書は京都市左京区の寺、勝林院で見つかり、近江の戦国大名、浅井長政の研究を続けている滋賀県長浜市の太田浩司学芸専門監が調べた結果、花押や内容から長政がこの寺に送った「安堵状」と判断されました。 安堵状は、幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行したもので、今回見つかった文書には「領地異議あるべからず候」と記されています。 この文書が書かれたのは西暦1570年にあたる元亀元年の11月で、長政はこの5か月前に姉川の戦いで織田信長と徳川家康の軍勢に敗れています。 中世の歴史に詳しい関西学
堺市出身の与謝野晶子といえば歌集「みだれ髪」などで知られ、「情熱的歌人」というイメージが強い。だが今、100年前の評論で政府の感染症対策を厳しく批判していたことから、思想家としての側面が注目されている。文学的表現力と論理的思考力を兼ね備えた作品に魅了される人も多い。「なぜ休業命じぬ」スペイン風邪が猛威を振るった1918年、晶子は「感冒の床から」と題した評論でこう書いた。「米騒動の時にはおもだ
逆境に直面した時、人々は歴史を変えるほど大きな決断を下し、劇的な大逆転を遂げてきた。そんな物語47篇を収録した書籍『逆境だらけの人類史』(日経ナショナル ジオグラフィック社刊)から、カエサルの決断を紹介しよう。◇ ◇ ◇「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。ルビコン自体は、大
中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「不幸でも悪女でもなかった虞美人 史記が語る英雄の愛」) 多くの国が攻防を繰り返した古代中国では、外交の術が磨かれました。「だまし合い」は世の常ですが、その前に、言葉によって相手の心を動かし信頼されることが必要になります。それができる、あるいは楽しめるのは、高い外交能力の持ち主でしょう。今回は史記「蘇秦(そしん)列伝」をもとに、言葉の力で6つの国の宰相を兼ねるほど出世した「外交
1347年のある日、地中海の港に停泊した大型帆船から、歴史上最も危険な疫病の1つが解き放たれた。「黒死病」だ。積荷や乗客に紛れて上陸したネズミたちには、病原菌をもつノミが付いていた。同じことがヨーロッパじゅうの港で繰り返された結果、1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミック(世界的な大流行)は史上最悪の規模となり、ヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたとされる。
3月8日は国際女性デーだった。世界の人々はこの日、人口の約半数を占める女性たちの功績を改めて称える。最近では、セレブやブランドが女性を称える日のようになっているが、そのルーツは思いのほか過激である。国際女性デーは、今から100年以上前に、女性の平等な権利を希求する社会主義運動のリーダーによって提唱された。1909年、米国では労働運動と女性参政権運動が高まっていた。ロシアからの難民で、労働組合を
今から100年前の1920年1月、米国で憲法修正第18条が発効され、米国内でのアルコール飲料の醸造と販売は違法になった。推進派はこれを「高貴な実験」と掲げ、全米の禁酒法支持者が称賛した。元野球選手で、禁酒推進に貢献したビリー・サンデーは、1万人の聴衆を前にこう語った。「今夜、午前0時を回れば、新しい国が生まれます。明晰(めいせき)な考えと好ましいマナーの時代が始まるのです。スラム街はすぐに過去
豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3か月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかりました。秀吉は、実子の秀頼が生まれたことで秀次と不仲になったというのが通説ですが、調査にあたった専門家は「秀吉が簡単に秀次一家を潰そうとしていなかったことを示す意味のある発見だ」と指摘しています。 その結果、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状と判断され、この中に、豊臣秀次の息子を今の奈良県にあたる大和の国主にするという秀吉の発言が記されていたということです。 秀次は、跡継ぎのいなかった秀吉の養子になったあと、関白の職についていましたが、この書状が書かれた3か月ほどあとに謹慎させられ切腹し、妻や子どもも処刑されました。 村井准教授によりますと、秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに不仲になったというのが通説ですが
30年前の天安門事件は、中国共産党の強権的な政治の原点でもある。 NHKスペシャル「天安門事件~運命を決めた50日」の取材チームは、当時の状況を掘り起こすため、多くの関係者を取材した。 中でも、事件で失脚した当時の共産党トップ、趙紫陽総書記の元秘書、鮑(注1)トウ氏の証言は、政権の最奥部で事件を間近に見た1人として歴史的価値が高いものだった。事件は、中国をどう運命づけたのか、鮑トウ氏の証言を中心に改めて振り返る。(文責:中国総局記者 奥谷龍太) (注1:鮑トウ氏の「トウ」=丹につくりは彡) 趙紫陽総書記の元秘書だった鮑トウ氏は、天安門事件は「(注2)トウ小平の陰謀」だと言う。 天安門事件が起きる前の1980年代の中国は、共産党主導で改革開放が進み、経済の改革だけでなく、政治改革もゆっくりとだが進んでいた。 (注2:トウ小平の「トウ」=登におおざと) 1982年から胡耀邦、1987年から趙紫
「今も戦友の夢を見るんだ。インパール進軍の前、マライ(マレー半島)にいた頃の元気な姿のな……」死者に名を呼ばれ、目覚める。ここはどこなのか。不思議な心持ちになる。山形との県境に近い新潟県村上市の里山で暮らす佐藤哲雄さん(99)。9月で100歳になる。1940年4月の入営から47年5月の本土復員まで7年間の従軍と抑留の日々を記録した「軍歴調書」を参照しつつ、75年前のインパール作戦の記憶を4
スペインのバルセロナにある世界的な観光名所、サグラダ・ファミリア教会は、長年許可がないまま建設が続いている状態でしたが、このほど市からようやく正式な建設の許可がおりました。2026年の完成に向けてバルセロナ市と教会側は協力していくことになります。 教会は、137年前の1882年に着工し、いまも建設が続いていますが、3年前、バルセロナ市が「建設の許可がない」と指摘し、許可の有無をめぐって論争となっていました。 着工当時は別の自治体だったため、バルセロナ市に合併された際に建設の許可が更新されなかったためと見られています。 このため、市と教会の建設を担う委員会が3年にわたって交渉を行ってきましたが、両者は公式ホームページを通じて、今月7日に市から正式な建設の許可が出されたと発表しました。 発表によりますと、教会側が建設にかかる税金として460万ユーロ、日本円で5億6000万円余りを市に支払い、市
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