野村一夫 渋谷区, 東京都, Japan のむらかずお。1955年生まれ。国学院大学経済学部教授。90年代は東京の私学中心に教養の社会学を、00年代10年代は経済学部で情報メディア系科目を担当。もっぱら教えるための研究をしてきたが、20年代は知識理論を研究中。かろうじて言葉だけで生きている69歳。 詳細プロフィールを表示
『コミュニケーションは「まなざし」によって成立する ボクはネットコミュニケーションが大好きで、その可能性に期待しているが、信用はしていない。これはネットコミュニケーションを始めて、数年たち、いろいろ体験したボクの率直な感想である。 言語行為論に「コンスタティブ/パフォーマティブ」という考え方がある。たとえば母親が子供に「もう、好きにしなさい!」としかるとき、コンスタティブな意味、すなわち文章そのままの意味は「好きなようにしていい」であり、パフォーマティブな意味、その文章によって指示される意味は、「かってなことはするな」である。このようなパフォーマティブな意味=「真意」の読みとりは、それが言ったのは母親である、怒っている、などなどの、メタレベルでその場の状況(コンテクスト)が理解されて始めて、理解できるものである。 コミュニケーションは、本質的には「コンスタティブな情報を伝えあうこと」と理解
コンスタティブな言語意味に回収できない(溢るる)余剰とは、たとえば、絵を見て、音楽を聴いてなど、言語で表せないわき上がる感情というような感じでしょうか。結局、それはシニフィアンに回収されるわけですが。たとえば、ペットの「ミミ」へのわき上がる「いとおしさ」という言語だけであらわしきれない感情は、「ミミ」というシニフィアンに回収されます。そして「ミミ」は、神性が捏造される、というのは、偶像化される。 このような余剰は、すべての言語に含まれているのではないだろうか。「りんご」という言語に余剰はあるか?そもそも、言語はそれだけ取り出すのは不可能であり、コンテクストとは切り離せない。すなわちすべてコミュニケーションとして現れる。私は「りんご」と言うときには、そのコミュニケーションにおいて、コンスタティブ以上の言語意味が含まれている。(シニフィアンの浮遊性) たとえば、デリダは言語行為論の反論として、
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