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さて。 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070119/p1 いくつも問題はあるが、まず指摘しなければならないのは冒頭での問題提起だ。 システムとしての社会論理から敷衍して批判すること、また、システムが基盤に している倫理から批判すること(つまりシステム上いかなるメリット、デメリット があるか)と、それを唯一絶対無比な正義とすることはまったく違うことである。 これは正確ではあるが、単にそれだけであり、実際は的外れな問題提起である。 というのは、この問題提起が松永氏のエントリで問題にされているものとは全然 噛み合っていないからだ。それは何もリンク先の間違いというだけの事ではない。 ここでの文言を見れば、何か松永氏が「社会論理を唯一絶対無比な正義とする」 事を問題視したかのように読めるが、さてそれはどうなのだろう。その点について Mr_Rancelot氏は
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
私の文章が支離滅裂なのは文才無さの故、言い訳でしかないがご容赦願いたい。駄文をたまにしか書かないブログにはトラックバック自体が珍しいので反応してみたい。 2007-01-16 いや、「支離滅裂」はごもっとも。返す言葉もない。 嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。 どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。 嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。 言及記事の方を読まれていないのだろうか。それによって違うのだが。 ある行為をしている(した)相手に対して「嫌いだ」と云うのは、禁止のニュアンスであろう。タバコを吸っている人に対する「私はタバコが嫌いだ」は「やめろ」のメッセージではないか。 言及記事が「嫌いだ」を繰り返すことで「禁止」のメッセージを強く発している(と読んだ)ので、「そこまで云うなら、ハッキリ「やめろ」と云えばいいんじゃない?」というつもりで前記事を書いたわけなのだが。 これはつ
「社会正義」から逃げることはできない - z0racの日記 何言ってるんだろう、この人。 これらは(勝手に要約してしまえば)、「個人的な「正しさ」を「社会(的)正義」として主張してはならない」という批判であろうが、 これがまず分からない。 この意見が導き出されたのが 4) しかし、自分の考える個人的な「正しさ」を、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」として主張する人がいる。私はそういうのは嫌いだ。 5) また、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」を勝手に想定し、自分ではなく世間や社会の要請として押しつける人がいる。私はそういうのは嫌いだ。 という点なのがさらに分からない。 嫌いだ、と言ってるだけじゃないのか。 どこに禁止のニュアンスがあるのだろう。 嫌いと禁止がイコールで結ばれるってどんな思想よ。 私の主張は全く逆である。「個人の「正しさ」を社会正義として主張せよ。」但し、社会
社会正義が「いやらしい」のは認めるが、だからと云って「個人の正しさ」に逃げ込んでも無責任になるだけである。 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ[絵文録ことのは]2007/01/13 2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ[絵文録ことのは]2007/01/15 言及記事は連作と云えるのでまとめてリンクする。 先の「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」の大きな矛盾は、「2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ」で論点を「2ちゃんねる」の詳細に絞ることにより消し去られている。 が、間接的にでも先行記事で提示された「社会正義のいやらしさ」は解消されないまま、法治主義として棚上げされてしまったのは残念である。個人的には別記事としてそちらを論じて欲しいものだ。 別段「2ちゃんねる」を擁護するのではないが、記事の「2ちゃんねる批判」*1の
もういくつ寝ると 今年のはじめにやりたいことリストを作った。今見たら50項目あるリストのうち25個が達成済みだった。ちょうど半分やりたいことをやったということだ。私にしてはまあまあの結果だと思う。満足。 やりたいことリストにあるもののうち、「〜を食べたい」系は概ねクリアし…
芸の無いタイトルですが、芸の無いエントリへのトラックバック用にはふさわしいかと。 【絵文録ことのは】:2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ http://www.kotono8.com/2007/01/13justice.html はいはい(苦笑)。音羽 さんレベルのかわいらしい作文ですね。多少マシなのは、あくまでご自身の意見であることを強調なさっており、自分の側に社会があるかのごとく振舞ってはいないことですね。まあでも真面目に読む価値は無いので、流し読みでどうぞ。 エントリを拝見して私が最初に思ったのは、松永英明 さんご自身が追記でおっしゃっていることそのものです。 ■追記その2:1/14 15:45 ( ;^ω^)<へいわぼけ: 「自分たちは正義である。だから何をやっても正しい」 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ 2ちゃんねるをマスコミに置き換えても文意は変わらんような そのとおり
まぁ、潰れる潰れると評判の2ちゃんねるですが、2ちゃんねるは就業時間の合間の心のオアシスなので、潰れないで欲しいものですなぁ。さて。 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ http://www.kotono8.com/2007/01/13justice.html これ読んで、「2ちゃんねらー」の定義についてちょいと考えてみた。 結論からいうと、「2ちゃんねらー」ってのは誰でもないんだと思う。 松永さんによる「2ちゃんねらー」の定義は 「2ちゃんねらー」と言ってもいろいろな人たちがいるのは当然である。たまたま検索結果で2ちゃんねるのページを閲覧した人も、毎日毎時間書き込んでいるvipperも、どちらも「2ちゃんねる利用者」であることには違いがない。 このページでは仮に「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、2ちゃんねるが批判されると腹が立つ人である。 と言った
ドメイン差し押さえがあろうとなかろうと、2ちゃんねるは(いかなる形であれ)続くと思われるが、2ちゃんねるの最大の致命的欠陥を修正しないと、問題はさらに大きくなる一方だろうと思う。 それは2ちゃんねるには「誰も責任を取らないシステム」が存在しているという意味である。だが、その「誰も責任を取らないシステム」が続く限り、2ちゃんねるはいずれ立ち行かなくなるだろう。 簡単に言えば、「ひろゆきは、2ちゃんねらーに責任を負わせればいい」ということである――とこれだけを読むと意味がわからないだろうから、長々と説明する。 ■2ちゃんねるは誰も責任を取らないシステムである 小難しいのは嫌いなので :kyoumoeの日記(ミス・ユニバース豪州代表) 短くまとめる :kyoumoeの日記(ミス・ユニバース豪州代表) 今、2ちゃんねらーが為すべきこと。 それはひろゆきに責任を取らせることでも、外圧に立ち向かうこと
松永さんへの再度の質問-帰属意識と正義感 先ずは丁寧な返事を書いて頂いた事に感謝します。 「「祭りキター」という大騒ぎの尻馬に乗っかりたい」も「自分(たち)がしたことが社会に影響を及ぼす様子を見て快楽を得たい」も、背景に「正義感」(つまり、自分が乗っかっても非難されることはないという思い)があるからこそ可能であると考え、「正義感」という言葉を使ったのです。 それから、同一人ではないとしても、彼らは2ちゃんねるを総体としてとらえている(だからこそ「帰属意識」という言葉を最初に説明した)。したがって、2ちゃんねるコミュニティにおける社会正義にのっとって行動しているといえる(個人の正義なら、何も必死でゴミ拾いや折り鶴を持ち出す必要はない)。 したがって、彼らは「2ちゃんねる」というコミュニティに所属し、そこで社会正義と認められた対象に対して行動を起こすという意味において、記事を書いたのです。
「自分たちは正義である。だから何をやっても正しい」 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ :様々なニュースを適当に貼っていくブログサイト。無駄な感想つき。 1:も差し押さえられそうです 2007/01/14(日) 00:05:43 ID:fdNcfqZY0● ドメイン差し押さえが報じられている2ちゃんねるであるが、2ちゃんねらーが様々な騒動を起こすとき、そこには「正義に基づく暴走」がみられるように思う。彼らは、正義の旗の下に「悪人」を糾弾し、正義の旗の下に「善意」を喧伝する。今なお続くmixi乗っ取り犯による自己正当化の発言を見ている限り、彼らはあくまでも自分たちの行動が正しく、それに反するものをすべて敵と見なす。 自分たちは正義である――だから何をやっても正しい、逆らう奴が悪い。そんな意識が2ちゃんねらーには見え隠れしている、と私は感じている。 ■悪意と善意 毎日新聞の記事「ネット
「2ちゃんねらー」は正義感だけで動いているか web 「2ちゃんねらー」は松永さんがご指摘になられるような正義感だけで動いているのでしょうか。 勿論松永さんが定義した正義感に基づいて行動している人もいるのかもしれませんけれど、そうではない人もいるのではないでしょうか。 私は、彼らが「悪意」に基づいているとは考えない。彼らは常に「善意」なのである。折り鶴やゴミ拾いはストレートな善意、逆に祭りとして叩く対象は「社会悪」であり、それを糾弾して社会をよくしようという「善意」なのである。 自分たちは「社会正義」である、したがって、社会正義に反するものを叩くのは正しいし、世の中のためなのだ――それが彼らの「2ちゃんねる型正義感」の根底にある。 2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13 松永さんのこの文章を読んで二つの疑問を抱きました。 一つは折り鶴を折った2ちゃんね
2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13を読んで色々思ったことを。うまくまとまらないのだけど。2ちゃんねらーの自分酔い2ちゃんねらーに限らず、「社会正義」を振りかざした発言というのは結構見かける。気付いてないだけで、知らずに振りかざしていることもあるかもしれない。「悪人」とされた人のことを、よく知りもしないコメンテーターが適当な世間的判断に基づいて、悪を断じ、糾弾し、憶測で動機を決めつける。「そんな対応じゃ世間は納得しない!」てのはマスコミが良く使う常套句。もしここで「俺は納得しない!」と言ったらすっきりするんだけど、そんなことを言ってくれるコメンテータはまずいない。「何て自分本位なコメンテータだ」と不満を持つ人の方が多いかもしれない。だから、「社会正義」を振りかざす考え方のほうが世間では一般的なんだろうな。そういう意味では、2ちゃんねらーが特におかしい
ドメイン差し押さえが報じられている2ちゃんねるであるが、2ちゃんねらーが様々な騒動を起こすとき、そこには「正義に基づく暴走」がみられるように思う。 彼らは、正義の旗の下に「悪人」を糾弾し、正義の旗の下に「善意」を喧伝する。今なお続くmixi乗っ取り犯による自己正当化の発言を見ている限り、彼らはあくまでも自分たちの行動が正しく、それに反するものをすべて敵と見なす。 自分たちは正義である――だから何をやっても正しい、逆らう奴が悪い。そんな意識が2ちゃんねらーには見え隠れしている、と私は感じている。 (ここで言う「2ちゃんねらー」の定義は後述する) ■悪意と善意 【磨】毎日新聞「ネット君臨」考-ITニュース:イザ! 毎日新聞の記事「ネット君臨」に対する反論として、産経新聞のコラムはこう書いている。 記事では「ネットでは住人たちが一つの話題に群がり、ときに『悪意』が燃えさかる。彼らはそれを『祭り』
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