イスラム圏では、名誉殺人という名で レイプの被害者であっても女が悪いと、平気で親兄弟といった家族が女性を殺しますが、なんでこんなに女性の扱いが悪い宗教なのでしょうか? イスラム圏では、名誉殺人という名で レイプの被害者であっても女が悪いと、平気で親兄弟といった家族が女性を殺しますが、なんでこんなに女性の扱いが悪い宗教なのでしょうか? 日本も女性の地位が低いので、キリスト教圏の白人から、日本もイスラムと大して変わらないみたいに思われている節がありますが、全然発想が違いますよね?
※2013年5月くらいに書いたらしい書きかけの文書。 哲学史と哲学的論題 哲学史は問題の花園である。 それは ふつうの人は どんな問題に関わってはいけないか を教えてくれる。暮らしの中で そうした特殊な問題に出会ったときには、その問題が出ないところまで戻ってやり直すか、それを回避するようなプラクティカルな手立てを何か考えるべきだ。しかし哲学的な問題に うっかり哲学的に取り組んでしまわないためには 哲学を学ぶ必要がある。自分が特殊な問題に出会っていることに気づくためには知識が要るのであって、哲学者を目指さない人が哲学(史)を学ぶ 第一の・そして最大の意義はそこにある、と私は思う。 他方、職業哲学者たちは そうした ふつうの人が関わってはいけない問題に 人類を代表して取り組んでいるのだから、敬意をもって遇するべきであろう。 アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式 (岩波文庫)
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。 さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。 「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。 「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。 簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼
カフェ院(カフェおぢ) @Wolfrandre 超混雑だった東海道新幹線の乗客が「立っているお年寄りをグリーン車に乗せるべきだ」とツイート→炎上 - NAVER まとめ http://t.co/3fT3KjDVWo 言わんとしていることは分かるけどその不公平を解消するとまた別に不条理な不公平が生じるんだよなぁ 2014-01-03 21:30:57 リンク www3.nhk.or.jp 有楽町駅近くの線路脇で火災 延焼中 NHKニュース 3日朝、東京・有楽町のJR有楽町駅近くのパチンコ店から火が出て周囲の建物にも燃え広がり、東京消防庁によりますと現在、4棟が延焼しているという& リンク NAVER まとめ 超混雑だった東海道新幹線の乗客が「立っているお年寄りをグリーン車に乗せるべきだ」とツイート�炎上 - NAVER まとめ 1月3日のUターンラッシュ最中に発生した運休騒ぎで激しい混雑に見
共同体主義(きょうどうたいしゅぎ、英: communitarianism)とは、20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値、良さを重んじる政治思想。コミュニタリアニズムとの表記も一般的である。 ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する社会学と徳倫理に大きな影響を受けた思想の一つであり、自由主義が徳倫理的な良さよりも公平性という正しさを優先させるのに対して、共同体主義は徳倫理的な良さを公平性という正しさに優先させる[1][2]。ここで言う徳倫理的良さとは共同体の価値である。 自由主義は価値(良さ)は主観的であり、個別の価値に基づいて社会のルール(正しさ)を構築してしまうとその価値を共有しない者が苦しむことになるので、まず公平性という正しさが必要であり、個人は公平性を冒さない範囲でのみ個別の価値を追求できると考えるが、共同体主義は価値は相当程度
実存主義の敗北は、かなりはっきりと政治的な理由によるものです。 サルトルはもともと「実存は本質に先立つ」というスローガンを掲げ、自ら行動する中で未決定の本質を絶えず作り直していく人間の姿を描きました。 しかしサルトルはこうした純粋に哲学的な記述にとどまらず、やがて自分の思想を政治活動に結び付け始めました。「行動する知識人」という言葉が用いられ始めた時期のことです。 サルトルからすると、自分がどのような歴史的状況におかれ、そして人間の在り方をより良いものにするためにどのようなことをしなければならないのか、知識人はこうしたことを考え、そして実行しなければならないというふうになりました。 こうしてサルトルはフランス政府の帝国主義的な政策に反対し、例えば、アルジェリア戦争ではアルジェリアの独立を熱烈に支持したりしました。こうした傾向の中で、サルトルほど熱心に活動していないという理由で文壇を追いやら
不完全性定理 1930年頃 一般的に言って、 「数学的に証明された」ことについては、もう議論の余地はない。 どんなに年月が経とうと、決して反論されることもなければ、 科学理論のように、よりすぐれた理論に取って代わられることもない。 主義主張にも善悪にも関係なく、また、どんな嫌なヤツが言ったとしても、 数学的に証明されたことは常に正しい。 まさに絶対的な正しさ。 「数学的証明」こそ、永遠不変の真理なのである。 だからこそ、数学を基盤にし、証明を積み重ねていけば、 いつかは「世界のすべての問題を解決するひとつの理論体系」 「世界の真理」 に到達できるのではないかと信じられていた。 さて、1930年頃のこと。 数学界の巨匠ヒルベルトは 「数学理論には矛盾は一切無く、 どんな問題でも真偽の判定が可能であること」 を完全に証明しようと、全数学者に一致協力するように呼びかけた。 これは「ヒルベルトプロ
不確定性原理 「ある粒子の運動量と位置を 同時に正確に知ることは、原理的に不可能である」 たとえば、なぜ、「そこに野球のボールがある」と認識できるかというと、 「太陽なり、電球なりから発せられた光が、ボールに当たり、 ボールから反射した光が、目の網膜に届く」 からである。 もし、光がボールとぶつかっても、跳ね返らなければ、透明なボールとなり、 誰もそこにボールがあるとは気付かないだろう。 ようするに、光がボールとぶつかって、跳ね返るから、 ボールの存在を認識できるのだ。 手で触って、「そこにボールがある」と認識できるのも仕組みは同じである。 手の「分子」が、ボールとぶつかって、跳ね返るから、 「ボールがそこにある」と感じたり、つかんだりできるのであって、 もし、手の「分子」がボールとぶつかっても跳ね返らなければ、 手はボールをすり抜けてしまい、 やっぱり、誰もそこにボールがあるとは気付かな
『哲学的な何か、あと科学とか』二見書房、2006年12月4日。ISBN 9784576061849。 『哲学的な何か、あと科学とか』(改訂版)二見書房〈二見文庫〉、2017年4月3日。ISBN 9784576170466。 『哲学的な何か、あと数学とか』二見書房、2008年12月11日。ISBN 9784576081762。 『哲学的な何か、あと数学とか』(改訂版)二見書房〈二見文庫〉、2018年2月1日。ISBN 9784576180151。 『史上最強の哲学入門』マガジン・マガジン〈SUN MAGAZINE MOOK〉、2010年4月14日。ISBN 9784896447323。 『史上最強の哲学入門』河出書房新社〈河出文庫〉、2015年11月6日。ISBN 9784309414133。 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』マガジン・マガジン〈SUN MAGAZINE MOOK〉、2
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1322553723 人間って、・・・動物であり、精神でもある。 この、二つの面に、人間を切り分けて、生きる意味を追究したのが、ハイデガー・ヤスパースの実存哲学です。 動物の欲望によって、食べ・生殖し・眠る人間・・・現存在、です。 精神によって、生きる意味に目ざめ、使命に燃える人・・・実存、と呼びます。 これは、サルトルの言う『実存』とは、まったく異なります。 高校の倫理の教科書に出て来ますが、キルケゴール→ニーチェ→ヤスパース という伝統の上にある、実存哲学です。 日本では、昭和30~40年代に、サルトルを共産主義とごっちゃにして、崇拝しました。 だから、当時に哲学を勉強した人は、サルトルに影響され過ぎて、ハイデガーを正しく理解できない。そんな人が、哲学の先生になって、今、
kobareroさん こういうふうに理解しました。 つまり kobareroさんは 新しい言語学を構想するという主題を持って対処していかれる。わたしは 単純に シニフィアンとシニフィエとの間に何の絆もないという恣意性を論駁するという目的のためにのみ 議論をしている。 ですから 音素=意義素説が――そうはおっしゃっていないのですが―― たとえ一部分で成立していても これを新規に言語学を構築するのには用いられないのだと。 ただ 細かいことをほじくり出すことになりますが 次のような表現には あいまいさが残るとは思います。つまり 《それぞれの言語を使う人々の歴史的背景や文化的背景に応じて、適切に分節することが、第二の恣意性の意味である。》(No.71) というとき 《歴史的背景や文化的背景》は ソシュール学説に立てば 言語の生成のあとのことではないかと考えられるからです。 なるほど 《文化的背景》
【絶対主義】 1 哲学で、絶対者または絶対的な真理や価値規準を認める立場。アブソリューティズム。 2 君主が絶対的権力をもって支配する専制的な政治形態。16~18世紀のヨーロッパで、封建国家から近代国家へ移行する過渡期に出現。王権神授説を背景に、常備軍と官僚制度に支えられ、経済政策としては重商主義をとった。市民革命によって近代国家へ移行。 【相対主義】 哲学で、人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、真理の絶対的な妥当性を認めない立場。ギリシアのソフィストたちが古典的代表者。
すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。 もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか? No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。 まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。 あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。 人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。 そ
2009年09月22日05:30 カテゴリ書評/画評/品評SciTech 不自由意思の源 - 書評 - つぎはぎだらけの脳と心 インターシフトより献本御礼。 つぎはぎだらけの脳と心 David J. Linden / 夏目 大訳 [原著:The Accidental Mind] 「プルーストとイカ」、「脳の中の身体地図」に続く同社の「脳シリーズ」三作目は、「単純な脳、複雑な「私」」の池谷裕二をして、「同業者として"ネ神様"のような存在」と言わしめる著者による。 脳科学の本を通読している人には驚きは少ないかも知れないが、それだけに本書は脳科学の本として最良のまとめになっている。むしろ脳科学の本をほとんど読んでいない人がうらやましい。いきなり本書から始められるのだから。 本書「つぎはぎだらけの脳と心」の原題は、"The Accidental Mind"。表題どおり、脳と心がいかに Accide
大学の三年生ゼミは「草食系男子」について。 先般、四年生のゼミでも同じ主題が取り上げられたので、彼女たちからするとかなり喫緊の課題のようである。 発表後とりあえず全員に聞き取り調査をして、「あなたが知っている草食系の実像」についてご報告をうかがう。 いや、聞いてびっくり。 ゼミ生のほとんどの彼氏が「草食系」なのである。 特徴は すぐ泣く。 拗ねる。 「どうせぼくなんか・・・」といじける。 かわいこぶる(齧歯類系の「かわいさ」を演じるのが上手) メールに顔文字をたくさん使う。 優柔不断で、「何食べる?」「どこ行く?」といった質問に即答できない。 化粧品にうるさい。 肌を美白に保つことに熱心。 ヘア命(ヘアセットができてない姿を見られると、スッピンの女性のように身もだえするらしい) 家族と親密。 などなど。 こういう男子が20代に大量に存在しているらしい。 ううむ、そういうことになっているとは
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