【読売新聞】 奈良市の平城京跡で今年、聖武天皇が即位した724年に行われた皇位継承儀式「 大嘗祭 ( だいじょうさい ) 」に関連する木簡が出土した際に、儀式で使用されたと考えられる 柏 ( かしわ ) とみられる葉片が見つかったこ

聖武天皇の大嘗祭が営まれた大嘗宮跡=奈良市の平城宮跡で2024年3月17日午後0時18分、上野宏人撮影 奈良文化財研究所(奈良市)が平城宮跡近くで今春発掘した「大嘗祭(だいじょうさい)」に関係する木簡の中に、大嘗祭の中核をなす天皇と神が食事を共にする神事に使われる座布団や寝具を指すとみられる「神御茵(しとね)」と書かれた木簡片が見つかっていたことが分かった。周囲からはこの大嘗祭を行った聖武天皇(701~756)が儀式で使ったとみられるカシワの葉も出土しており、現存する文字史料より200年以上も前に既に中核の儀式が存在したことを示す証拠と言える。奈文研は22日から、出土した木簡を一般公開する。 大嘗祭は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)で、飛鳥時代の天武天皇から続く重要儀式。祖神が座るとされる「神座」と食卓をはさんで天皇が相対し、カシワの葉を編んだ容器に自ら供物を取り分けて食事を共
藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)から2001年に出土した飛鳥時代末期の木簡1点を奈良文化財研究所(奈文研)が再調査した結果、当時の役人が使っていた「九九早見表」の一部とみられることが分かり、同研究所紀要で4日公表した。担当した桑田訓也・主任研究員(古代史)によると、最古級の九九早見表の確認例。律令国家で九九が広く用いられたことを示す貴重な史料という。 木簡は長さ16・2センチ、幅1・2センチ。縦書きで1行に文字群が3段分書かれ、肉眼で「十一」「六」「六八」の計5文字のみ判別できた。奈文研は当初、1段目を「九々(くく)八十一」、3段目を「六八卌(しじゅう)八」と推定。九九を練習したメモ代わりの木簡と解釈した。
多賀城創建から1300年の今年、その歴史を伝える多賀城碑が国宝に指定されることになった。 この多賀城碑、実は長い間、「偽物」との疑いがかけられていた。 国宝指定に至るまでには偽作の学説を覆してきた知られざる研究成果があった。 2023年暮れ、多賀城創建1300年を記念して上演された音楽劇。 現在の多賀城の風景を背景にオペラやモダンダンス、能楽など様々なジャンルを取り入れ、多賀城の歴史を描いた。 演出した志賀野桂一さんは多賀城は想像力を掻き立てる魅力があるという。 演出家 志賀野佳一さん 「町の歴史を掘り下げると根っこがある。豊かな資源があるわけでそこから現代に使えるものを読み解いて表現の材料に使っていく」 「多賀城」は奈良時代、蝦夷と呼ばれた東北の人々を治めるため朝廷が設置した政治的・軍事的拠点だ。 その中心が政治や儀式を行う政庁。奈良の都・平城京を参考に作られた。 その一角にある「多賀城
8~9世紀の奈良・平安時代になると、都と地方とが道路網で結ばれた、古代律令国家が成立します。茨城県は常陸国(ひたちのくに)に属し、常陸国府(ひたちこくふ)(石岡市)を中心に、複数の郡に分かれ、中心となる役所の郡衙(ぐんが)間には、道路網が整備されます。 大洗町は、水戸市渡里町を中心とした那賀(なか)郡と、鹿嶋市神野向(かのむかい)遺跡を中心とした鹿島郡の境界付近に位置し、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に登場する平津駅家(ひらつのうまや)が存在しました。平津は地名で、駅家とは、幹線道路上で30里(約16km)ごとに馬を繋(つな)ぎとめた陸路の駅です。平津の場合は、水運の拠点としての水駅の機能が考えられており、常陸国府と繋がりながら陸奥国(むつのくに)にも開けた河川港として重要な位置を占めていたと考えることができます。 ↑平津の位置と古代道路想定路線 平津駅家は、これまで明確な遺構は発
市川市は25日、奈良・平安時代の役所「下総国府」があった国府台遺跡の発掘調査報告会を市役所で開き、重要な役所が集まる区画「国衙(こくが)」の位置をほぼ特定したと発表した。同時代の「下総国」の長だった国司が政務を行う「国庁」も、国衙の南側にあったと推定されるとしている。 市は、2019~23年度、国府台野球場の建て替えに伴い、計28回の調査で延べ約2万1000平方メートルの発掘調査を実施。24年3月にはレーダー探査で地下の遺構を調べた。 その結果、野球場の北側に東西220メートル、その西端から南側に隣接する千葉商科大学の敷地に及ぶ南北約300メートルの区画が見つかった。市川考古博物館の加藤貴之さんは「武蔵の国の国衙跡(東京都府中市)の規模が東西約200メートル、南北約300メートルだったことからも、ここが下総の国衙だったとみられる」と説明する。
奈良時代に都の中心だった奈良市の平城宮跡の近くで行われた発掘調査で、聖武天皇の即位に伴う儀式のために全国から届けられた米などの荷札とみられる木簡が大量に見つかりました。 調査した奈良文化財研究所は「儀式の当時の様子を知るための貴重な資料だ」としています。 奈良文化財研究所が奈良市にある平城宮跡の朱雀門の南側の一帯を発掘調査したところ、木の札、木簡が1000点以上まとまって見つかりました。 このうちの一部には▼天皇の即位に伴う儀式、「大嘗祭」を示す「大嘗」と書かれたものや、▼西暦724年を表す「神亀元年」という年号とともに現在の岡山県西部にあたる「備中国」という地名や「米」などの文字が書かれた札もあったということです。 神亀元年は東大寺の大仏造立に携わった聖武天皇が即位した年で、研究所では見つかった木簡は聖武天皇の即位に伴う儀式のために全国から都に届けられた物資の荷札とみられるとしています。
元興寺文化財研究所は4日、奈良市西大寺北町1丁目の「平城京右京北辺三坊五・六坪(うきょうほくへんさんぼうごろくつぼ)」遺跡から、築地塀の跡や溝、「修理」とヘラで刻まれた丸瓦などを発見したと発表した。…
「石巻かほく」は三陸河北新報社が石巻地方で発行する日刊紙です。古くから私たちの暮らしに寄り添ってきた猫のように愛らしく、高すぎず低すぎない目線を大切にします。
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