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ナショナリズムに関するrajendraのブックマーク (8)

  • 「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    松尾匡さんが、そのエッセイで、わたくしと田中秀臣氏を「ナショナリズム容認度高」に分類したことについて、わざわざ撤回しておられます。 http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html わたくしは、そもそもナショナリズムという、簡単に論ずるためだけにでも三重か四重の理論的道具立てを必要とするような代物を安易にウンコ投げゲームの道具に持ち出すこと自体に疑問を感じますが、現在のこの問題をめぐる議論の水準があまりにも低すぎることもあり、渦中の松尾さんがこういう対応をされること自体については、諒と致します。 ウンコ投げゲームにのみ関心をお持ちの諸氏は、以下の記述は極めて面白くないと思われますので、お読みにならないことをお薦めいたします。 わたくしなりに、近代社会システムにおけるナショナリズムの意味を簡単にまとめた記述が、6年前に出版した『労働法政策』の冒頭の

    「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
    rajendra
    rajendra 2010/08/25
    "「ネーション共同体原理」は近代社会が「悪魔の挽き臼」から守るために創設せざるを得なかった危険有害な取扱注意の必須不可欠な器具"
  • ナショナリズムは国家を民衆のものにするか - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    『POSSE』第2号の萱野・高橋対談の続きです。 >その意味でも『蟹工船』のラストは重要ですね。ストライキをやっている蟹工船に軍隊が来て、労働者たちは自分たちを虐げている経営者を捕まえに来てくれたと思うのですが、実は自分たちを取り締まりに来た、というところです。国家は自分たちのためのものだと思ったら違ったわけですね。・・・国家の論理は民衆の論理とは違う。それを何とか一致させようとしたのがナショナリズムです。 戦前の労働運動史を読めば、官憲が経営者の味方をして労働者を弾圧する繰り返しです。それが初めてそうでなくなった時代-官憲が労働運動の味方をしてむしろ経営者を締め付けるようになった時代というのが、まさに大日帝国がナショナリズムを振りかざして中国に侵略していった時代であるということの深刻さをまじめに考えたことがない人間だけが、脳天気に「自由も平等もnationがベースではないのは自明。《人

    ナショナリズムは国家を民衆のものにするか - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
    rajendra
    rajendra 2008/12/31
    強く同意。>それをすでに知っている我々は、戦争を希望としない、もっといいナショナリズムのあらわし方を知っていなければならないはず
  • 『POSSE』第2号 - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    『POSSE』第2号をお送りいただきました。有り難うございます。ただ、坂倉さん、私は政策研究大学院大学はすでに6月で去っております。事務の人に転送していただくのも大変ですので、宛先を変えておいていただけますでしょうか。 http://npoposse.jp/magazine/no2 >特集テーマは、揃って08年流行語トップ10内に選ばれた、『蟹工船』と「名ばかり管理職」。いずれも08年を代表するトピックになりました。 しかし、これらが着目された背景やそこにある問題は、08年になって初めて現れたわけでもなければ、ブームとして消費されてよいものでもありません。単に「悲惨な労働の現実」の象徴に終わらせるのではなく、現実を変えていくための課題としていくために、『POSSE』ならではの問題提起や政策議論をしています。 目次は次の通りですが、 ●「金融危機と派遣切り ―派遣政策の抜的転換を」 今野晴

    『POSSE』第2号 - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
    rajendra
    rajendra 2008/12/31
    実際のところ、よりましな連帯の基盤ってのを探すと、ナショナリズムより実効性のありそうなアイデアはないな。
  • 第4回 気分はもう戦争・そのIV | WIRED VISION

    第4回 気分はもう戦争・そのIV 2007年8月20日 社会 コメント: トラックバック (2) (小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」第3回より続く) で、徴兵制である。 不肖小田中は、1990年代にフランスで暮らしたことがあるが、けっこう街中を徴兵された若者をのせた軍のおんぼろバスが走っていた記憶がある。たった(?)10ヶ月とはいえ、自分でやりたいと思ったわけではないことに青春をついやすのは、やっぱりうれしいことじゃない……と、ぼくは思う。 それでも徴兵制が受容されるには、かなりの強制力が必要だろう。徴兵制を批判する人々を弾圧し、徴兵を逃れようとする人々を地球の果てまで追跡する、とかね。でも、これってかなりコストがかかりそうだ。もうちょっとスマートな方法はないものか。 もちろん、ある。いちばん簡単なのは、プラスのイメージを与えることだ。そう、国防は国民の義務ではなくて権利であ

    rajendra
    rajendra 2007/08/28
    "右翼政党が対独復讐を唱え、左翼政党が植民地獲得を求める、という外交・軍事政策の対立があった。でも、どっちもナショナリズムに基づいていたことにかわりはない。"
  • 左のナショナリズム - Baatarismの溜息通信

    7/9の日記では麻生太郎氏にナショナリズムの臭いがしないという話をしましたが、彼のナショナリズム観もちょっと独特なところがあります。「自由と繁栄の弧」でも取り上げられていたソートリーダーに関する話の中に、それが伺える場所があります。 日が恐らく、最大のコストを払って学んだ難問とは、ナショナリズムの扱い方だったのではないかと思います。 わが国ナショナリズムの昂じるところ、過去の歴史において、韓国中国を始めとするアジアの国々で無辜の民を苦しめたことは、引き続き謙虚な反省の念をもって臨まなくてはならない問題です。また先の大戦では、われわれ自身に多くの犠牲を生んだことでもありました。 そればかりではありません。日の現代史は、民主主義の激情が、容易にナショナリズムの興奮へと転化しかねない事実をも教えています。若い民主主義は、ないし、民主主義を希求しようとする若いハートは、由来激しやすいのです。

    左のナショナリズム - Baatarismの溜息通信
  • ナショナリズムの由来 - 池田信夫 blog

    ナショナリズムは、現代の謎である。それは自由主義や共産主義のように一定の政治的な主張をもつ「主義」ではなく、ひとつのネーション(民族・国民)に所属しているという感情にすぎない。ところがアメリカのように「国民国家」ともいえない国が極端なナショナリズムを掲げて戦争に突入したり、民族とは関係のない「慰安婦」問題が日韓のナショナリズムを刺激したりする現状は、なかなか合理的には理解しにくい。 ただナショナリズムについては、教科書ともいうべき何冊かのがある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエルネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』あたりがナショナリズムをフィクションとする主流の立場で、それをある程度自然な民族感情とする立場としては、アンソニー・スミス『ネイションとエスニシティ』といったところだろうか。 アンダーソン流の理解は、印刷資主義によって各地の言語や文化が統合された「国語」

  • 「最後の授業」と、ナショナリズム - 殿下執務室2.0 β1

    相当昔のブロゴスフィアで話題になったことを、ふと思い出したので、適当にメモ書きしておく。 ◆『最後の授業』はフィクション度が高い@ARTIFACT ―人工事実― ◆NHK「ひるどき日列島」と国語教育@余丁町散人(橋尚幸)の隠居小屋 ◆最後の授業@詞織 ◆「最後の授業」の神話性@it1127の日記 ◆帰国生からみた『最後の授業』と歴史教育 ◆『パリ・アルザス・プロヴァンス ―アルフォンス・ドーデ『最後の授業』の問題域』 「最後の授業」というのは、ある程度我々の世代以上にしか通じない話題、ではあろう。 自分の時にはまだかろうじて残っていたらしいが、私自身の記憶としては、小学校の高学年の時に姉の教科書で読んで感動したけど、自分がその年になった時の教科書には存在しなかったくらいの呼吸で落ち着くので、ちょうど30代真ん中辺りが分水嶺となるのではないかなと。この作品が何故に国語の教科書に採用されな

    rajendra
    rajendra 2007/03/07
    こういうエントリは殿下の筆が冴える。
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    2024/12/27 ベイスターズのドキュメンタリー映画「勝ち切る覚悟」を見た! シーズン終盤~日シリーズ優勝までの舞台裏を抑えたドキュメンタリーで、ベンチ裏での映像がメインとなっている。ナレーションは無く、説明がほとんど無いので「いつ何があったか」があらかじめわかって…

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    rajendra
    rajendra 2007/02/23
    首肯できるが、自身の誇りと仲間の誇りの差異については自分は留保かな。>もし他の国民の功績を自らの誇りとしてカウントするのであれば、倫理的な観点からすれば、他の国民が犯した罪を自らの責任とする義務が生じ
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